権威不在の時代

以下は、フェイスブックに書き込んだ投稿に加筆したものです。

「上」におられる神から、「心の中」の神を求める現代

以前、「感情の絶対化」という題名のブログ記事を書きましたが、最近、あることで、その書いたことと重なる内容のことを聞きました。今の社会に起こっている、深刻な問題だと思います。硬軟に「権威そのものを認めない」という傾向があるということです。

「だから、われわれは自分の感情が神のように絶対正しいと考える傾向がある。教師や上司の指導にとりあえず従っているフリをしていても、腹の中では自分の方が絶対に正しいと考えているようなときは、感情に支配されていると考えてまず間違いない。」(上のブログからの引用)

職場にしろ、教会にしろ、どこにしろ、立てられている人に、なぜか反発心を抱き、従いたくないという強い感情が出て来ること。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態にまでなってしまうこと。もしそうなっているのであれば、そこから離れることが賢いのですが、それでも反発心を抱きながら、自分の居場所を見つけています。

いわゆる「切れて」しまっている傾向が今日、強いと感じています。ちょっとした不愉快なこと、不快なことについて、そう感じることは正常な感覚ですが、それをいつまでも継続的に抱き、人間関係まで完全に断ち切り、自己完結した私的な空間を作って孤立しているか、あるいは、その反発心によって仲間づくりをして分派を作っているか、どちらにしても感情を自分の立ち位置の基にしてしまっていることがあります。 続きを読む 権威不在の時代

ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

前投稿:「日本宣教と「ヘブライ的思考」

ヘブライ的な考え方について、西洋の考え方との対照表をご紹介しました。その中の項目の一つを考えたいと思います。

西洋の思考:「正確な分類をして生活をする」
ヘブライ思考:「全ては全てに重なり、曖昧である」

誰が救われているのか?

キリスト者にとって最も関心の高い、「神の救い」について話しましょう。救いの条件として、「信仰によってのみ」というのが、プロテスタント教会の私たちの信条です。誰が救われて、救われていないのかという議論が必ず出てきます。ところが福音書のイエス様の言葉を見てください、喩えが多くありますが、誰が救われて、救われていないのか?という区別なく、一つの忠告を与え、あるいは励ましています。救われているのか、いないのか?という「存在」を問うのはヘレニズム的です。けれども、「行なっているか、どうか」という「動いていること、活きていること」ことを問うのがヘブライ的です。イエス様の教えは明らかに後者でありました。

教えている「内容」が明確であり、それを知識的にしっかり把握していることはヘレニズム、ギリシヤ的なのですが、パウロがテモテに「敬虔にかなった教え」と指導したように、もっと敬虔さのほうに重きが置かれています。今日の教会は、「正しい信仰告白、信条」というものに重きを置くのに対して、ユダヤ教においては組織的な神学体系を持っておらず、個々の具体的な「教え」が中心になっています。

もちろん、信仰の内容、信条をはっきりさせている部分が、聖書にはたくさんあります。けれども、それは「生きている者たちの発せられる、活きた言葉」の中で告白していることであり、何か会社の議題で話し合いがまとまって、それで一つの信条告白をしているのではないのです。 続きを読む ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

日本宣教と「ヘブライ的思考」

以前、「西洋につながらないアジア宣教」において、話させていただいたことの続きです。また、「宗教改革五百年:福音宣教のパラダイムシフト」でご紹介したように、今年は宗教改革五百周年ですが、今のプロテスタントの趨勢を見ますと、圧倒的に非西洋圏(アフリカ、アジア、中南米、中東の一部)においてキリスト者の急増、教会の発展を見ても、欧米圏は衰退していている中、神によって日本に置かれている我々キリスト者もまた、この趨勢の中にいることを知らないといけないと思いました。

