韓国発の異端

先日、ある人と話していて、それが異端であることを私が思い出し、そのことを伝えました。韓国系の異端です。

日本では社会的問題を引き起こした韓国教会の問題が取り上げられ、私たちの知るところとなりますが、それ以外にも深刻な異端活動の問題が韓国内にはあります。規模が大きく、活発に見えるというだけで聖霊の働きだと混同しないように気をつけないといけないと思います。

私がよく耳にする異端をここにリスト・アップします。

「救い派」
救いの教理についてかなりの混乱のある団体です。「喜びのニュース宣教会」として活動を広げています。

神様の教会
創始者アン・サンホンを父なる神、その後継者チャン・キルジャを天の母としてあがめる団体です。

タラッパン(屋上の間,アッパー・ルーム)運動
上のウィキペディアの説明では、異端ではないと説明していますが、韓国の教会の共通認識では異端です。

新天地
上のクリスチャン新聞の記事を読んでください。これは恐ろしい異端で、既存の教会に奉仕者と称してスパイを送り込みます。教会の役職にまで、時には牧師にまで這い上がり、その後で教会全体を乗っ取ることを戦略として持っており、実際に行っています。

摂理
これは日本でもよく知られた、元統一協会員によって始まった異端です。上のリンク先以外にも、検索にかけたら膨大に日本語の資料を得られるでしょう。主に大学生が標的にされています。

その他にも膨大な数の異端が、韓国で発生しています。日本在住の韓国人を標的にし、そして日本人も取り組もうとしていますので注意しなければいけません。

ところで私がショックを受けたのは、上にリンクしたクリスチャン新聞の記事にある、韓国の方が異端について警鐘を鳴らした次の言葉です。

韓国のプロテスタント人口は25%と言われてきたが、近年は減少傾向で20%を切り861万人。それに対し異端カルトは200万人に急増しているという。朴氏は「毎年1万人がプロテスタントから異端に移る。そのうち異端がプロテスタントを上回ることも考えられる」と危機感を表した。

もはや、「韓国の教会はすばらしくて、日本の教会はその祝福に預からなければいけない。」という時代は終わったのです。(もちろん、対等な関係で個々の教会が協力をすることを否定するものではありません。)

そして、以前の記事「韓国に弱い日本の教会」に書いた同じことを、上の異端対策専門家がこう指摘しています。

陣氏は、韓国教会の弟子訓練が教会成長に重点を置き、教理教育が手薄だったと弱点を指摘する。牧師の子弟で新天地に入ってしまう例も多く、大学生伝道団体にも入り込んでいる。

「弟子訓練」そのものを否定はしませんが、けれどもどうしても「私たちがどうすべきか」に重きが置かれます。けれども信仰の中心はあくまでも、「神はどのような方か」であり、人の行ないではなく、神の栄光なのです。それには教理教育、あるいは聖書そのものを教える務めが必要なのです。神学校に丸投げしてはなりません。

真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う

下の「靖国神社参拝」の記事は、主に、保守を唱える不信者の日本人に対して書いたものですが、今度は、キリスト教関係者の方々にお伝えするものです。

以下の文面は、下の記事に引用したホーリネス教会の牧師によるものです。記録のため全文引用したいと思います。

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真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う

上中 栄
日本ホーリネス教団 鵠沼教会 牧師

 牧師家庭に育った筆者は、子どもの頃から劇的な罪の悔い改めの証しを聞いていた。十代の後半、それなりに信仰を得た筆者は、かつて万引きをした店へ行き、昔聞いた証し通りに謝った。

 しかし恥をしのんで告白するが、その時、自分の顔に「笑み」が浮かんできたことを覚えている。神に赦され、人にも赦されるであろう安堵感からくる罪の意識の低さが露わになった、実に軽々しい悔い改めであった。「キリスト者」を装った苦々しい思い出である。

