Bible Projectのすばらしさと注意点

(3月5日のフェイスブックの投稿です)

聖書プロジェクト BibleProject – Japanese

 今はSNSの時代、すべてのことが短く端的にまとめられていることが問われている時代になっています。その中で、聖書全体で何が語られているのか?をアニメーションと共に説明するBible Projectは、非常に優れた教材です。昨日も、教会で次からローマ人への手紙の講解に入るので、ローマ人への手紙の2つの動画を観ました。

 ただ、一つの不安がよぎりました。「じっくり聖書を自分で読んだ人には、整理するのに有益だが、その逆であってはいけない。」ということです。つまり、この動画を見て、それでその解説に沿って聖書を読み、それこそが聖書の教えていることなのだと同一視する危険もあるからです。

 全体の流れを把握する時も、その把握している人によって、視点が少しずつ変わってきます。ローマ人への手紙の二つの動画も、とても分かりやすく、気づかされた点が多くありましたが、「ここは、ちょっと?」と思われる部分もわずかにありました。当然ながら、作成者の聖書理解の枠組みが影響されています。

 それで、ある人は批判をし、またある人はこれを信じ込んでしまい、他の読み方をする人々を裁いてしまいます。元々の問題がなおざりにされており、それは、「聖書を自分自身で読んで、悩みつつ、求め続ける」という姿勢の欠如だからです。

 Bible Projectはすばらしいと私は思っています。それは細かい点まですべて正しい、間違っていないという意味ではありません。聖書を取り組んでいるのですから、それは無限の神のことばであり、それを解釈する者たちが有限であり、私たちがすべてを把握することなど不可能なのは、当然だからです。

 時にキリスト者は、「把握すること」が目的になっていることがあります。神を知ることが、神を把握することだといつの間にか思い込むのです。人間にとって、分からない時に、じれったくなり、そのジレンマにいることが耐え難いと感じます。それで、いつの間にか、体系立てられたもの、まとめられたものに偏り、それこそが「聖書的」だとして、自分の信念を振りかざしていることがあります。酷い時は、非聖書的として排除します。そうやって、教会は教理や教義の違いで分裂してきました。

「私たちは教団ではありませんが、教団に反対しているのでもありません。教団が、キリストのからだに分裂をもたらしてきた教義的な違いをことさらに強調する点についてのみ、反対しています。」
カルバリーチャペルの信条

 けれども、神は敢えて、分からなくさせている、ジレンマの中に入れているのだと思います。目的は神を把握することではなく、神にひれ伏すことであり、与えられた啓示、その知識の前で神を仰ぎ見、栄光を見、ただ、「アーメン」と言って、こうべを垂れることだけです。ヨブの告白をいつも思います。

1 ヨブは【主】に答えた。
2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
3 あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。
4 あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。
5 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
6 それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。

(ヨブ記42章)

参考記事:「聖書をしっかり読む基本に戻ろう

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