生々しい現実と福音の光

 今回の記事は、もっと一般的な「生々しい人間の現実と福音の光」というテーマでお話ししたいと思います。キーワードは、「キリスト者の社会的責任」です。

当事者が聞いている可能性

 私が教会開拓を始めて特に、自分が説教をする時の心構えが変わりました。それは、これまで見聞で得た情報で語ったことが、実はその当事者が会衆の中にいるかもしれないという可能性です。例えば、宮清めをイエスがなされた背後の腐敗した祭司制度を説明する時に、仏教の檀家制度や神社のことを言及したことがあります。すると、「聞いている人に伯父に仏僧がいたので、彼女は傷ついた。謝罪して説教の内容を訂正して欲しい。」という要求が来たことがあります。私はご本人には釈明と必要ならば謝罪もするが、説教の内容自体は変えることはできないと答えました。

 この出来事は今の教会を開拓する前ですが、当事者がいるということを体感した初めての経験でした。

 徐々に、自分が単に知識をまとめて話す聖書教師ではなく、まさに現場にいる人々が神に立ち返るべく呼びかける御霊に応えて語るのだということを感じています。ゆえに、御言葉を曲げて語ってはならないと思っています。実際にそれに該当する人がいるかもしれないと思いつつ、それでも語る逡巡は心に負担がかかり辛いのですが、いや、むしろその負担こそが、預言者が主から与えられた重荷(burden「宣告」と訳されている)なのではないか、と思うのです。

私が「保守派クリスチャン」と自称する訳

 今回の慰安婦・風俗問題で知ったのですが、維新の会のメンバーにクリスチャンがいるとのこと。彼が橋下氏の発言に対する米軍の反応に、キリスト教の背景があることを指摘しています。(記事

 保守政党とクリスチャン信仰は相容れないのではないか?とお考えになる方が多いでしょう。このようなキリスト教会にある空気を敢えて乱したいと思って(?)、私はブログで勝手に「保守的クリスチャン」と自称しました。実際は日本の保守派と言われている人々と意見が合わないことが多いです。それでもそう言っているのは、「福音を綺麗にしてはいけない」という一心からです。

 神が預言者に、アダムの罪から書くように命じられ、カインの殺人、ノアの時代の洪水など、生々しい、赤裸々な人間の姿、そして「ノアが裸で寝ている」「ダビデが姦淫と殺人」など、どの人も義人などいない、ただ神の憐れみにすがることによって救われるのだ、ということを神は私たちにお語りになっていると思っているからです。

構造的な罪とキリスト者

 水谷さんとは面識がないですが、生命尊重、また性に関わる働きに関わっている、主に用いられている器として大変感謝しています。また、その謙虚な姿勢も好きです。このことを前提にお話しするのですが、彼の論調にある「社会構造的な罪」が、今の日本のキリスト教会の中にも大きく共有されているものなので、例として取り上げさせたいと思います。

公益による弱者人権侵害の正当化」としての橋下市長慰安婦発言」から

(引用始)もし、この「公益による弱者人権侵害の正当化」が正しい論理であるなら、どうなるでしょう?残念な必要悪のための人権侵害は、現実論として許容されるとしたら、こういう論理が正当化されるのでは?

 安全保障という国益のためなら、地理的な必然性から沖縄に基地が集中し、その住民の人権が侵害されるのも仕方ない。

 電力安定供給という公益のためなら、警報中でも、線量計を外して働く原発作業員は必要だから、奴隷労働としての人権侵害があるのも仕方ない。

 安価な農産物を輸出するという公益のためなら、不当な児童労働、奴隷労働は必要だから、また、その恩恵に日本の消費者は浴しているのだし、そうした人権侵害は仕方ない。いや、なくなってしまうと値上がりし、不都合だ。

 農民に下を見て暮すよう諭し、国家を統治し、穢れに結びつく職業を代々担わせるという国益・公益のためには、被差別部落の存在は、必要となるのだから、部落差別という人権侵害も仕方ない。