 一 戦争責任の告白
 さて、戦時中に弾圧を受け、自らを被害者と理解してきたホーリネス系諸教派の中から、戦争責任を言い表す言葉が発せられた。筆者の連なる教団に関して言えば、その前身である日本聖教会の神社参拝や宮城遥拝、認可を得るための教義の変更、国家の圧力に屈しての日本基督教団参加、さらに弾圧時の裁判できよめ教会の牧師との違いを強調しての自己保身等を悔い改めた。

 それは天皇制に屈し、信仰告白を貫くことが出来なかったためであるが、現在の教会も、天皇制との対峙は避けられない日本社会にあって、信仰告白に生きるという同じ課題を負っているとの自覚の表明でもある。

 このような営みについて、被害者から加害者への意識の変化が注目されたり、好意的な評価や至極当然との辛辣な批判も耳にした。たしかに私たち自身も私たちに対する評者も、「当事者ではないから言える」という面はあるだろう。

 そこで日本の諸教会は、教会は時と場を越えた共同体であるという理解によって戦争責任を言い表した。先達の過ちを、現在の自分のこととして悔い改めた。それは神学的にも正しい教会観と歴史観であろう。

 二 問われる悔い改めの「質」
 しかし、先達の過ちを負うことの難しさは、時間的な開きだけにあるわけではない。教会の「悔い改め」の質に問題があると思われる。戦時下の教会の歩みを振り返る営みの中で、しばしば冒頭の筆者の体験と、似た経験をするのである。

 その一つは、当事者でないために、事実を知ろうとしなくても、おおよその情報だけで、自らの心を探られずに悔い改めができてしまうことである。教会は痛みも恥も感じずに、笑顔で悔い改め、謝罪することもできる。

 さらに悔い改めることで、自分たちが善良なキリスト者であると、無意識のうちに自負することさえできる。主イエスの譬えに登場するパリサイ人が自分が《この取税人のようではないことを、感謝します》(ルカ18・11)と祈ったように。

 日本の教会は、簡単に悔い改めすぎてはいないだろうか。それは何も自由主義史観の人々のように自虐的であってはならないということではない。むしろ真剣な悔い改めが必要であるが、しかし教会の罪の意識が薄く、それでいて罪の告白や謝罪の言葉が簡単に発せられているように思われる。

 例えば戦争責任の自覚によって、アジアや沖縄に目が向けられても、それらの多くは同情の域を越えているだろうか。日本伝道会議の沖縄開催の必然性は何だったのか。同じく政治や社会の動向に関心がもたれても、そこに教会の主体性はあるだろうか。日本の道徳や教育を憂えても、教会の固定した価値観と世との開きに教会は気づいているだろうか。

  三 福音の豊かさに生きるために
「悔い改めへのこだわりは、ホーリネスの教派的な特性か」と尋ねられたことがある。自己愛や「ありのまま」等、自らを肯定する言葉がはやる今日のキリスト教界にあって、悔い改めとは教派的特性でしかないのか。

 しかし《罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれ》(ローマ5・20)るとある通り、教会が神の恵みをどうとらえているか、その福音理解が問われている。今日、戦時下の教会の過ちについては何でも言える。しかしその本質的な問題は、誤った福音理解のゆえに、天皇制にすりより信仰告白を貫けなかったことであり、それはそのまま今日の私たちの課題である。

 安易な悔い改めは、安易な福音理解しかもたらさない。日本の教会の社会分析や人間理解が安易であってはならない。教会が福音に深く根ざす時、歴史と社会に対する目が開かれる。人間の価値は、その内面性だけでなく、社会性においても認められなければならない。これらは、本来一つの事だからである。このように私たちが託されている福音は、極めて尊いものである。

 それだから教会の戦争責任とは、多くの穏健なキリスト者が懸念するような社会問題ではなく、現在の自らの福音理解を問う信仰の事柄である。歴史を振り返り、自らの在り方を省みる教会の展望、すなわち福音宣教の道筋が、確かな福音理解に基づいて開かれるよう願わされる。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0000017)
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これは、日本の福音派教会に対する極めて重要な問題提起です。

