「聖霊に導かれて進もう」

前々から紹介しようと思い、していなかった本がありました。

「聖霊に導かれて進もう」(井戸垣彰著 いのちのことば社)

以前ご紹介した「このくにで主に従う」と同じ著者、故・井戸垣彰牧師によるものです。

何が良いかと言いますと、日本の教会内で起こる諸問題、日本人のクリスチャンであれば誰もが経験する、人間関係に絡んだ問題を、クリスチャンの「肉」の問題として聖書的に対処していることです。肉ではなく、聖霊に導かれて進む、というクリスチャン生活の基本を、日本の教会という土壌で実践できます。本書の一部を引用します。

何年か前、ある教会のご奉仕にうかがったとき、集会の後で一人の方から個人的な相談を受けた。教会のある大切な奉仕を担当し、自分なりに精一杯やっているつもりであるが、先生がいちいち細かい点を言い過ぎる、これではやる気がしない、というような相談だった。

お話を聞いた後、私は次のように答えた。確かに先生の言い方は悪いだろう。ほめないで欠点だけ指摘されたら、やる気を失うに違いない。だが先生の側のことは別にして、先生に対して怒っている、そのあなた自身の怒りはどうなのか―。

その方は、虚をつかれたようにはっとして、『そうでした、わかりました。』と答えた。

この方と同じように、私たちはいろいろな問題に苦しむとき、相手方や、事情の悪さにだけ心の思いを向ける。そして、必死になってこらえ、相手をゆるそうとし、何とかもちこたえようとする。そして相手の悪に対して怒っている自分に対しては、光を当てようとしない。相手が悪いのだから怒るのは当然ではないか、と自分を肯定してしまう。(7-8頁)

いかがでしょうか、身に覚えがないでしょうか。(私はとても痛いです!)

残念ながら、本著は絶版で古本のみでしか入手できません。でも、似たような内容で良書があります。こちらもどうぞ。

「カルバリの道」(ロイ・ヘッション著 CLC出版)

多神教の排他性

前回の、小沢氏によるキリスト教批判に応えて書いた記事「自浄努力の重要性」への補筆です。良い記事を今日、見つけました。

一神教は排他的で多神教は寛容という虚構

欧米のキリスト教やイスラム教の宗教戦争(?)に反発してキリスト教を批判する民主党寄りの方(この記事を参照)も、日本人への愛国心涵養と称して、神社参拝(靖国、伊勢に限らず)を日本人全員すべきだと考え、参拝しないことを売国奴、似非クリスチャンと言って罵る保守系(?)の方々も、ぜひ全文、読んでいただきたいです。ここには最後の部分だけ引用します。

本人が絶対的な信仰を抱くことと、他者に寛容であることは別問題であり、両立可能な要素である。クリスマスを祝い、神社に初詣に行き、葬式は仏教で行うことが寛容ではない。信仰に無節操・無頓着であることを寛容と勘違いし、それを他人に強制することは不寛容の極みである。反対に強固な信仰を有している人がいたならば、その信仰を尊重することが寛容である。一神教と多神教で区別するところから不寛容の罠が始まっている。

(参照エッセイ: 「国家国旗問題」)

「クロッシング」映画情報

先日お知らせした映画「クロッシング」ですが、表紙のページしかなかった公式ウェブサイトが、アップデートされています。

http://www.crossing-movie.jp/

4月17日からだそうです。首都圏在住の方、ぜひ映画館に足を運んでみてください。「物語」「プロダクションノート」など、クリックしてみてください。

前回の関連投稿 「映画「クロッシング」日本公開