 国益や公益が、人権侵害を正当化するなら、ほとんどの人権侵害や差別は、許容されてしまうでしょう。これは聖書が示す「人権」はもちろんのこと、日本国憲法の根幹をなす「基本的人権」にも反することでありましょう。どのような国益や公益も、個人の人権の深い部分に優先するはずがありません。著しい人権侵害を必要悪として許容してまで、国益公益を優先することについては、キリスト者は反対を表明し、抵抗を示すべきと私は考えます。

 注目すべきは公益・国益のために人権侵害を受けるのは、社会的弱者ばかりです。多くが、大和民族とは異なる沖縄住民、危険な原発作業な児童労働、奴隷労働などに従事するのも、貧困者、被差別部落出身者が、不当な貧困を強いられてきたことは言うまでもありません。

 しかし、旧約聖書を読めば、神様は女性や在留異邦人などの弱者に目を留められ、その人権侵害がないように、愛の配慮をしておられます。イエス様も、原則として社会的弱者の側に身をおいて、宣教の働きをされました。その意味で、キリストの体として、教会は、そして、個々のキリスト者は、「公益・国益よる弱者の人権侵害正当化」には異議を唱えるべきでしょう。

 しかし、そのような聖書の記述がありながら、現実のキリスト教会の歩みはどうだったでしょう。キリストの教会はその歴史の中で、同様の罪と過ちを繰返してきたのではないでしょうか?国益や公益ならぬ神の国の拡大や布教という大義名分によって、侵略行為、異教徒の殺戮、不当な植民地支配、奴隷制度容認、女性差別、民族差別を正当化してきたのではないでしょうか?その正当化のために、時には聖書の言葉を根拠としてきたはずです。キリスト教会がそれをしてきたというのが言いすぎなら、意図的ではなくとも、教会がそれを許容し、それに便乗して布教をしてきたというなら、受け入れていただけるでしょうか。

 近代から現代にかけて、キリスト教会はこうした過ちを正直に認めて、悔改め、悔改めの実を結び、人権が尊重される世界をつくるサポートをしてきたはずです。そのことを思いますに、キリスト者たるもの、橋下市長を一方的に、人権侵害者として批判している場合ではないでしょう。日本のキリスト者の悔改めとその結実の不徹底やそうした社会的責任への無関心、悔改めの社会への発信の弱さも、橋下発言が起こる一因ではないか?と自らを省みる必要があるのはないかと思うのです。(引用終)

 構造的、社会的弱者を公益のゆえに正当化することが間違っている、という意見はもっともです。けれども、それを「罪」そして「悔い改め」そして「キリスト教会として」という、聖書にある、神学的に大きな意味を持つ言葉によって説明してよいものか?という疑問が残ります。そうした社会責任の部分にまで、キリスト者は果たして「罪」として「悔い改め」ように神から命じられていることか?という疑問です。

 ここの部分は慎重に行なわないと、今度は反対に、ある人たちを「社会的強者」として槍玉に上げる、これこそイエスの御姿と相容れないのではないかと考えます。戦争=悪=非クリスチャン、原発=悪=非クリスチャンという構図がある程度、日本の教会に出来てしまっているのを感じた私は、意地悪く(?)「教会に自衛隊の方が来られたらどうするのか?」「教会に東電の方がいらっしゃったら?」という疑問を投げかけたことがあります。でもこれは、現実問題です。今、自衛隊の方が教会にいらっしゃったら、その職業に就いているということ自体、何か罪を犯しているのではないかと居心地が悪くなるでしょう。東電のほとんどの方は、毎日の安定した電力供給に、報酬も鑑みず愚直に働いておられるであろうにも関わらず、外に出たら針のむしろの中に入った気分になるのではないか?と本当にかわいそうに思っています。

