信仰告白とは

(「「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに」の続き)

「信仰告白」という話題に、今、わくわくしています。同時に、信仰告白は、日本での宣教において、これをいかに伝えるか、説明できるか?という課題でもあります。

聖書に出てくる信仰告白とは何か?もっとも短く、端的なものは次の二つですね。

あなたはキリストです」(マルコ8:29)
イエスは主です」(ローマ10:9)

この二つでしょう。前者はペテロがイエス様に言った言葉、後者はローマ10章にある、このことを口で言い表せば救われると、パウロが説明している言葉です。この短い言葉が、いかにすぐれているのか、ここに感動せざるを得ないのです。

もう一つ、教会史においては「使徒信条」があります。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり、
かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

この一つ一つの字句を、多くの聖句に照らし合わせながら信じていくとき、私たちは真正なキリスト者として生きていくことができます。

「あなたはキリストです」

「あなたはキリストです」の言葉には、ペテロがサンヘドリンで宣言した次の意味が含まれています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒2:12)

自分の今の預金口座の額が自分を救うのではない
自分の妻、自分の子どもが自分を救うのではない
自分の趣味が、自分を救うのではない
自分の友人が、自分の恋人が救うのではない
自分が培ってきた教育が、自分を救うのではない
自分の探究している学問が救うのではない

ましてや、「いわしの頭も信心から」という信心深さによって救われるのではない

国の生活保障が救うのではない
国の軍事力が私たちを敵から救うのではない
科学が人を救うのではない

何にも希望を見つけられないから、「ええやないか、ええやないか!」と現状を直視しないで騒いだり、自分の世界に入ってスマートフォンを見つめても、それでも救われません。

イエスが救うのです。この方が救いの源です。

・・・このような告白なのです。

または、多くの人は「救われる必要なんか、ないよ」と答えるでしょう。では、一つずつ支えの柱を打って、倒していきましょう。

今、預金口座からお金がすべてなくなりました。それでも救いは必要ありませんか?
今、自分の妻、子どもが死にました。それでも救いは必要ありませんか?
交通事故にあって、大好きな趣味ができなくなりました。どうしましょうか?
友人が自分を裏切りました。恋人が他の男(女)と二股でした。「悔しい」と苦しまないでください、救いが必要ないなら。
これまで教えられてきたことが嘘だと分かりました。それでも怒らないでください。

そして、どんな時にも神仏にすがらないように。

破産しても、生活保護もありません。それでも「救いが不必要だ」と言わないように。
北朝鮮から核ミサイルが落とされました。それでも「大丈夫さ」と言ってください。
現代の医学では決して解明できない難病にかかりました。それでも救いは必要ありませんね。

これだけ話しても、「救いは要らない」とでも言うのでしょうか?

イエスは救い主(キリスト)です。これが「イエスがキリストだ」という告白です。

「イエスは主です」

ヘブル書は、不信者の同胞からとてつもない迫害を受けていたユダヤ人信者が、イエスを告白したり、イエスの名によってバプテスマを受けたり、またイエスの名によって集まることをやめて、ユダヤ教の神殿礼拝の中に留まっていようとしていた人々、その誘惑を受けていた人々に対して、励ましと、また警告の言葉を伝えている手紙です。

そこで、ユダヤ教の中で大切にされている要素を取り上げ、それ以上にイエスが優れていることを論証しているのが、ヘブル書になります。

1章では、「御使いよりもすぐれた方」として紹介されています。御使いというのは、聖書では「主権、力、支配」とも呼ばれており、この世にあるあらゆる主権、力、支配、領域の背後には天使的存在があります。しかし、イエスは神の御子、万物の相続者、支配者であられます。私たちが生きている世界で、どんな力に圧迫されようとも(会社での圧迫、家族からの圧迫、社会からの圧迫、などなど)、「イエスは主」であられ、「イエスは御座におられる」のです。

次に2章では、「イエスは、あらゆる苦しみを通られた方」として登場します。万物の支配者であられる御子が何と、人と同じ姿を取られて、苦しみを通られ、実に、私たちの罪の供え物とまでなりました。だから、イエスは「私たちのあらゆる領域で、どんなに苦しいところでも、どんな負い目においても、私たちと共におられる主」であられるのです。

3章では、「イエスはモーセよりも偉大だ」ということが出てきます。モーセはイスラエルと言う神の家の忠実な管理者でしたが、イエスはその神の家を造られた方です。この御子の直接の家が、私たちイエスを告白する者たち、教会であります。

ユダヤ人共同体以上の共同体に属しています。したがって、イエスを信じた者でユダヤ人から追放された生まれつきの盲人は、その迫害と追放を甘んじて受けることができたのです。はるかに高い次元の共同体の中に移ってきたのですから。同じように、私たちは、いろいろな共同体の中にいます。いろいろな人、いろいろな組織と接しながら生活しています。けれども、教会という霊の共同体はそれらをはるかに超えたところにあり、私たちは後者に属しているのです。

このことが分かるだけでも、喜んで圧迫や迫害を受けることができるでしょう。「イエスは主」という告白はこれだけ力強いものなのです。そして、この力は、実に死にも打ち勝つものです。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(悪魔)に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(黙示12:11)」

(参考:「ヘブル書の学び」(第二回目の学びがいいです))