私は知り合いの韓国の牧師さんから言われました。彼は日本の神学校に勉強しましたが、「その時、日本のクリスチャンに、『(過去のした日本の過ちを)ごめんなさい。赦してください。』と言われました。でも私は、『自分のおっしゃっていることを、分かってそう言っておられるのですか。』と聞きました。」だそうです。

教会の指導層がいわゆる「戦責」について声を大きくして告白しているものだから、信徒たちも(特にこの場合、福音派の神学校ですからその神学生が影響を受けて)、このように謝る人々が多いのです。でも、本当に悪いと思って謝っているのでしょうか?

私自身は決して簡単に「ごめなさい」と言えません。実は謝ったことがありません。なぜなら、まだ知らないからです。実際に戦時中、日本語を学校で習ったために日本語を話せる年配の韓国の方、在日の方にもお会いしたことがありますが、やはり「ごめんなさい」という言葉は言えませんでした。それよりも、その方々を知ること、その実体験の歴史を拝聴することで、心は精一杯でした。(概して、実体験をされている方のほうが『日本』という昔への思い出がいっぱいで、優しく、落ち着いておられます。)

そしてその韓国の牧師さんは、「韓国人も、今の日本について何も知らない。何も知らないで日本に宣教だ、と言って来るけれども、実際の日本を見て考えを変える。」と言われています。

そうなのです、日本人が過去の日韓併合を知らないだけでなく、韓国人もその後の日本を知らないのです。知らないもの同士が、一方で「ごめんなさい」と言い、もう一方はその言葉を聞いて気持ちを良くしているのです。(悪く言えば反日映画を鑑賞して、『すっきりした!』と思っているのに、毛が生えたぐらいのものです。)

私は、このような謝罪ゲームをして、韓国の兄弟姉妹と付き合いたくはありません。

「悔い改め」というのは「神の前」でするものです。そしてそれは、深い福音理解に基づくものです。普段から、キリスト者の歩みを確かなものとし、偶像礼拝に対しても敏感に、そして知恵をもって対処し、それから外や上からの圧力があっても、神からの良心を選び取ることをしていなければ、必ず同じ過ちを繰り返します。

私は、戦争責任の告白の前に、今の日本キリスト教にとって、キリストにあって堅く立った信仰を養い育てることこそが、真の告白であると信じています。

靖国神社参拝について その3

(「その2」からの続き)

「無知」が「凶暴性」へと

けれども、日本ではこのような宗教の「中身」にまでつっこんだ議論はほとんど皆無です。かつてオウム真理教による地下鉄サリン事件が、宗教へのアレルギーを増幅させましたが、では彼らが何を信じ、何を宗教的に実践していたのかについての議論はほとんどありませんでした。日本人は「教理」とか「教義」、そしてその「実践」について無関心、無頓着なのです。

これが単なる無知では済まされず、これが共産主義者と同じ「純粋になればなるほど残虐になる」凶暴性を持っています。それがキリスト教会に対して、戦時中に起こったのです。

ホーリネス弾圧事件

このことについては、クリスチャンの人もあまり知らないと思いますので、上のウィキペディアの記事の一読をお勧めします。そして彼らが罰せられた判決文を引用します。

1934年1月大審院検事局が3教派の共通定義を行った。「神は近き将来に於いて「キリスト」を空中に臨ませ義の審判を開始し戦争その他災厄の充満せるいわゆる患難時代を現出せしめたる後「キリスト」を地上に再臨せしめて我国を含む世界各国の統治権を摂取せしめ「キリスト」を統治者、携挙せられたる聖徒を統治に参与する王、神の選民と称するイスラエル人を支配階級となす千年王国なる地上神の国を建設し次で新天新地と称する神の理想社会を顕現すべきものなりとし、天皇統治が右千年王国の建設に際して廃止せらるべきものなりと做す国体を否定すべき内容のものなり」

