山本太郎氏当選に思う

参院選が終わり、いつもなのですが、妻も私も、自分の投票した人はずっと落選しています。(汗)今回、東京で当選した元俳優、山本太郎氏に関して書いたほうがよいかな?と思いました。

反原発運動の功罪

山本太郎氏と言えば、もちろんその反原発運動が選挙の争点であります。日本のキリスト教会の中で、反原発の姿勢を取る教会、個人、教団が多く現れました。全体としての雰囲気は、個々人のキリスト者はいろいろな意見を有しているのに、「キリスト者 → 反原発」という構図になっています。

私は、これまでのブログで社会正義、また社会運動とキリスト者について論じてきましたが、私の立場は、「キリスト者は社会運動の活動家として召されているのではなく、あくまでも福音宣教者として召されていること。けれども福音そのものに、イザヤ書に預言され、福音書に実現された、社会的弱者に届くキリストご自身の宣教が含まれており、それゆえキリスト者は弱者に注がれている神の霊的祝福をもって、その人たちと共に生きる」というものです(参考ブログ)。ですから、反原発への活動を促す書籍や講演がキリスト教関係で出ていますが、私にはどうも肌に合いません。

むしろ、私は反原発姿勢を政府にぶつけるのではなく(私にはどうしてもこれが、ローマに対抗するユダヤ人に重なってしまう・・)、原発事故によって苦しみを実際に追っている人々に寄り添う、原発の甲乙を付けずに関心を持ち、祈っていくという霊的支援を送りたいと思っています。

キリストの御体を傷つける反原発運動

私は、原発事故が起こってからすぐに自制と冷静さを求める記事をここに書いてきました。霊的には、「これはキリストの体にとって、第二義的な出来事であり、第一義的使命を見失ってはいけない、バランスが必要だ。」ということを主張してきました。反原発運動にもいろいろあり、真摯で科学的なものも一部にあり傾聴に値しますが、私はその盛り上がりの姿を見て、放射能被害よりはるかに大きい、社会的、精神的、そして霊的損傷が出るだろうと予感しました。そして、事実そうなりました。。

その一例となる記事を紹介します。

相馬市長の訴え 「根拠のない、過激な発言が、福島の人々をどれほど深く傷つけているか知ってほしい」

山本太郎氏の当選をきっかけにして、私がキリスト者としての立場を明確に言わねばならない思いました。それは、私は「反・反原発」ということです。これは、原発推進という意味ではありません。私は自分の頭で考え、国のエネルギー政策を考えるうえで、一国民としてある程度の意見はあります。けれども、あくまでもこのブログでは、福音宣教者としての意見を表明するように努めています。

反原発運動に関わっている人がどんなに理路整然とした主張をしたとしても、キリスト教会という現場の人々、兄弟姉妹や、その家族や知人など、実際の話を私は聞いてきました。総合するなら、「益よりも害が大きい」ということです。放射能汚染の恐怖によって自分の精神をすり減らし、あるいは活動にのめり込んで教会に行かなくなった、であるとか、キリスト者の社会的責任という美辞麗句とは程遠い現実を聞いています。

このブログ記事を読まれている牧師の方々、いかがでしょうか?私たちにとっての使命は、羊を養い、キリストの御体が建て上げられることです。反原発運動によって、教会の中でキリストにあって成長したという証しがあれば、どうか分かち合ってください。建徳につながった、という証しがあれば、主はこの運動をも用いられているわけで、私は必ずしもアンチの立場を取りません。

私は、福島のキリスト教会の方々がその苦しみをキリストにあって甘受し、忍耐しておられる力強い証しを聞きますが、その証は教会全体を強めています。佐藤彰の牧する福島第一バプテスト教会の証しは、自分の教会の兄弟姉妹にもぜひ聞いてほしいと強く願うものです。

(書籍に「流浪の教会」などがあります。)他にも福島県にある諸教会の証し、またその祈りの課題があります。そして福島全体に対しての祈りがあります。福島は私の出身東北地方でもあり、実家に帰ったり、復興支援旅行に行く時、高速バスでそこを通るたびに、涙が出そうになります。「ああ、この美しき福島・・・」と心の中で語っています。福島産の農産物があれば、買いたいし、そして実際買います。売っている人には、11年4月に相馬市で泥だしをした話をして、「あなたたちは独りではないのだ」という思いをもって励ましています。

