牧者チャック・スミスから受けたもの

Pastor Chuck Smith

昨晩から一日、どうしても泣いて、泣いて、涙が止まりません。この日が来ること、そして間近であることは知っていました。けれども、こんなにも、Pastor Chuckが自分の信仰生活に大きな存在だったのかと、彼が主のところに行ったことによって、気づきました。思えば19歳の時イエス様を信じて、そして大学四年の時にチャックが来日して、お茶の水のOCCと御殿場で彼のメッセージを聞きました。今は40を越えていますので、私の信仰生活の大部分が彼の影響下にいたのです。

チャックとの出会い

卒業旅行が、ある教会が主催するメキシコ宣教旅行で、その途中で立ち寄ったのがコスタメサの教会でした。そこでスクール・オブ・ミニストリーの紹介の小冊子を受け取りました。その教会は会堂を見るだけで気に入りました。大きな教会であるにも関わらず、作りが質素で、アットホームだったからです。(今思うと、ヒッピーたちが主の愛の中で御言葉を聞く、その雰囲気に合わせた作りになっています。) 続きを読む 牧者チャック・スミスから受けたもの

信仰告白とは

(「「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに」の続き)

「信仰告白」という話題に、今、わくわくしています。同時に、信仰告白は、日本での宣教において、これをいかに伝えるか、説明できるか?という課題でもあります。

聖書に出てくる信仰告白とは何か?もっとも短く、端的なものは次の二つですね。

あなたはキリストです」(マルコ8:29)
イエスは主です」(ローマ10:9)

この二つでしょう。前者はペテロがイエス様に言った言葉、後者はローマ10章にある、このことを口で言い表せば救われると、パウロが説明している言葉です。この短い言葉が、いかにすぐれているのか、ここに感動せざるを得ないのです。

もう一つ、教会史においては「使徒信条」があります。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり、
かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。 続きを読む 信仰告白とは

「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに

先週の日曜日、とても嬉しい事がありました。LCFの教会が始まる時から教会にいらしていた方が、この前の礼拝の中で救いの証しをされたことです。

最近示されていること、教会が何をしなければいけないか、三つのことが示されています。

①信仰告白 ②伝道 ③弁証

他に、教える働きや勧めの働きなどもありますが、それは信仰者の徳を高め、建て上げるための奉仕であるのに対して、上の三つはこの世、まだ神を知らない世界を意識して行なうものです。①の信仰告白は、人の心と良心に与えられている真理を、口をもって言い表すことです。②は他者に、キリストの福音を伝えることです。では、③は何であるかご存知でしょうか?「反対者の中で、あるいは反対の価値観に囲まれている中で、キリストにある希望を弁明また説明すること」と定義することができます。

これから、折を見て、この三つのことについてお話ししたいと思います。私の感触では、意外に①と②がクリスチャンの間に共有されていないのが現実ではないか、と見ています。「心で信じてさえいれば、良いではないか。なぜ、いちいち口で言い表すのか?」と思っている人が意外に多いです。また、教会はその日本語の名のごとく、ただ聖書の教えを受ければ良いと思っている人もいる。また、救いの証しについては、自分のことを話すことだと勘違いしている人も多いです。自分の経歴を話すのではなく、自分を救われたキリストを証言するのが救いの証しです。 続きを読む 「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに

「半沢直樹」の不在

今日はちょっと軽いノリで書きます。

hanaza_hyouka昨日、高視聴率で終わったドラマ「半沢直樹」を、録画されたものを第九話まで観ました。ちょっと頭をぽかんとさせたかったこともあって、部分部分、飛ばしながら一気に見ました。感想は「すっきりした!」です。話にスピード感があり、あの「倍返しだ」という文句が頭にこびりつきますね。そして男たちの役柄が気に入りました。半沢とその同期は、まさに私と同じ世代で共感が持てたこと、また、まるで漫画の登場人物のように、男たちの役にアクがあって、顔の表情を見ているだけで楽しかったです。(半沢も良かったけれども、大和田の悪者ぶり、国税庁・金融庁の黒崎がすごいおもろかった。)

そしてすっきりしたのは、まさに水戸黄門と同じ世界で、単純な勧善懲悪のストーリー作りになっているからでしょう。

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日本キリスト者が試される9・11

少し遅れましたが、先日の9月11日に、米国同時多発テロから12年が経ちました。米国人キリスト者から、いろいろな思いが記事にして出されましたが、心に残ったのは二つありました。一つは、カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師、ブライアン・ブローダソンによるものです。