もし私がその時に生きていた教会指導者であったなら、まったく同じ訴状で刑に処せられたでしょう。「ロゴス・ミニストリー」が信じている神学・教理体系と全く同じだからです。

「保守」を唱える日本人の人へ

日本国が愚かにもこんな判決を出したから、日本のキリスト教会が保守主義に対してアレルギー現象を起こしていることを、よく考えてください。自民党など保守政党の関係の方がこの記事をご覧になっていれば、(まだ少数派ですが)日本キリスト教会の人たちがなぜ拒否反応を示すかをご考慮ください。私は、他の争点においては保守政党のものと一致している「珍しいクリスチャン」ですが、神学においても保守主義を貫いている私としては、ここは絶対に譲れない「聖域」なのです!

靖国が日本人の「聖域」だと言うのであれば、私はキリスト者としての「聖域」を守ります。この国を愛し、この国のために殉ずる覚悟を日々の祈りでしていきたいと思います。それをキリスト者も追悼することのできる施設を造るのか、あるいは「迫害」という形で応答するかは、あなた(右派と称する人たち)のご決断です。

(「番外編 - キリスト者向け」はこちら

靖国神社参拝について その2

(「その1」からの続き)

日本人の「排他的多神教」宗教観

では、私は靖国に参拝するのか?絶対に「しません」。国とそのために殉じた人々を敬う気持ちがあるにも関わらず、創造主とそのキリストを信仰する者として、絶対に受け入れられないものであることを、特にこのブログを読まれている信者ではない方に知っていただきたいです。

韓国であっても、アメリカでもあっても、他宗教の人が訪問する時には、ある程度の尊重があります。しなくてもよいものをあえてやりなさい、という強要はありません。ところが靖国神社は列記とした「神社」です。それはキリスト者が、「唯一のまことの神のみをあがめる」という信仰として決して妥協できない一線であり、すべてを「神々」として「霊」として「祭る」ことに、聖書の教えの根幹に相反するのです。

日本人の宗教観では、死んだ人は「霊」となり「神」となり、それを「祭る」というのが全てだと思っています。けれども「日本の常識は世界の非常識」という言葉のように、それは日本にしか通用しない考えなのです。

アーリントン国立墓地の説明では、”Consoling of spirits”という単語は出てきませんが、日本語のウィキペディアでは「慰霊」と出てくるのです。そして「敬意を示す(honor)」という言葉は出てきますが、「参拝(going to worship)」という言葉は出てきません。「英雄(heros)」と言う言葉は出てきますが、「英霊(heroic spirits)」という言葉は出てきません。

日本語の死者を追悼し敬意を示すことは、日本ではすべて神道的宗教観から出てくる単語なのです。

聖書では、肉体は地に戻るが、霊は神のところに行くことが述べられています。霊がこの地にとどまっていることは決してないのです。そして神の手中に入った霊は、天に入るか、陰府(地の深い所)に下るかのどちらかしかないと教えています。そして肉体が復活すれば、義とされた者は永遠の至福の中に、そうではないものは永遠の忌みの中に入れられる、と教えています。

このように、あまりにもはっきりした死生観が、中心的教義としてキリスト教には存在します。

ここの部分について、靖国神社参拝を強烈に支持する人々の中に、何一つ考慮がなされていないのです。この無頓着は実は極端な排他主義につながっており、この国のために死んだ人々に敬意を表したいと願っている私みたいな人を、「非国民」と叫ぶのですから、愚の骨頂と言わざるを得ません。

真の右派(保守派)とは?

