エッセイ「神の戒めと愛」

誰を愛しているか?

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。(ヨハネ15:10)」

いろいろなクリスチャンと話して、しばしば抱く疑問があります。それは、「神の愛と恵み」が、どうしてか、「神への従順と服従」「良い行い」「主への奉仕」につながらないのか?ということです。まるで相反するものであるかのように話す人もいます。けれども、イエス様の上の言葉、また聖書全体に貫かれているテーマは、「神が大いなる憐れみを注いでくださった」、だから「主に対して良い行いをする」という流れです。

ところが、「ありのままの自分で愛されています」「そのままでいいんですよ」と言われるとほっとし、そして「自分を捨てて、主に自分をゆだねて、明け渡しましょう。」と言うと、とてつもない葛藤の中に陥る、という反応をします。

そこで次のブログ記事を紹介します。

育てよう健全信徒(28)あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン

リンク先に入られて、ゆっくり読んでいただきたいのですが、人があるがままに受け入れられたら、無条件の愛に触れられたら、自分自身をその人のために捧げたい、という願いが起こるはずなのです。愛とは交わりのことであり、交わりには応答が当然含まれます。ところが、その応答のことを話すと、新たな規則や縛りであるかのように受け止める。これは何が問題なのでしょうか?

簡単に言えば、そして根本的なことを話せば、実は「無条件の愛に十分に触れられていない」と言えます。キリストの十字架を通して裸の自分を神の前に持っていっていない。ありのままの自分を持っていっていない。気取っている、偽っている・・・ということが挙げられるでしょう。

その明け渡していない自分は、究極的に、そして徹底的に「自分の世界で生きる」という強情さ、頑強さがあります。自分の力によって生きるその自我が深く横たわっています。それで、これまでその自我を覆い隠しながら、人間付き合いも自分なりに上手にやってきました。ところが聖書は、これまでの自分の振る舞いが決して通用しない、すべてを見通す神がおられることを教えます。

このような自我を持っていますと、自分の周りで規則を作ります。自分がこうあるべきだ、という物差しを持っていて、そして他者にも当然そうあるべきだという物差しを持ち出します。そこで律法主義に陥っています。実は、我が儘なクリスチャンと律法主義的なクリスチャンは表裏一体です。自我を変えたくないので、自分が心の中で作り上げている規則の中で生きていこうとするのです。

イエス様がなぜ、「実」という言葉を多用されたのか?それは、自然に育つしか方法がないからです。自分を規則で固めても、必ずボロがでます。本当の自分ではないからです。どこかでしわ寄せが来ます。自分自身さえ、自分が何を考えているのか分からなくなっていきます。だから、「戒め」「命令」「服従」「従順」という言葉を聞くときに、「私をここまで愛しておられる主が仰ることなのですから、お従いいたします。」とはならないで、「そんなことできません。」ときっぱりお断りしてしまうのです。

「愛」 = 「自我の受容」
「戒め」 = 「規則」

となっています。これは本当に可哀想、とても疲れるし、喜びがなくなってしまいます。

私たちの救いは、罪からの救いです。古い自分が十字架でキリストとともに付けられた、という解放です。だから、「自分を捨てる」というのは喜びの知らせなのです。そして「キリストの姿に似せられる」という、人間本来の姿、神が原初に人間に与えた目的が自分の内で実現していきます。「わたしの戒めを守りなさい」と主が言われる時に、これまで世の中で築き上げた自分ではなく、神が母の胎内に自分がいるときから造ってくださった、本来の自分の姿に戻ることができるのです。

礼拝とイエスの愛

もう一つ、次のFacebookの記事もとても大切。主を礼拝することと、世の命を大切にすることを天秤にかけて話しています。

「なまぬるい人」

厳しい指摘ですが、まさにその通りです。今、教会で新しく信じた人たちに学び会をしていますが、「祈ること」「聖書を読むこと」そして「交わる」ことについて教えました。交わることの大切さを教えるために私は、「クリスチャンになって、もう23年ぐらい経っているが、日曜日に礼拝を休んだのはたぶん十本の指で数えられるぐらいだと思う。」と話しています。

一度、礼拝に出ると決めてしまえば、「神様に礼拝する」ということが選択ではなく、自分から切って離せない生活の一部になります。そうすれば、行くべきか行かないべきか悩むことなく、逆に楽です。もちろん、信仰の中でこうした強い決断をしなければならず、信仰がなければすべて罪だとローマ14章の最後に書かれている通りに、礼拝を人間的な規則のように考えてはいけませんが、

イエス様はどのような方なのか?
神とイエスの「命令」は何なのか?

を考える必要があります。もちろん人は、牧者でさえ、他者に礼拝を強要したり、心理的に圧力をかけてはいけません。けれども神とキリストの命令というのは、友達と遊びに行く時の会合のような「選択」や「趣向」ではなく、「絶対的主権者である王であり主である方」が語られていることです。特に「礼拝」とは、王なる方にひれ伏すことであり、自分の意志を全面的に御前に放棄することです。

このことを知る時に、このような厳しく見える戒めが、実は愛に満ちたイエスのみ言葉と同じ勧めであることが分かります。

【後記】
初めのリンク先の記事を書かれた水谷潔さんが、こちらの記事をリンクされて、さらに二つの記事を書いておられます。

「あるがまま詐欺」を考える(上)
「あるがまま詐欺」を考える(下)

「エッセイ「神の戒めと愛」」への1件のフィードバック

  1. アーメン。
    神さまに従って生きたいと願っているのに、福音を語ることも、「あらゆる国の人々を弟子とする」こともできないでいます。
    神さまが私を愛してくださっているから、大好きな神さまが喜んでくださる生き方をしたい。
    職場などの身近な人たちに、どうやって福音を伝えられるのか、難しいです。
    祝福の基として召されているはずなのに、使命を果たせていません。
    神さまに委ねる、と言いつつ怠惰なだけではないのか。
    教会の「内向き」な奉仕(それも必要ですが)だけに甘んじているのではないか、と振り返らされました。
    ありがとうございます。

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