 ただ、水谷さんの名誉のために繰り返しますと、彼の論旨自体は霊的にバランスの取れたものであり、最後はいつも「キリスト者の自省」という中で、人を指差してはいけないという戒めでまとめておられます。私の場合、どうしても、こうした構造的罪を、キリスト者の罪として悔い改めるのに抵抗を覚える理由があります。さらに構造的な差別に私がキリスト者としてどのように応答しているかを述べていきたいと思います。

信仰前後の私の悩み

 私は、大学入試前後に抑鬱的になっていました。その中でしばしば考えていたのは、高校の授業で習っていた「南北問題」つまり、先進国と発展途上国の間にある経済的・構造的格差の問題です。また、高校卒業直後にかつての中学校の先生から、大学における学生運動についても教えていただき、自分でマルクスの「共産党宣言」や「資本論」も読みかじったことがあります。ちょっと、それ系の活動が盛んな大学に入学していたら、まずかったのではないか?(笑)と、主の憐れみを思います。

 幸い、とても温和な(笑)ミッション系の大学に入学しました。それで、イエス様を受け入れたのですが、突き詰めると、「今、自分が豊かに暮らしていること自体、食べ物が自由に買えて食べられること自体が”罪”なのではないか」と思ったものです。そうすると、先進国の日本に生きている自分の存在を否定せねばならず、自殺願望にまで発展しました。

 南北問題でこんなことまで考える人は少ないでしょう。けれども、クリスチャンになった人で、かつて海外青年協力隊やその他の援助・福祉関連で働いていた人が信仰を持つその証しの中に、やはり同じ悩みを持っていて、それで救われたという話を聞いて、「やはりそうだったのか」と安心したことがあります。

 それは、「悪いから、罪滅ぼしのために貢献しよう」あるいは「可愛そうな人々を助けなければいけない」と思って始めたのですが、その考え自体がまずおかしいのであり、むしろ現地の人に落ち込んでいる自分を助けてもらったりする経験を経ます。そして自分の情けなさを知ると同時に、相手を「弱者」と決め付けていること自体が、驕りと強者の考えではないのかという気づきが与えられます。また、「物質が事欠いていれば不幸せだ」という考え自体も、唯物的、物質的な考えで非聖書的です。

 そして福音書を読んで、「大食漢」と非難されるほどイエス様は食事を楽しんでおられ、また、一緒に食事をすることこそが「交わり」という非常に重要な霊的営みであることを知った時に、私は、その突き詰めを放棄しました!私の信仰の対象はあくまでもイエス様ご自身であり、自分の思索ではなく、この方に倣いたいと願ったからです。

バランスを崩した「社会的責任」の位置

 聖書を読めば、イスラエルという国が、出エジプトを起点としていることが分かります。彼らは奴隷の身であったから、決してその身に戻ってならないというのが、神からの国是になっていました。この状態を想起させるあらゆることをしてはならないと命じておられます。例えば、エジプトに行って馬を買ってはならない、等です。同じ情熱から、主は、イスラエルの民が在留異国人に対しても親切にしなければいけないと命じておられ、奴隷に対しても厳しく主人の行為に制限をかけています。日雇い労働者への賃金払い、やもめに対しての落穂拾いを定め、裁判官には、弱者の擁護、賄賂の禁止など、厳格に規定を設けておられます。

 では、これをそのまま社会正義として、国が行なっていることに対する、キリスト者の行動規範に当てはめることができるのか?もちろん、それをしなければいけない時があるでしょう。戦後、例えばドイツの教会は、ナチスへの抵抗を十分に果たせなかったことについての悔恨の思いを声明として言い表しました。けれども、日本においては、それが教会の指導者の中で一種の流行のようになっている嫌いがあります。教会からの戦責発表が、半世紀も経っている1990年代に集中しているからです。(参考記事