キリスト者の間で「天皇制」の是非についての討論会に参加したことがあります。キリスト教の伝播のためには天皇制を受容しなければいけないという論者が一方におり、反対している人がもう一方にいました。

反対している人は、参加者全員に尋ねました。「明治天皇の名前を知っている人はいますか?」挙手したのはごくわずかで、なんと賛成派論者本人が手を挙げられなかったのです。答えは「睦仁(むつひと)」です。

「天皇を敬まえ!」と声高々に言っている人が、同じように、天皇家について、また祭事、その意義など尋ねられたらどれだけ答えられるでしょうか?ちなみにこの反対派の牧師さんは、教会では文語訳の聖書を使い、確か俳句なども嗜めておられる方です。「私のほうがよっぽど右翼だ。」と冗談を仰っていました。

それで尋ねます。日本の文化、伝統についてどれだけ分かっていますか?そんなに大事にしなければいけない靖国の神道にある体系にについてどれだけ分かっていますか?そして、それをすることはできないと拒む人々(政治的理由ではなく、宗教的理由で)が、どうして参拝できないのかを、その信仰の理論体系まで考えたことがありますか?

自分の信仰と宗教について大事にする人は、その中身を勉強し、熟知し、それから相手の信仰や宗教も調べ、(同意はしなくても)尊重することを知っている人、これが真の右派です。

靖国神社サイトの英語版の説明にはこうあります。

Shinto Faith
Japan still maintains the culture and tradition of respecting and worshipping the deceased. The Japanese have long believed that spirits of the deceased remain eternally on earth and guard their descendants. Even in today’s Japan,people consider their ancestors as their “guardian deities,” and thus as an object of worshipping because such traditional way of thinking along with the belief of Shinto is still inherited.
http://www.yasukuni.or.jp/english/about/history.html

Worshipping
The difference between Yasukuni Shrine and other foreign memorial institutions for war dead is that the shrine enshrines the spirits of those who died on public duty of protecting their mother land.
http://www.yasukuni.or.jp/english/about/worshipping.html

これを読むまでもなく私の靖国神社理解と一致していました。理解した上で、「私にはここで手を叩くことはできない。」と決めているのです。あなたは、いかがでしょうか?

ある記事でアメリカのことを紹介するのに、デーブ・スペクターとある政治家M氏が説明していました。M氏はアメリカの保守の基盤であるキリスト教についてよく知っていました。キリスト教の背景があることを踏まえて、個々の質問に対して答えていました。デーブはかなりリベラルな人で、むしろM氏のほうがよくアメリカというものを知っているな、と感心したことがあります。私はその人の信仰やまたその生活についてはよく知りませんが、政治家としての見識・発言においては、「保守性」を見ました。

保守や右派の元々の定義は、人間に元々備わっている宗教的側面を大事にする人たち です。

(「その3」に続く)

靖国神社参拝について その1

続けて社会的・政治的なお話を致します。「靖国参拝」についてです。まずお断りしたいのは、具体的な政治的争点において、神はすべての啓示を与えられているわけではないことです。ですから個々のキリスト者によって意見が異なります。私がこれから述べる意見も、必ずしも受け入れなくて構いませんし、反対意見のお持ちの方は適当に流していただければと思います。

終戦記念日(8月15日)が近づいてきました。盆の時期でもあり、この時になると正月と同じく仏教・神道に関わる儀礼が多くなってきます。その中で靖国参拝は、避けて通ることのできない問題です。

私の靖国神社

私が初めてその敷地内に入ったのは、不思議なことに韓国からの兄弟たちの案内をする為でした。日本の人たちは驚くかもしれませんが、韓国人の日本観光名所の一つが靖国神社です。そして二回目には妻と一緒に「遊就館」も訪ねました。まるで戦時中に後戻りし、軍国少年になった気分になりました。

私は他の日本の人たちと同じように、元旦参りやお墓参りなど、神仏に囲まれて育った人間です。大学生の時にその参拝にどのような意味があるのか分からず悩み、そしてキリストの福音に触れて、そこに命に対する明確な解答を見出して信仰に入りました。自然そのものを崇拝する日本の習俗信仰とは違い、自然にある創造主の栄光の輝きを知ることができ、今は本当に幸せです。