けれども、反原発運動は違います。首相官邸前のデモであるとか、キリスト教系の新聞も取材していましたが、私は、この運動によって建徳よりも傷が付いたことが多いのではないかと思い、それで「深くかかわることは危険だ。」と明言しました。

テロリストはイスラム原理主義だけではない

山本太郎氏の当選で注目したのは、もう一つは、彼と中核派との結びつきです。最近のブログ記事「プライバシーとキリスト者」の中で私は、「良心的な思いが、これまで過激派に利用されてきたことは、紛れもない事実」と書きましたが、まさかこんなにも早く、山本太郎氏で実際のものになるとは思っていませんでした。中核派の親分が、渋谷の街頭演説でずっと彼の横に立っていた姿をYouTubeで見た時は、ひっくり返りそうになりました。ついにここまで来たか、と思いました。

山本太郎氏当選に思う–噛みしめるべき格言「教育のない民主主義は無意味」

私は、原発事故のすぐ後に、この事故が極左思想の活動家を呼び覚ましたことを直感しました。事故の数日後に、私のメールに、ある専門家の講演のYoutube映像が転送されてきました。私は五分見ただけで、そこにある独特な話の持っていき方、論理の飛躍を聞いて、「この人、純粋な科学者でなくて、かなり左翼的思想を持っている」と直感しました。調べると、案の定、北朝鮮の核開発は核兵器製造ではないと言い切る論文を書いており、北朝鮮ではなく、朝鮮人民共和国と呼ばなければいけないとする、親北朝鮮派の人です。

グーグル検索で「反原発」と入れますと、一番上に極左過激派の団体が出てきます。原発というエネルギーのもつ、倫理的意味合いを考える静かな時間は貴重であると私も思います。原発も核兵器と同じように、私たち人間存在に対する根源的挑戦を突き付けてきます。けれども、現実の生活では、こうした活動家の流す、偏った、あるいは歪められた情報が一般の情報源の中に流れ落ち、毎日の生活で忙しい人々はそれを情報源としがちです。こうした思想的流れに免疫のない人が受け取ると、過激化するか、あるいは精神的損傷を受けるか、どちらかになります。(左翼思想については、こちらを参照)

反キリスト的な動き

投票した人は、その大部分が「有名人だから」という理由でそうしたのでしょう。だから、そんな大きな被害はない、とお考えになるかもしれません。いいえ、過激派はこうした「普通」一般の人たちの「情緒」に訴えて、「全体を煽る」のに非常に長けたプロ集団です。大衆を自分たちに引き寄せてから、専制を行なうという手法をいつも使っています。

独裁者は弱者の味方として登場する

上の記事はヒトラーがどのように台頭したかを書いています。このような独裁者が、突如として私たちの生活に専制を敷いたのではありません。むしろ、強者を敵として弱者向けの政策をことごとくこなし、大衆の人気を得た後に一気にその正体を現し、専制を敷きます。ヒトラーは、ヨーロッパと北アフリカ戦線を拡大させ、ユダヤ人を大量虐殺したことから、彼が反キリスト的であり、その霊によって動いていたと言えます(こちらのエッセイ参照)。反キリストは、平和の使者として世界の舞台に登場して、途中で正体を翻して世界政府の専制を行ないます。同じ流れ、すなわち同じ霊を、私たちは政治舞台でいつでも、どこでも見るのです。

ある知り合いの牧師さんが、このようなことをツイッターで書きました。

「僕自身も原発はなくして行く方向で平和憲法維持を支持します。しかし、クリスチャンなら反原発、クリスチャンなら憲法改正に反対だろうと勝手に決めつけ、クリスチャンなら『平和』だろう!って言われるとかえって反キリスト臭ささを感じるのは僕だけだろうか」

問題は、原発の是非ではないのです。キリストに置かなければいけないアイデンティティーを、なぜか平和とか反原発にすり替えている、神の義ではなく人間の義にすり替えているのが、まずいのです。それが反キリスト的なのです。「正しい」と言い張るところが、逆に危ないのです。

【後記】
「それではあなたは原発に賛成なのか?」というコメントをした人がいました。こちらの関連記事をご紹介します。

「二項対立」という罠

「山本太郎氏当選に思う」への2件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です