そこで「距離を置きたいような神学論議」において紹介させていただいた、次の書物を改めてご紹介したいと思います。

「私たちの父アブラハム」(マービン・R・ウィルソン著)
OurFatherAbraham

私たちが手にしている聖書は、西洋の産物ではなく、今のイスラエルから発したものです。それがパウロ等の福音宣教によって、欧州の文化の中に伝えられていきました。既に、ギリシヤの時代にユダヤ人のギリシヤ化が行なわれ、アンティオコス・エピファネス王による迫害は有名です(ダニエル書8章と11章)。その後に、元来のヘブル人の信仰を伝統的に保持したユダヤ人と、ヘレニズム(ギリシヤ)化したユダヤ人へと別れて、言語的にも、文化、ユダヤ教の中でも大きく分かれました。ヘレニズム文化と思想を熟知していながら、元来のユダヤ教の伝統を身に付けていたパウロだからこそ、欧州への宣教のために用いられたと言えるでしょう。 続きを読む 日本宣教と「ヘブライ的思考」

核戦争待望とキリスト待望

昨日、私たちの教会の礼拝は、聖書講解でダニエル書9章を読みました。午前と午後の二つの礼拝でそれぞれ前半と後半に分けて、じっくりと学びました。ダニエル書は個人的に、ずっと親しみをもって読んでいき、また何度となく教えて来た書物の一つです。けれども、時代が時代だけにますます真実味をもって読むことができました。

ダニエル書9章1‐19節(原稿 ・ 音声
ダニエル書9章20‐27節(原稿 ・ 音声

そうした学びの準備の中で、以前からとても気になっていた批判がありました。9章にある七十週についての解釈について、それをどのように解釈するのか?という釈義によって議論するのではなく、政治的に利用されていることを殊更に取り上げて、結果的に、自身も政治的になっておられることです。 続きを読む 核戦争待望とキリスト待望

ラオデキヤの教会から学ぶこと

東十条バイブルスタディ:黙示録3章14‐22節(音声 ・ 原稿

ついに終わった、黙示録の七つの教会!一つずつの教会に対するイエス様への言葉を、みっちり当時の歴史や遺跡を眺めながら見てきたので、ものすごく時間がかかりました。もちろん、線路は続くよ、どこまでも~で、次回は4章、「その後に起こること」を見ていきます。

所感:「神の賜物だけを求め、神ご自身を退ける時代

ラオデキヤの教会についての学び、深かった。現代社会に空気のように蔓延している最大の危機を取り扱っています。それは、「神とイエス様がなくても、神とイエス様と同じように自分たちで間に合っている」ということ。しかも、それが教会にある。つまり、「イエス様を必要としない、”間に合っています”教会」という究極の相矛盾した状態です。 続きを読む ラオデキヤの教会から学ぶこと

考古学が明らかにする聖書の真実

次の記事をフェイスブックで紹介したところ、日本語訳がほしいとのリクエストがありましたので、要約だけ書きますね。

「史実に存在していないと聖書を批評する歴史家が黙る、三つの発見」
(Three Things Historians Said Didn’t Exist – Until They Did)

歴史家や考古学者は、聖書外の文献資料がないという理由で、聖書に書かれてある人物や国、民族の存在を否定するのですが、実際に考古学の発掘でその存在が証明されている、という例を列挙しています。

ダニエル書5章のベルシャツァル

歴史家は、バビロニア帝国のナボニドスが最後の王であり、殺されたのではなく、囚人として連れて行かれたのであり、聖書のみがベルシャツァルを書き記している、としていた。

しかし、1854年「ナボニドゥスの円筒形碑文」を発見した。下の文章が書かれている。

「私ナボニドゥス、バビロンの王について、その神性に対する罪から我を救い給いますように。私に永きにわたる人生を贈り物として授け給いますように。そしてベルシャザル、私の一番上の息子については、あなたの偉大な神性への畏敬の念を彼の心に注ぎ給いますように。そして彼が宗教的な過ちを犯しませんように。彼が豊かな人生で満たされますように。」