 福音に従事していたドイツ教会の場合は、戦時中特殊な状況下に置かれ、そこで御国の市民としての生き方をしていなかった、という反省の表れであります。対して、日本の教会の間で語り始められた社会責任という新たな概念は、どうもまだ日本人キリスト者の「心」にまで浸透していない、いや、「形」から入ってきただけで、心の刷新によって出てきた結実とは思えないのです。この部分だけが拡大して語られているので、神が教会に与えられている全体のご計画においてバランスを崩しているのではないか、と案じています。

キリスト教会への命令

 イスラエルに対する神の命令は、そのままキリストの体に対する命令ではありません。そう考える方もおられるでしょうが、私は、新約聖書、特に教会に宛てられた使徒たちの手紙が、キリスト者の倫理にとって直接的な規定になると信じています。

 もちろんイスラエルに対して語られた神の命令が、教会にも色濃く反映されているところがあります。例えば、貧しい人に施しをすることはヤコブ書を見れば明らかです。しかし他の使徒たちの手紙を読みますと、単に貧しい人全体に教会が施しをするのではなく、信仰の家族に対する善の優先を強調しています。パウロの醵金も、エルサレムの教会にいる貧しい兄弟たちに対するものでした。教会の福利に対する責任は多く語られて、そしてその後に教会の”周囲”に対する責任は語られています。

 しかし、自分が置かれている「国」に対してはその権威に服従し、また王や権威者には感謝するという立場を貫いています。

 イスラエルの国への神の命令を自国政府に当てはめるという発想は、人権や表現の自由が保障された国の産物と言わざるを得ません。迫害のある国々の中で、社会正義を強調する神学が実践され得ないことがそれを物語っています。地下教会はその多くが”福音的”です。なぜなら、そのような信教の自由のない国々で兄弟姉妹は、国の政策に意見を言うことは即、監獄だからです。福音宣教のために投獄されるのならばまだしも、単なる意見発表で、神から与えられた時間と機会を完全につぶしてしまうことは避けたいと願っています。

 教会の使命は「福音」が大前提です。その宣教とまたその中に生きる生活です。使徒の働きには、「主のことばが広がった」という言葉が繰り返されています。その中で貧しい人への施しはあります。しかし、「私たちには金銀はない。けれども、あるものを与えよう。主イエスの名によって立ち上がりなさい。」と宣言したペテロとヨハネの言葉がその使命と優先順位を反映しています。

 そして教会の活動としては「使徒の教えを堅く守る」「祈る」「交わりをする」「パンを裂く」というものです(使徒2:42)。ですから、政治活動や社会活動のような形での社会正義を訴える手段が教会の務めとは考えていません。

貧しい者は幸い

 しかし、貧しい人や社会的弱者に無関心であるということではありません。むしろ、福音宣教に重荷を持っているなら、そのような人々のところに自ずと近づいていることでしょう。なぜなら、そのような人々こそが霊的幸いに近づいており、そこに天の御国を感じ、喜びの知らせを携えているからです。これがイエスご自身の働きなのではないかと思うのです。「上から目線」ではなく、むしろ天の現実をこれらの方々が持っている、御国の近くに住んでいるという「同じ高さ目線」であり、こうした人々と一緒にいること自体が自分自身にとっても恵みであり、喜びであるという立場なのではないか、と思うのです。

 イザヤが、足の利かない者、耳の聞こえない者、聾唖の者たちに良き知らせが来ると預言したとおり、主がそれらのことを行なわれましたが、主ご自身が御父の喜びを感じながら、ご奉仕されたのではないかと思います。

沖縄の人々の喜び

 ですから、「安全保障という国益のためなら、地理的な必然性から沖縄に基地が集中し、その住民の人権が侵害されるのも仕方ない。」という問いかけ自体が、私にとっては息苦しくなってしまいます。そう問われたら、”仕方がない”わけがありません。けれども、私たちが基地反対運動でも展開するのでしょうか?現実に、どんな行動を取ればよいのでしょうか?

