「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに

先週の日曜日、とても嬉しい事がありました。LCFの教会が始まる時から教会にいらしていた方が、この前の礼拝の中で救いの証しをされたことです。

最近示されていること、教会が何をしなければいけないか、三つのことが示されています。

①信仰告白 ②伝道 ③弁証

他に、教える働きや勧めの働きなどもありますが、それは信仰者の徳を高め、建て上げるための奉仕であるのに対して、上の三つはこの世、まだ神を知らない世界を意識して行なうものです。①の信仰告白は、人の心と良心に与えられている真理を、口をもって言い表すことです。②は他者に、キリストの福音を伝えることです。では、③は何であるかご存知でしょうか?「反対者の中で、あるいは反対の価値観に囲まれている中で、キリストにある希望を弁明また説明すること」と定義することができます。

これから、折を見て、この三つのことについてお話ししたいと思います。私の感触では、意外に①と②がクリスチャンの間に共有されていないのが現実ではないか、と見ています。「心で信じてさえいれば、良いではないか。なぜ、いちいち口で言い表すのか?」と思っている人が意外に多いです。また、教会はその日本語の名のごとく、ただ聖書の教えを受ければ良いと思っている人もいる。また、救いの証しについては、自分のことを話すことだと勘違いしている人も多いです。自分の経歴を話すのではなく、自分を救われたキリストを証言するのが救いの証しです。

ましてや弁証(apologetics)の領域は、日本の教会の中にほとんど実践されていないのが現状です。むしろ、弁証することをしないで、世との「対話」をすることがキリスト教を紹介することだと、教会の指導者の中でさえ思っている人がいます。ましてや、他宗教との音楽活動などキリストとベリアルの融合であり、論外です。これは「妥協」という、霊的に致命的な損傷を起こす危険な動きです。けれども、③「弁証」は個人的に興味そそられる分野であり、自分が、相手の価値観の土俵の中でいかにキリストの希望を弁明できるのか?というチャレンジを感じています。

信仰告白の重要性

話を戻しますが、教会は「教えを受ける会」ではありません。これは誤解を生じさせかねない訳です。教会の存在意義は、教えを受けることではなく、「イエス・キリストを告白」するところです。

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。・・・ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:16,18)

ペテロが、「神の子キリストです」と言い表したその告白が、ハデスの門(死)にも打ち勝つ力が与えられているのです。そこで教会は、歴史を通じて「使徒信条」を使って告白してきました。けれども、それは心の伴わない唱える文章にならぬために、しっかりと自分の体験も含めて告白するのが、救いの証しであります。

ぜひ、ヘブル書の学びをしてみてください。西日暮里バイブルスタディでこの書を学んでいますが、こう書いてあります。「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)」ヘブル書を学ぶと、他にいかなるものよりイエスが偉大であることが細かく説明されており、信仰告白にある躍動、命、そして力を感じ取ることができます。これは単に、言葉を唱えることでは決してありません。

意外にできていない伝道

そして伝道ですが、分かり易く説明しているビデオがありました。ハーベスト・タイムの中川健一さんによるものです。

聞いていただきたいのは初めの4分間半ぐらいの部分です。多くの人は、自分がイエス様を経験しているから伝道ができる、と思っています。けれども彼は、こう言いました。「どうして伝えていけばよいか教えられていないならば、精神論で終わってしまう。」そうです、自分が知っていると思っているかもしれませんが、それをどれだけ正確に伝えることができていますか?しかも、確信をもって伝えることができていますか?

The_woman_of_Samaria_400こちらに、私の救いと両親の救いを書いた文章があります。このような文章を書く過程で、以前は自分がいかにキリストを証言してこなかったかを実感しました。「何となく知っている」のままで終わらせていたのです。自分におられるキリストの内実が、真理の御言葉に照らしてどのようになっているか、客観的に知らせる必要があります。けれども、福音の提示を学び、また救いの証しを準備・実践することによって、人々が神の真理に触れることができるだけでなく、自分自身の信仰が明確化し、安定するのです。

そして、救いの証しをする時に、それを体験談だと勘違いして、長い時間話す人が多くいます。これは聞き手(その大きな対象が未信者)を疲れさせ、飽きさせるものです。伝道、さらに弁証はなおさらのこと、語り手主体ではなく、「聞き手主体」の言葉になっていなければいけません。

高度な働き「弁証」

信仰告白が教会の支柱で、個々のキリスト者の救いの要であり、伝道が周囲の人々に対する働きかけであるならば、弁証は「周囲の人々のど真ん中で語る」ことです。パウロが、まったく世俗のローマの法廷において、総督に対して、そしてヘロデ・アグリッパ二世に対して、救いの証しをし、キリストを論証しました(使徒26章)。

Market-Garden_-_Landingsこれは、軍の部隊の空挺兵のような存在であり、敵の部隊に空からバラシュートで降りて、敵陣のど真ん中で戦うような働きです。

例えば、私たちがお寺に行き、お坊さんに中に招いていただき、寺の中でキリストの福音を論じることです。そこには、お坊さんに対する一定の敬意が必要であり(ちょうど、パウロが総督とヘロデに敬意を表したように)、相手が信じて立っていることを十分に理解することが必要であり、なおかつその土俵で、唯一の望みはキリストであることを論証します。

その中で、キリストにある確証が非常に強く、仏教の教えが自然に瓦解していくという、強い論証が必要です。外国では、例えばイスラムの人々にそのような働きかけをしているジェイ・スミスという人がいます。この人はムスリムへの宣教者となるために、神学校で特別な訓練を受けただけでなく、一時、ムスリム共同体の中に生活し、彼らの思考や文化を体で吸収したのでした。そして今は、イギリスにいるイスラム原理主義者と真正面からの議論を交わしています。

パウロも、ユダヤ教の真髄まで知っていた人ですから、だからこそ聖霊に満たされて、ユダヤ人を論駁し、うろたえさせることができました。

一歩一歩進む

多くの人が、つんのめっています。信仰告白ではなく伝道ををしようとしている人、伝道しているつもりが、キリストではないことに話が逸れて議論している人、そしてお話ししたように弁証ではなく、対話や他宗教との融合芸術活動をしている人がいます。けれども、一歩一歩しか進めないのです。初めは、「自分は信仰告白をしたことがあるか?」を問わなければいけませえん。また救いの証しを、明確に言語でしたかどうかを思い出してみましょう。「もう分かっているから・・・」は禁物です。本当に分かっているのかどうか、自分が立っている土台を確かめるのです。

そして、伝道です。順序立てて話せるかどうか、ご自分で確かめてみてください。イエス・キリストを伝えるのではなく、自分の気持ちや考えを強調することにずれていっていませんか?教会用語ではなく、一般の日本の人たちが理解できる言葉を使用していますか?福音は単純ですが、相手のところまで降りていく根気と柔軟性が求められる作業です。そして多くの人が、自分が福音を伝えても信じてくれなかったと残念がりますが、福音をいかに正確に伝えらえたかが焦点です。福音を明確に伝えられたら、神から与えられた任務は遂行したことになります。

②「伝道」の前に①「信仰告白」を、③「弁証」の前に②「伝道」を、そして③「弁証」をするつもりで④「対話・融合」という背教行為を行ってしまった人は、悔い改めて、改めて①から始めてみてください。

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