けれども靖国神社は、幼い頃から原体験として残っている神社と大きく異なっていました。鳥居も何もかもが黒ずくめで、まるで焼け打ちにあったのではないかと感じてしまいました。

国の戦争に殉じて死んだ人々

けれども、これを「偶像崇拝」というだけで一蹴はできないという気持ちが今はあります。初めは考えたこともなかったことですが、「国のために死んだ人を敬う」というのは、一つの国に生きている人ならばごく自然に湧いてくる感情であることを気づきました。

過去に日本軍が行なったことのみに集中し、そしていわゆる「戦犯」も出した戦争ですから、なぜ敬うのか?と思われる人もいるかもしれません。けれども実戦で戦った個々人の死は、国が責任をもって追憶していくべきです。それがたとえ間違ったと言われる戦争であっても、「国の義務を果たす」ことを行なった人は「国」が敬う義務があります。

聖書の中にも、死者を葬ること、またその人が代々、記憶されていくことは、特に旧約時代において重視されています。むろん新約においては復活の希望が明確になりましたが、その人を追悼するのは「再会」の希望も含まれるようになりました。

靖国参拝に反対する韓国でも「顕忠院」と呼ばれる施設で戦争の殉死者は高く敬われています。キリスト者なら、そこで偶像礼拝に直結する儀礼には関わらないでしょうが、それでもその施設の是非は問題にさえならないはずです。政治的見解がたとえ異なっても、「国のために命を捧げた人」を敬うのは、人間であれば当たり前の感情だからです。

アメリカではもちろん「アーリントン国立墓地」があります。

果たしてこのごく自然な感情を抑えるところまで、神は御言葉の中で禁じておられるのでしょうか?人がどんな宗教を持っていたとしても、これは、人間であれば神が与えられた感情であると私は考えます。

ゆえに、日本のキリスト教会での「靖国参拝反対」の議論の中で、この部分が話題に上げていくべきではないかと感じます。

(「その2」に続く)

キリスト教の結婚式

今日、恵比寿バイブル・スタディに来られているカップルの方の結婚式に出席する光栄にあずかりました。招かれた人はさほど多くなかったのに、恵比寿BSの仲間をたくさんその中に加えてくださり、本当に感謝でした。いろいろ主から教えられたことがありますが、いくつか分かち合いたいと思います。

1.キリスト教の結婚式は、まさに神への礼拝である。

日本人の人たちでキリスト教式に挙げる人が多いかと思いますが、今回改めて感じたのは、普段、教会の礼拝で神をあがめる習慣のない人には、結婚式の醍醐味を本当の意味で味わえないのではないかということです。

結婚式の主役は誰か?新郎新婦か?それとも、新婦が後に出てきて中心的な存在となるが、新婦が主役なのか?そして司式を行なう牧師が中心なのか?いいえ「神」ご自身が中心です。神への賛美から始まり、それから神の言葉の朗読を行ない、それから新郎新婦の入場があるが、彼らは神の前でその結びつきを誓います。牧師はもちろん、二人を神が結ばせるということを宣言する仲介者にしか過ぎません。

ですから、天地万物をお造りになった方を、キリストにあって知らない者は、この意義を知ることができず、非常に表面的な理解しか与えられないでしょう。

そして今回、「新郎」が「新婦」より先に入場し、「新婦」が次に入場するがそれが中心で参加者らがその真っ白なドレスに象徴される清純の美に集中し、新郎が新婦を待っている順番に注目しました。これはまさに、「キリスト」とその花嫁である「教会」の関係を表しています。

イエス様が弟子たちより先に、天に行かれました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:2-3)」

そして花嫁は、この地上にいる間に清らかな、美しい姿へと整えられます。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:27) 」

そして花嫁が天に招きいれられるとき、天では花嫁の白さに天は見入ります。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。(黙示19:8-9)」