 私は沖縄には東日本の震災直前に一度しか行ったことがありません。けれども、その時から、私たちの周りにはたちまち、沖縄出身の兄弟姉妹に囲まれることになりました。数多くのキリスト者の存在、そしてその霊的影響力は大です。ユタという土着の宗教の根強さがあるものの、文化とキリスト教信仰が実によくブレンドされています。

 そして島の人々の暖かさと大らかさ、平和を求める姿はすばらしいです。もちろん、彼ら特有のいろいろな課題や問題はあるでしょう、しかし、中国と日本の狭間にあった琉球王国が、米国も加えて大国の衝突の狭間に生きたことによって、その中で一種の「霊的な貧しさ」が生まれ、そして福音が大きく受け入れられていったのです。異邦人に踏み荒らされて、暗闇となっていたガリラヤに光が来たのと同じです(イザヤ9:1‐2)。日本本土にはない霊的渇望の中でキリストの福音が伝えられている姿に、私は天国を感じるのです。

多言語環境と社会的圧迫

 私も以前いた宣教地も、いくつかの国々に踏み荒らされた歴史を持つ人々です。当たり前のように二カ国以上を話しています。社会的にはいつも差別されています。けれども、純朴で、たくましく生きている。その鈍臭さが可愛いぐらいです。そしてその地域は、稀に見るキリスト教会の数多い所なのです!

 私の親しい沖縄人の友人と、銀座の教文館の付設の聖書館にある、展示されていた過去の聖書翻訳を見ました。彼はおじいさんが、第一言語が琉球語、第二言語が米軍から教わった英語、そして第三言語が日本語です。なんと、その翻訳は、ベッテルハイムの訳した琉球語聖書でしたが、彼は感動しながら、その一語一語を私に日本語に翻訳して説明してくれました!

 ローマ帝国の中に生きていた人々もこれと同じなのです。イエスの十字架には、三ヶ国語、ヘブル語、ギリシヤ語、ラテン語の罪状書きがあったのです(ヨハネ19:20)。かつてはギリシヤから激しい迫害を受け、その言語文化の中に生きながら、新たなローマの圧制を象徴するラテン語も使用され、そして自分たちの言葉へブル語も使っていた、という重層的な言語環境におり、それゆえ社会的圧迫も強かったユダヤ人の中で、主は死なれました。

「強者」が悪なのか?

 代わって、沖縄の米軍基地付近で奉仕している米国人キリスト者もたくさん知っています。沖縄ではないですが、岩国で教会をしている牧師さんに、私が救われるきっかけが、実は米軍基地の人々が通う教会だったことを告げたら、本当に喜んで、いっしょに写真を撮らせてくれ、と頼まれました。彼らは、一生懸命、周囲の住民に福音を届けようと必死なのです。けれども、なかなか実を結ばず悩んでいます。

 「米軍」と言ったら侵略の対象なのでしょうか?社会構造的に言ったら、そうなのかもしれない。では、その中にいて福音を伝える米軍に勤務するクリスチャンは、かつての侵略欧米列強を利用したと言われる罪を犯しているのでしょうか?むしろ、米軍という現実の中に生きながら、なおかつ世の光として生きているということなのではないでしょうか?

 だから「国益や公益ならぬ神の国の拡大や布教という大義名分によって、侵略行為、異教徒の殺戮、不当な植民地支配、奴隷制度容認、女性差別、民族差別を正当化してきたのではないでしょうか?」という問いかけも、気をつけないとおかしくなってしまうと思うのです。特に「正当化」という言葉が一番心苦しくなります。そういう是非をクリスチャンが解答を明確に出す義務が果たしてあるのでしょうか?

