終わりの日:「だれも知りません」とは「いつ来てもおかしくない」

「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。」という御言葉は、「いつ来るか分からないから気にしなくていいや!」ではなく、「いつ来てもおかしくないから、いつも準備を!」ということ

(フェイスブック投稿からの転載)

 終わりの時について、しばしば、「20年前も、30年前も、同じことを話していて、何も起こっていないではないか?」という意見をしばしば耳にします。私は、そこに一つの時間の捉え方の誤りがあるのではないかと思います。その一方で、一昨日(2月13日夜)のような大きな地震が起こると、そういった時だけ、世の終わりが近いと盛り上がる傾向もあります。

 時間的な計測で終わりが近いかどうかを測るのは、ちょうど、自分が崖っぷちにどれだけ近づいているのか?という見方だと思います。聖書の「終わりの時」は、そうではなく、崖っぷちに並行で歩いていて、「いつでも終わりが来る」という切迫感の中で私たちが生きるように命じられているのではないでしょうか?

 だから、主が来られてからも「終わりの時」(ヘブル1:2)であるし、使徒たちも自分たちの生きている時に終わりが来ることを前提に教えていたし、私たちも今が終わりの時だとして生きるのだと思います。「終わりの時」という、永遠の神によって定められた時を、私たちは「並行して歩いている」と理解しています。

 実に、「終わりの日」という言葉が始めに出て来るのは、初めの書、創世記なのです。ヤコブが臨終のときに、12人の息子に対して、それぞれの部族に起こることを語りました(49:1)。この時からすでに、神を信じる者たちは、終わりを意識して生きるように命じられていました。

生活の実感としての「時」

 ところで、聖書に限らず、一般にも知られている情報ですが、「時」にはギリシア語で二つあり、「クロノス」と「カイロス」があります。クロノスというのは、英語のchronology(時系列)という言葉にあるように、時計によって測ることのできる時間です。一方、「カイロス」は、「収穫の時」というような時に使われて、「ちょうどよい時期」「機会」などのようなものです。時間の計測ではなく、人間の実感に基づくものです。

『クロノスとカイロス』

FOR EMPLOYEES TO DELIVER CX EXCELLENCE, ANCIENT GREEKS HAD WORDS FOR IT: CHRONOS AND KAIROS

 カイロスにおいては、特別な意味を持つ時を指し、シェア元の記事にあるように、子供にはその感覚が強くあります。大切だと思われる事は長く感じて、そうでない時間は、瞬く間に過ぎ去ってしまいます。

 聖書で、旧約ではアッシリア捕囚、バビロン捕囚直前に、ほとんどの預言者が集中していますし、新約では福音書で、主の十字架と復活、黙示録では主の再臨に多くの頁が割かれています。神にとって大事な「時」だからです。

「終わり」は「破滅」以上に「完成」

 そして「終わりの時」というのは、聖書では物事が終了するのではなく、むしろ「完成、成就」する時として描かれています。ですから、破局や破滅以上に、むしろ希望であり、待ち遠しいことであり、期待していることです。

 イエス様が、ご自身の十字架の苦しみについても、世の終わりについても、妊婦の「産みの苦しみ(陣痛)」に喩えられたように、苦しみはいよいよますけれども、それは喜び、解放、自由が近づいていることでもあるのだとして、うめきつつ希望を抱くための力になっています。長距離ランナーの、ゴールが近づいた状態にも似ているでしょう。

 だから、私は「時は近い」というイエス様の言葉をそのまま信じています。いつでも、終わりは来ると信じています。だからこそ、「今の時を大事に生きる」。これは、例えば、病にかかったり、自分の死が近いことを意識された方なら実感している言葉ではないでしょうか?それは個人の終末ですが、世界の終末も同じようにして考えればよいと思っています。

 だから、20年前、30年前に語ったことが今に至るまで起こっていなくても、それでも「終わりは近い」と語り続けるのです。

 

「父だけが知っておられる」の意味

 マタイ24章36節「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」ですが、37節以降のイエス様の警告から、「いつ来てもおかしくない」という”文脈”だと解釈しています。ノアの日、盗人、主人の帰宅、十人の乙女、すべてが、いつ来てもおかしくない、という喩えです。私は、「いつ来る?」と言う時間設定をしてはいけないと思っていますが、「いつ来てもおかしくない」という目的で、「いつの日、いつの時か分からない」とおっしゃったのだと理解しています。

 工事現場の例をとれば、監督がいない時も、たった今、来ても恥ずかしくない仕事をする、とうことだと理解しています。人間の監督は、ノルマとして急き立てる言葉をしばしば使いますが、イエス様の場合は「忠実さ」を語っておられるので、”その時点で”仕事をしっかりと行っているかが問われます。

 そして、御父のみが知っておられるというのは、権威を語っていると思います。

 以下の映画(と原作の本)が、ガリラヤの婚礼の背景が濃厚にあるという解説があります。花婿が父の家で、すべて花嫁を迎える準備ができて、さあ、花嫁をfetch(迎え)に行こうとしたら、「いや、まだだ」と父が止めます。父がこの時だと決めた日、時にでないと、花婿は行列を組んで花嫁のところに迎えに行けないのだそうです。いつ何時、父が、「さあ迎えに行きなさい」というか分からないから、用心している、目を覚ましている、という心備えが必要だと理解しています。

御怒りの前に(Before the Wrath)

 ただ「知らない」とだけ言えば、「だったら気にしなくていい!」と誤解している方々が多いのではないか?それで、いささかの懸念があって、投稿しました。

参照記事:「“いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?

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