御霊の導きと痛む神

9/11: Then and Now(9月11日:当時と今)

ブライアンさんは当日の朝、ペンタゴンの近くのホテルに宿泊しており、首都ワシントンの近くで行われる集会に参加する予定だったそうです。けれども、その事件により、飛行機の交通手段がなくなりました。けれども、ある人々が、ワゴン車で西海岸まで走る計画を立てており、行く先々で一人一人を降ろしていく、という話が入ってきました。彼は一席を確保したのですが、どうも心がそわそわして、結局、他に待っている人に席を譲ったそうです。

そして分かったのは、ニューヨークに行かなければいけない、そして必要な助けに応じていかなければいけないという感覚が訪れました。東海岸で牧会をしているカルバリーチャペルの牧者らと合流、ニューヨーク市内に入りました。

彼は、世界貿易センターに本部を持つ会社で、最も数多い従業員の死者を出したところで、残された家族のためのカウンセリング・チームに配属されました。人々に語りかけ、慰めを与えていく中で、それは重要な働きでしたが、主が何かをもっと用意されていると感じたそうです。 続きを読む 日本キリスト者が試される9・11

痴漢と神の命令

一昨日は、恵比寿バイブルスタディでした。行く途中の地下鉄の列車の中で、痴漢に準ずる行為をする男を真向いの席で目撃しました。隣に座っているのは、おそらく十代後半か二十代前半の女性。スマートフォンを眺めています。その隣に座ったのが、40代ぐらいでしょうか、少し疲れ気味のビジネスマン風の男性でした。彼はすぐに横に座る彼女の胸元を凝視し、また自分のスマートフォンに目を向けますが、再び胸元を凝視しています。これを繰り返します。恐ろしいのはそれを平然と、顔の表情を変えずに行っていたことです。

その女の子も気づき始め、平静を装いつつも、緊張し始めています。私はすぐに、「ここで万が一何か起こったら、私が証人とならなければならない。」と思い、しっかり見張り始めました。その現場を携帯で写真に撮影しようかと思いましたが、反対に他人を無断で撮影することに抵抗を覚えて、やめました。けれども、この行為がエスカレートしたら、すぐに目の前に対峙する準備を心でしていました。

すると、彼女に私のこの気持ちが伝わりました。目が合ったのです!私は、少しうなずき、左のほうに逃げよ、という合図を顔を振って伝えました。彼女はかなり慌てていて、一度スマートフォンを落としましたが、無事、その場から立ち去ることができました。けれども、男は気づかれても狼狽えた様子を何一つ見せず、スマートフォンを眺め続けていました。かなりの確信犯、変質者かな?と思いました。 続きを読む 痴漢と神の命令

山本太郎氏当選に思う

参院選が終わり、いつもなのですが、妻も私も、自分の投票した人はずっと落選しています。(汗)今回、東京で当選した元俳優、山本太郎氏に関して書いたほうがよいかな?と思いました。

反原発運動の功罪

山本太郎氏と言えば、もちろんその反原発運動が選挙の争点であります。日本のキリスト教会の中で、反原発の姿勢を取る教会、個人、教団が多く現れました。全体としての雰囲気は、個々人のキリスト者はいろいろな意見を有しているのに、「キリスト者 → 反原発」という構図になっています。

私は、これまでのブログで社会正義、また社会運動とキリスト者について論じてきましたが、私の立場は、「キリスト者は社会運動の活動家として召されているのではなく、あくまでも福音宣教者として召されていること。けれども福音そのものに、イザヤ書に預言され、福音書に実現された、社会的弱者に届くキリストご自身の宣教が含まれており、それゆえキリスト者は弱者に注がれている神の霊的祝福をもって、その人たちと共に生きる」というものです(参考ブログ)。ですから、反原発への活動を促す書籍や講演がキリスト教関係で出ていますが、私にはどうも肌に合いません。 続きを読む 山本太郎氏当選に思う

エッセイ「神の戒めと愛」

誰を愛しているか?