使徒信条

使徒信条については、とても良いサイトがあります。

使徒信条について

多少、私の見方と異なるものもあります(例えば進化論に対する見方)。けれども、おおむね、しっかりとした説明であります。特に初めの、「われ信ず」とのころは、全部をここに抜粋したいぐらい、今の日本の人たちには必要な文章です。

私もこれまで牧会上、「信じる」という言葉で悩んでいる人、自分がキリスト者であることに自信が持てない人、信仰上、心配しなくてもよいことで心配している人、また、「信じる」ことと「クリスチャンになる」ことがどうしても合致しない人など、いろいろな悩みや相談を聞いてきました。クリスチャンになったと言っても、なぜか確信をもって自分の救いの証しを立てられない、救いの喜びに足りない人もいる。ですから、ここにある説明が、その基本回答になっていると思います。一部を抜粋しますが、よかったらリンク先のページを全部読んでみてください。

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信じるとはどういうことか
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わたしは信じます。天地の造り主、全能の父なる神を信じます、と使徒信条は告白するのですが、そもそも信じるとはどういうことなのでしょうか。キリスト教基礎講座で「信じるとはどういうことか」というテーマで3回にわたってお話ししたことがありますが、そうしなければならないほど、信じるという言葉は誤解に満ちた言葉になっている。

例えば、クリスチャンではない人たちはクリスチャンのことを信心深い人たちだと思っています。信仰心の厚い人だと思っている。だから、クリスチャンに向かって、「わたしはあなたのように神を信じるような殊勝な心もなく、信仰心が薄くて」というようなことを言う。しかしこれは全く単純な誤解。しかしそれだけに根が深いとも言えるのです。

聖書が語る信仰とは

聖書が語る信仰とは、信仰心のことでも、信心のことでもない。信仰心が厚いかどうか、ということと、聖書の語る信仰とは全く関係ない。聖書が語る信仰とは、人間に迫ってくる神の愛、真実、恵みを人間が受けとめ、承認することなのです。

信仰において大事なこと中心となっていること

つまり信仰において大事なこと中心となっていることは、わたしの信心ではなく、わたしに迫ってくる神の愛、神の真実、神の恵み、それこそが大事なのです。信じる対象こそが大事ということです。はっきりいえば、我々が信心深いと思っている時も、不信仰だと思っている時も、そんなことに関係なく、神は我々に迫ってくる、その神の働きこそが信仰の決め手なのです。
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信仰は、対象によって引き起こされていくもの

だからいつでも信仰は、対象によって引き起こされていくものなのです。とすれば、我々にとって信仰とは、自分の勝手な思い込みとか、わたしはこう信じます、というようなことではないことは明々白々です。対象が、相手がわたしにどう働き関わってくださっているか、ということを知ることなくしては、信仰は生きて働かないからですよ。

自分の中にある不確かで不安定な信心のようなもの、それが信仰を形づくっていくのではない。信じるといっても、愛するといってもわたしたちの中にあるものは貧しい。貧しいというだけでなく、偽りが多い。

家族を愛している、といっても多くの場合自分を愛しているのかもしれない。それぞれ自分にとって都合のいい親や子どもを求めて、そうならないと苦しんでいるのは家族への愛も自己愛の延長だからかもしれません。・・・

信じる、といってそれだけがこういう自分と無関係に、立派なものになるわけではない。そんなこともういいかげんにわかっても良さそうなものなのに、信仰に関しては、醜悪な自分を棚に上げて自分の作ったあるべき信仰のようなものにあこがれる。

そしていつも不十分な自分の信仰、というところに自分を安住させていく。しかし我々の頭で考えたあるべき信仰というようなものがどこかにあるわけでなく、信仰は対象によって生きる、向こうからの呼びかけ、迫ってくる神の愛によって生きるのです。

朗読された聖書の箇所には

朗読された聖書の箇所にはこうあります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」ここに書かれていることは、おそらく皆さんにとって初めからよくわかるものではなかったはずです。人は心で信じて義とされ、ということはともかく、口で公に言い表して救われる、という部分はなぜなのか、と思われる方も少なくないのではないでしょうか。信じるということは心の中の問題と思っている人が多いからです。

確かに信じるということは心の中の問題でもあります。しかし、口でイエスは主であると公に言い表して救われるのです。

信仰は向こうからの呼びかけによって起こるもの

なぜなら我々にとっての信仰は向こうからの呼びかけによって起こるものだからですよ。迫ってくるものに対して、応えるということによって初めて具体化していくものなのです。

神は呼びかけて、わたしが応えることを待っていて下さる方です。わたしたちだってそうです。大切な人に呼びかける、応えてくれなければ、何度でも呼びかける。その呼びかけに相手が応えてくれたところから対話が始まるのです。信仰は応答を生み出していくもの。告白を生み出していくものです。

迫ってくるものの内実をしっかり受けとめる

信仰は何となく神を信じるとか、何となく、救い主はいる気がする、というような性格のものではありません。向こうから迫ってくるもの、その迫ってくるものの内実をしっかり受けとめる、受けとめたものを感謝して告白する。信仰はそうで生き始めていくものです。
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信仰告白とは、これだけ主体的、躍動的、喜びに満ちたものであります。ぜひ、しっかりと告白していきましょう。もやもやさせず、主が迫ってこられたことに、元気をもって、「はい!私は信じます。」と答えるのです。

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