したがって新婦の入場そのものが、キリストと教会の神秘的関係を表す、神への礼拝の一形式なのです。

したがって、お二人をお祝いするつもりで参加させていただいたのですが、神の御業をお祝いすることを体験し、自分自身も祝福をいっぱい受けました。

2.披露宴は、ご本人たちのことを多角的に知ることができる。

披露宴には、新郎と新婦のそれぞれのご家族、そしてそれぞれのつながりのある人々が集まり、お二人について聖書の学びでしか会っていなかったところを、その人々に出会うことにより、多角的に知ることができる恵みにあずかりました。会社の代表取締役の方も来られたし、新婦さんの幼馴染の方々、そしてサークルの人々のことを見て、お二人がどのような方々なのかを再認識できて嬉しかったです。私たちの存在も、他のグループの人々に、お二人のある一面を知るきっかけになっていてくれればなあ、と願っています。

ところで、突然、前触れなしに新郎新婦が指名の数名に、祝福の言葉を述べる人々の一人になってしまいましたが、1.に書いた感動の余韻が残っていたのでしょうか、他の方々は「末永くお幸せに」と挨拶しておられたのに、私は「結婚生活は短いです。天に行ったら、結婚関係は存在しません。その数少ない日々を一日、一日大事にして生きてください。」と言ってしまいました。

これからの門出なのに、なぜそれが短いと言うのか?と疑問に抱かれる人もいるかもしれません。でも、男女の結婚というものが存在しない天における「永遠」というものさしにかけたら、これからの数十年は一日のようにわずかな間です。お年を召したご夫婦なら、このことを実感できると思います。時は短いことを知り、その間に、キリストと教会を表す、神の立てられた結婚制度をじっくり味わうことが大切です。

私も自分の妻とは、この終わりの日の行き着くところを意識しながら、いつかこの関係が解消される日が来ることを意識しながら、一日、一日を楽しんで生きていこうと確認しています。結婚は、天に入ったら、「あの時は本当に良かったね。」と互いに言えるような、この地上に神の下さった賜物だ、ということで。

非聖書的人間主導型世俗化教会成長論

昨夜、マラナサ・グレイス・フェローシップの牧者、菊地一徳さんのブログを覗いていたら今日の教会の問題点を取り上げる記事を読みました。私もずっと長いことこの問題にもどかしさを感じて、以下のエッセイを書き記していました。

「人」ではなく「神」
伝えられない地で伝える宣教
韓国に弱い日本の教会
ロゴス・ミニストリーと日本の教会

疑問を抱いていた情報の断片が、昨日拝読した論説によって一気に解明できた気分です。

非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 その栄枯盛衰の狭間で翻弄される日本の弱小教会

「積極的思考」「第三の波」「教会成長論」「繁栄信仰」「目的主導(Purpose Driven)」「新興教会(Emerging Church)」「韓国の教会」「教会のカルト化」などなど、様々な教えや集会の流れがやってきては過ぎ去っていった(あるいはこれから過ぎ去る)のですが、これら一つ一つ取り上げて、一つの底流を見つけています。それは、

「非聖書的」であり、そして
「人間主導」です。その結果、教会が
「世俗化」します。これが
「教会成長」という目的の中で起こっています。

これらを一つ一つ検証し、批判するのは比較的容易です。けれどもこの流れに対抗して、健全な教会形成が果たしてできるのか、その模範を見ることができるのか?となると話は別です。それで、菊地さんは次の論を展開しておられます。

非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 vs 聖書的聖霊主導型聖化教会成長論 THIS IS IT 決定版

あっ、そうか。カルバリーチャペル運動の流れにあるではないか!と今更ながら改めて思った次第です。

「非聖書的」に対抗して「聖書的」に、
「人間主導」に対抗して「聖霊主導」です。その結果、
「世俗化」に対抗して「聖化」されていきます。その結果
「教会成長」は目標ではなく自然に生み出される実として結ばれます。