 この前の東アジア青年キリスト者大会で、主催側の韓国の若い伝道師さんが、私に悩みを明かしました。済州島で平和活動をしているクリスチャンを招いたのだが、島内にある武器庫等の暴露など、韓国の法律に抵触する活動もしていてそれも話すから、ということでした。私は全く考えが違うので、迷惑をかけるという思いも働いて最後の十分間だけ参加しました。案の定、兵役を拒否することがキリスト者の責務だ、と話していました。

 これが何を意味するか分かりますか?韓国成年男子には”禁錮”を意味します。韓国は兵役が徴用だからです。戦争は悲惨です。兵士がその現実を目の当たりにします。しかし、そこまで論理を先鋭化させて、キリスト者に要求する話なのでしょうか?そして、イエス様はそこまで論理を突き詰めていかれたでしょうか?百人隊長に対して、イエスのみならず使徒たちも「信仰」のみに焦点を合わせておられました。私もそこに留まりたいと思っています。

福音のための交通手段

 海外宣教活動において、どこからが「神の国のための侵略行為」として非難されるのでしょうか?かつてカトリックのバテレン(宣教師)たちが、侵略者たちの船に乗って布教に来たことだけで、それが侵略の正当化になるのか?むろん、政治的に妥協して霊的な事柄に感心を示さなくなったバテレンもいましたが、多くがあらゆる交通手段やその他の機会を利用して、何とかして(私はカトリック教義に同意していませんが、彼らのいう)福音を広めようとしたのではないでしょうか?

 今、航空機を使っていろいろな国に行く宣教があります。もし、国家間の協定がなければ、その上空さえ飛ぶことはできません。そして、近年開国された国々は、イラク等、戦争の傷跡が残っているし、まだムスリムの存在があります。だから純粋に宣教師と言うことができないから、いろいろな形でその国に入っています。政府関係者も近づいてくる。微妙なところに置かれることが多いです。それを、悪意を持って見たら、神の国のために侵略を正当化している、という誹りにもなるのです。

 パウロがあれだけすばやく福音を伝えることができたのは、鉄の国(ダニエル7章参照)ローマが、諸国を押しつぶし、ローマにつながる道を構築したからに他ならず、その整備された交通路を使ったからです。パウロも、パックス・ロマーナの便益を活用し、その道路整備で奴隷として働かされた人々の犠牲によって成り立った道を利用した訳ですが、ローマの侵略を肯定していたのでしょうか?そして、「権威に従いなさい」とネロが皇帝の時に言った彼の言葉は、侵略国の肯定になるのでしょうか?まさか!!

強者への福音伝道

 イエス様は弱者だけでなく、強者にも近づかれました。百人隊長がその典型です。その働きかけはパウロやペテロにも受け継がれ、異邦人なのに聖霊のバプテスマを受けたコルネリオ、パウロの周りで福音が広がった、カエサルの親衛隊などがいます。

 「福音」と殺人の武器を持つ「軍隊」 ― イザヤ書には終わりの日には、主の教えによって国々が武器を持つことをやめることが預言されています(2章4節)。けれども福音宣教の中では、私たちの目には相矛盾する働きが行なわれる。それは、どろどろした人間の現実があり、弱者の犠牲の上に成り立たざるを得ない現実があり、その中に生きながらも、なおかつ天の御国を神は拡げようとしておられる情熱をイエス様の中に見るのです。

 そうでなければ、イエス様は決して家畜小屋の飼い葉桶でお生まれにならなかった。「綺麗」というものが必ずしも御心なのではなく、むしろそれはあらゆる汚れを避けようとしたパリサイ派につながりかねない律法主義に陥る危険性があります。

日本にいる韓国人宣教師

 韓国で受けた教育に従えば、日本に福音を伝えに行くこと自体、忌み嫌われることでしょう。けれども、それでも伝えに来た宣教師がたくさんいます。私には尊敬する、友人の韓国人宣教師が何人かいます。彼らのうちには、本国で「あなたは、なぜ日本に行くのか?」と疑問に思われたり、見下げられたりしながら、ここにいるのです。彼らの多くが、領土問題、歴史問題など強い関心を持ちながらも、日本人に福音を語るがゆえ敢えてそれを語らず、十字架につけられたキリストのみを宣べ伝えることに集中しています。