続きを読む 考古学が明らかにする聖書の真実

「寛容」「謙遜」を装った聖書の否定

聖書の権威を巧妙に捨てていっている方法について、D.A.カーソン教授が語っています。英語が少し難しかったのですが、以下にまとめがありました。

D.A. Carson’s “Subtle Ways to Abandon the Authority of Scripture”

1.聖書を権威をもって教えている「福音派」とされている教会であっても、「これは、かなり否定的に聞こえる表現だ」というものであったり、「これを語れば、賛否両論が出てしまう」とか恐れたりして、敢えて語らないという傾向があるとのこと。例えば、癒しや異言など、聖霊の賜物の現代の有用性について。

私は、今の新改訳第三版の翻訳に大いに不満な部分がありますが、「らい病」の訳語を変えたその動機、また「(ユダヤ人の)捕われ人を帰す」がなぜか全て、「繁栄を元通りにする」とか、聖書翻訳の中にさえ、その書かれてある部分をぼかしています。聖書を教えている時は尚更です。(出版社のサイト続きを読む 「寛容」「謙遜」を装った聖書の否定

エゼキエル1章、10章のケルビム

今日から、教会ではエゼキエル書の講解が始まりました。

エゼキエル書1章28節「主の栄光と臨在」(音声 ・ 原稿

エゼキエル書1‐3章(音声 ・ 原稿

主が栄光をもってエゼキエルに臨んでくださいましたが、その御座の下にいたのはケルビムでした。その斬新な幻は、この預言書の中核をなしますが、今のコンピューターのグラフィックがあるからこそ、描ける、黙示的な幻かもしれません。ユーチューブで、日本語訳字幕ありの動画がありました。

とてもよく描けていると思いますが、それでもまだ本文を比べると、完全ではないと感じます。でも、完全に描けるものではないですね、元々。固定概念が付かないように、他のもご紹介します。

う~ん、良く描かれています(・・が、翼が重なり合っていない)。 続きを読む エゼキエル1章、10章のケルビム

お勧め翻訳サイト”DIVINE US”

以前もここで紹介させていただいたことがありますが、アメリカに在住している方で、数多くの聖書講解や聖書預言のメッセージを翻訳し、ユーチューブにアップロードしておられる「木下言波」さんのサイトがあります。

DIVINE US, INC

ユーチューブ・チャンネル

ブログ「神さんの言うとおり」

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カルバリーチャペルの聖書講解

主に訳しておられるのは、聖書講解であれば、カルバリーチャペルの牧者の中で良く知られている「ジョン・コーソン(Jon Courson)」さんによるものです。創世記と黙示録をずっと訳しておられます。

例:牧者ジョン・コーソンによる黙示録1章

カルバリーチャペルの聖書預言解説

そして聖書預言については、カルバリーチャペル・カネオヘの牧者「JDファラグ」さんによる「聖書預言アップデート」またイスラエル人ガイドAmir Tsafatiさんがあります。JDさんは、エジプト人の家系で、確かレバノン出身ですが、アラビア語の名前を使うとアメリカ人が発音できないので、JD(ジェイディー)と呼ばせているそうです。

例1:トルコにおけるクーデター未遂について(先月のもの)
https://youtu.be/ZIwPo4O_E_E

ぜひ、「お気に入り」に入れて、視聴し続けて見てください。

関連記事:「ハーベスト・クルセード2014(字幕付)

聖書全体で説かれるイエス・キリスト

「アーメン、アーメン」といって、ひれ伏すしかない説教を聞きました。

イエス様が、全ての聖書の各巻に現れておられ、最後の黙示録に怒涛の如く「啓示(これが「黙示」の元々の意味)」にされています!こういう説教、我々、日本の教会の牧者、説教者が置き忘れていないか?イエスが全ての全てであられる!聖書の中心、神のご計画の中心、創世記から黙示録まで「イエス・キリストご本人」であること。この方こそが私たちの必要の全てを満たされること。この方を宣べ伝える、宣言することが、礼拝の主目的であること。

この男の子を手本にしたい。 続きを読む 聖書全体で説かれるイエス・キリスト