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。(ヨハネ15:10)」

いろいろなクリスチャンと話して、しばしば抱く疑問があります。それは、「神の愛と恵み」が、どうしてか、「神への従順と服従」「良い行い」「主への奉仕」につながらないのか?ということです。まるで相反するものであるかのように話す人もいます。けれども、イエス様の上の言葉、また聖書全体に貫かれているテーマは、「神が大いなる憐れみを注いでくださった」、だから「主に対して良い行いをする」という流れです。

ところが、「ありのままの自分で愛されています」「そのままでいいんですよ」と言われるとほっとし、そして「自分を捨てて、主に自分をゆだねて、明け渡しましょう。」と言うと、とてつもない葛藤の中に陥る、という反応をします。

そこで次のブログ記事を紹介します。

育てよう健全信徒(28)あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン

リンク先に入られて、ゆっくり読んでいただきたいのですが、人があるがままに受け入れられたら、無条件の愛に触れられたら、自分自身をその人のために捧げたい、という願いが起こるはずなのです。愛とは交わりのことであり、交わりには応答が当然含まれます。ところが、その応答のことを話すと、新たな規則や縛りであるかのように受け止める。これは何が問題なのでしょうか? 続きを読む エッセイ「神の戒めと愛」

参院選を控えて - クリスチャンの投票

間もなく参院選ですが、クリスチャンにとっては「改憲」という争点の中で、信教の自由に関わる直接的意味合いのある選挙となりそうです。これまでクリスチャンと政治について、いろいろなブログ記事を書いてきましたが、そのいくつかをご紹介したいと思います。

クリスチャンの政治家

クリスチャンの政治家が、実は結構います。今回の参院選では、維新の瀬戸健一郎さんがクリスチャンであることを前面に出して活動しておられますね。上のブログ記事をご参照ください。

政治とクリスチャン

クリスチャンは党派的になるのではなく、超党派的に祈る!これが政治に対する基本的な霊的姿勢です。

キリスト者として、自民党の改憲草案に反対する

日本のキリスト教会で「九条」を根拠に反対する人たちが多いですが、私は聖書的考察からは軍事力が抵抗すべき絶対悪として考えることができません。むしろ私が懸念しているのは信教の自由であり、社会的習俗としての行事に神道的意味合いがあるのもに参加しなければいけない余地を残した条文であります。上のブログをぜひお読みください。また、次の分析記事も詳しい説明があります。

  憲法改正が宗教界に与える影響――信教の自由と政教分離

全共闘・反動・日本の誇り

日本のキリスト教会の中にある、一定の信条や思想を必ずしも非聖書的と断定することができないのに断定している、排他的傾向について、なぜそうなってしまっているのかを分析した記事です。昨日も、瀬戸健一郎さんが維新に所属していのはクリスチャンなのに信じられないという内容の投稿を読みました。ならば、社民党ならクリスチャン的なのか??政治思想を表面的なところしか見ていない傾向に、一クリスチャンとして警鐘を鳴らしました。(ちなみに私は維新応援者ではありません。)

私は、教会の牧者として、どの党に入れなさい、どの政治家を支持しなさい、ということは言ってはいけないと思っています。けれども、選挙制度のある国に生まれたものとして、その義務を神にあって行いなさいという奨励はいたします。

プライバシーとキリスト者

エドワード・スノーデン元CIA職員が、米政府が個人情報を収集をしていることを暴露して以来、個人情報がどれだけ守られているか、を焦点として世界が騒いでいます。そして間もなく参院選で、憲法改正が自民党の圧勝によって、現実的なものとなってきました。そこで国家による私生活への介入という課題が、ちょうどスノーデン氏による内部告発と重なり、ずっと温めてきたわたくし個人の思いを話さなくては、と感じました。

この前の日曜日の午後礼拝(7月14日)で、エルサレムを包囲するアッシリヤの王に対する神の言葉の中で、個人情報と監視についての話題に触れました。

あなたがすわるのも、出て行くのも、はいるのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。(2列王記19:27)

驚くに値しない事

スノーデン氏の内部告発のニュースを初めて耳にした時に、私は驚くことができませんでした。「そりゃ、米政府だって、みなやっているでしょう!」と思ったこと、そして「そんなにプライバシーが気になるのなら、どうしてみんな、SNSやメール、スマートフォン、携帯など、電子媒体をあれだけ多用しているのだろう?」と疑問があるからです。 続きを読む プライバシーとキリスト者