 構造的差別ことを考えれば、かつての侵略国である日本にいること自体、罪です。事実、韓国の左翼勢力は、韓国をこれだけ豊かにすることに貢献したかつての政治家を親日派として糾弾するのに躍起になっています。今の大統領、朴権恵女史がその標的になった一人で、彼女は選挙運動中、父親が親日派だったとして進歩派からの糾弾をたくさん受けました。そんな反日的雰囲気のある中で、長期に日本に在住する宣教師たちは、なお福音のために自分に死んで、ここに住んでいます。そのご足労を感謝せずにはいられません。

「是非」ではなく「福音による共生」

 「公益による弱者人権侵害の正当化」というキーワードですが、「正当化」に焦点に当てるのではなく、むしろ「共に生きる」ことを焦点に合わせたらよいのでないでしょうか?それは社会正義の共生ではなく、私の造語ですが「福音宣教の共生」です。

 例えば、今回の話題で風俗による女性差別が問題であるならば、風俗店に働いている女の子たちに誰かが近づき、福音を伝えねばなりません。私には今の時点ではどうすればよいかさっぱり分かりませんが、アメリカでは元ポルノ女優でクリスチャンになった人が、元同業者に積極的に働きかけていることを聞いたことがあります。

 元慰安婦の方々に近づいているクリスチャンも、おそらくいることでしょう。その賠償請求に関わる弁護士や活動家たちが目立つ一方で、マスコミには全く出てこない人たちで、そのおばあちゃんたちと共にいて労わりながら、静かに福音を伝えていることでしょう。

 かつてのらい病、つまりハンセン病は、イエス様が直接触れて、きよめられたという福音を受け入れた記録がありますが、日本におけるハンセン病療養施設には、キリスト教関連のものが数多くありました(ウィキペディア)。ちょうど生まれつきの盲人のように、「神のわざが現れるため」というイエスさまの目が特別に注がれている人々であるという信仰が、それらクリスチャンの働きの原動力になっていたに違いありません。

 そして水谷さんご自身が従事しておられた「小さな命を守る会」は、まさに福音によって、中絶関連で苦しんでいる女性たちに寄り添う奉仕をしています。

 在住外国人に対してはどうでしょうか?聖書には、アンテオケの教会など、異邦人とユダヤ人の信者が混じって礼拝を持っていました。今は、日本も日本人だけでなく多数の外国人が住んでおり、外国人が教会にいる光景はまったく珍しいことではありません。「ギリシヤ人も、ユダヤ人も」であります。

 以上、福音による寄り添いの例でしたが、その働きの中で不正義が浮き彫りにされてくる時があるかもしれない。その時に神に示されるのであれば、公的機関への訴え、また信条告白の発信などあるかもしれない。けれども、これが自己目的化してはらなぬのです。私たちは活動家や評論家として召されたのではなく、現場において福音の働き手として召されました。そして福音の働き手をしていると、福音そのものの性質から、貧しき者、苦しむ者、弱い者との共存を行なっていく。その中で結果として、社会的不正が正されていく、という実を結びます。

「差別」の中の「一致」

 他にも例や証しは、わんさかあるでしょう。キリスト教会の醍醐味は、自由人が奴隷に対して負い目を持つことでもなく、男が女に対して負い目を持つのでもなく、それぞれの区別がありながら、その中で「キリストにあって一つになれている」という喜びではないのでしょうか?(ガラテヤ3:28)

 いまだ、主人と奴隷のような構造的差別があるかもしれない。けれども、キリストが自分にとって全てとなり、それで互いに対等な兄弟と呼ぶことができる。例えば本土の私と、沖縄のクリスチャンがキリストにあって垣根なく交わることができる。相手をキリストにあって敬い、尊ぶことができる。社会的には差別という現実があろうとも、互いにキリストにあって結ばれているという喜びこそが、神の願われている実ではないかと思うのです。

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