このくにで主に従う

これから、このブログで、私が大きな影響を受けた書籍類をご紹介したいと思います。霊的な建徳につながるものもあれば、単に私の好みのものもあります。

最初は、次の本です。

「このくにで主に従う」(井戸垣彰 著 いのちのことば社)

私が1997年に米国から帰ってきて、日本の地で本格的に伝道を始めてからずっと感じてきた、そして今も感じている大きな葛藤を、この本は見事に言葉をもって表しています。この本の主題として「はじめに」に書かれてあるものを紹介しますと・・・

本書がしようとしているのは、日本的なものとキリストの福音との対比である。それはこの国でキリストの勝利を願うからである。(4頁)

日本の文化においては全てのものが曖昧にされるとよく言われますが、この本の説明は「日本的なもの」と「キリストの福音」の違いを鮮明にしています。キリストの福音に真っ向から対立する、衝突する強いものがこの地に横たわっています。

日本は他の多くの国と違って、まれに見る信教の自由が保障されている国です。にも関わらず、多くの人が信仰に入る時に感じる葛藤は、信仰の自由が保障されていない国の人々よりもさらに激しいことに気づきます。

そして迫害が少ないのは、迫害がないからではなく、実は、迫害を受けるのを恐れて信仰的に妥協しているからだ、ということに気づかないといけません。多くの人がリバイバル(霊的復興)を掲げていますが、リバイバルが起こらないのは迫害を受けていないからであり、迫害を受けていないのは、受けないように日本のキリスト者が動いているからです。

このようにこの本から学ぶものは非常に多いのですが、その他に日本の福音化の妨げになっている要因が二つあると感じています。一つは、「人間本位」の考え方です。神ではなく人に目を向かわせる、ものすごい強いものを日本にいると感じます。キリスト教会の中で、キリスト者本人らが知らず知らずのうちに、神とキリスト以外のものに取り組んでおり、それが悪魔の策略になっています。具体的なことは、「人ではなく神」という拙エッセイをご覧ください。

そしてもう一つは、「安定した社会」です。多くの日本人の論者が、日本がアメリカの第51州だとか言って、いかに日本がアメリカに支配されているかを語っていますが、とんでもないことです。他の国々を見渡したら、外国によって踏み荒らされた地はいくらでもあり、日本人はむしろ独立を長い歴史に渡って保ってきた、まれに見るすばらしい国なのです。

しかも、経済的にも、社会的にも優れています。学術的にも優れており、科学の分野でノーベル賞受賞者を輩出する東洋で唯一の国なのです。

とにかく、日本の社会は親切で優しいです。住んでいて世界中でここほど便利は国はないでしょう。

けれども、それゆえ人々は神に拠り頼む必要性を感じない、という逆説的な現象が起こっています。他のものに頼れるので、あえてなぜ神に頼る必要があるのか、ということです。これが日本の「高ぶり」になっています。

外敵に侵されたことのなかったモアブに対する神の預言が、イザヤ書15-16章、エレミヤ書48章にあります。彼の高ぶりのゆえに、モアブは滅ぼされると主は言われます。その姿が非常に日本に似ているのです。

モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へとあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。(エレミヤ48:11)

このような国の中にあっても、神の憐れみを受け、その怒りから免れる人が一人でも多く出ることを祈り、願って止みません。

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