後記注:私は、この記事によってカルバリーチャペルをことさらに持ち上げたいと思いません。なぜなら私たちも同じ人間の集団であり、いろいろな罪や過ちをこれまで見てきました。そして、持ち上げることによって「カルバリーチャペル」という名前のみが突出し、誰がカルバリーチャペルでそうでないかの議論に容易に発展してしまいます。

大事なのはカルバリーチャペルではなく、私たちがクリスチャンであるということ、そしてカルバリーではなくイエス・キリストを宣べ伝えることです。

それでも私はカルバリーが好きです。ここにいると自分の家に戻ってきたような、ほっとした気分になります。だから離れることができません。教会はもともと神の家族です。家族ですから、優れているかどうかで測られるものではなく、「分かち合って」「助け合い」「仕え合う」所として求められるべきだと考えます。

「教会に通っていない方へ」

ロゴス・ミニストリーのメニューの中に、「イエス様を知らない方へ」という欄を設けていますが、ここでの題名は「教会に通っていない方へ」です。

ロゴス・ミニストリーを主にあって始めてからもう少しで13年経ちます。その中で、主の御言葉がこんなにも広がっていくものかと、その恵みに本当に驚いています。「聖書の学び」を利用されている方の多くが、サイトにある情報を単に興味本位で入手しているのではなく、腰を据えてじっくり御言葉に聴きたい人であることをよく知っています。そして、自分の生活が変えられた証しも聞いております。主の御名をほめたたえます。

けれども、一方である課題を感じています。それが、教会まで足を伸ばせない、また、以前は通っていたけれども今は独りで礼拝を守っていることを数多く見聞きしているからです。

そこで、「聖書の学び」の欄に新たに上の題名で文章を加えました。どうぞ読んでください、とても重要な内容です。

http://logos-ministries.org/bibintr.html#kyokai

「聖霊に導かれて進もう」

前々から紹介しようと思い、していなかった本がありました。

「聖霊に導かれて進もう」(井戸垣彰著 いのちのことば社)

以前ご紹介した「このくにで主に従う」と同じ著者、故・井戸垣彰牧師によるものです。

何が良いかと言いますと、日本の教会内で起こる諸問題、日本人のクリスチャンであれば誰もが経験する、人間関係に絡んだ問題を、クリスチャンの「肉」の問題として聖書的に対処していることです。肉ではなく、聖霊に導かれて進む、というクリスチャン生活の基本を、日本の教会という土壌で実践できます。本書の一部を引用します。

何年か前、ある教会のご奉仕にうかがったとき、集会の後で一人の方から個人的な相談を受けた。教会のある大切な奉仕を担当し、自分なりに精一杯やっているつもりであるが、先生がいちいち細かい点を言い過ぎる、これではやる気がしない、というような相談だった。

お話を聞いた後、私は次のように答えた。確かに先生の言い方は悪いだろう。ほめないで欠点だけ指摘されたら、やる気を失うに違いない。だが先生の側のことは別にして、先生に対して怒っている、そのあなた自身の怒りはどうなのか―。

その方は、虚をつかれたようにはっとして、『そうでした、わかりました。』と答えた。

この方と同じように、私たちはいろいろな問題に苦しむとき、相手方や、事情の悪さにだけ心の思いを向ける。そして、必死になってこらえ、相手をゆるそうとし、何とかもちこたえようとする。そして相手の悪に対して怒っている自分に対しては、光を当てようとしない。相手が悪いのだから怒るのは当然ではないか、と自分を肯定してしまう。(7-8頁)

いかがでしょうか、身に覚えがないでしょうか。(私はとても痛いです!)

残念ながら、本著は絶版で古本のみでしか入手できません。でも、似たような内容で良書があります。こちらもどうぞ。

「カルバリの道」(ロイ・ヘッション著 CLC出版)