NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その3

その2の続き)

先ほど紹介した「津波てんでんこ」の実証例を克明に記録している、次の記事がありました。

検証・大震災:瞬時の判断、救った命 生徒全員避難で無事、釜石東中学校

ぜひ一読してください。そこにある地図と写真が非常に参考になりますが、まさに釜石の学校の生徒たちが、「てんでんこ(ちりぢり)」になって逃げている姿を見ることができます。

ここに出てくる生徒たち一人一人が、先に説明した危機行動、すなわち自分自身で判断し、自分のことは自分で責任を持ち必死になって逃げています。その他に、上の記事では常時の防災訓練もしていたことが、想定外の巨大津波に対処できたことも話しています。

「津波てんでんこ」は明治の津波によって得た教訓であり、先人の智慧です。生活が便利になり、安定している所に住んでいる私たちは、私たちのほうが“進歩”していると考えています。それはとんでもない間違いであり、現代人が生活の利便と技術への過信の中で、実際の脅威に対して鈍感になっていると考えなければいけません。

私たちは、聖書では文字通り、天災によって神が大声で語っておられる姿を見ることができます。ノアの時代の洪水から始まり、ソドムとゴモラ、エジプトにおける災い、ヨエルのいなごの災い、ウジヤ王の時の大地震などがあり、そして終わりの日における「火による裁き(2ペテロ3:7)」があります。これらの災いを通して、神は、先に説明した災害時における人間の行動を如実に言い表しておられます。

ソドムとゴモラの災いに注目してみましょう。天使二人がソドムの町に行き、ロトとその家族を救うべく、災いが下ることを警告しました。それでロトは既婚の娘の家に行きました。

「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(創世記19:14)」

婿たちはまさに、「正常性バイアス」にかかっていたのです。まさか、今の平穏な生活を崩すものは起こらないだろう、起こったとしても自分たちには災いは降りかからないだろう、という偏見です。そして何よりも、ロトが「主」の名を口にしたときに、彼らの唇には薄ら笑う動きがあったかもしれません。彼らは神そもものへの軽蔑を持っていたのです。

そして、ロトは未婚の娘二人と自分の妻を連れて、逃げ始めましたが、ロトの妻は「同調バイアス」にかかっていました。ソドムの町の人々との生活から離れることへの未練と不安があったのです。それで、その逃げる速度が遅くなり、そして彼女は町を振り返りました。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世記19:26)」

幸いにもロトは、妻に対しては「愛他行動」を取らなかったので、妻は滅びましたが、自分と娘二人は救うことができたのです。

これを、「昔の聖書物語」として片付けることができるのでしょうか?聖書で起こった出来事を現代に当てはめる営みを毛嫌いする傾向が現代にはあります。キリスト教会の中にさえ、その雰囲気があります。けれども、聖書は何度も何度も、昔起こったことは私たちに対する戒めであることを教えています。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:11-12)」「正常性バイアス」に対する戒めです。

私たちの社会でも、ソドムとゴモラが滅ぼされた罪を行なっているのです。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(ユダ7)」「だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。(エゼキエル16:49)」

そして、聖書の話を昔話としてあしらうことは、まさに先人の智慧をあしらうのと同じであり、昔、預言者たちを通して与えられた神の知恵を拒むことです。

ちょうど、釜石の生徒が日常から防災訓練をしていたように、私たちは霊的な備えが必要です。イエス様は何度も、ご自分が戻ってこられることについて、「目をさましていなさい。用意していなさい。」と命じられました。それは、まず、罪と死から救われるだけでなく、この世の災いからも私たちを救ってくださる主イエス・キリストを心から受け入れ、自分の救い主とすることです(ガラテヤ1:4)。そして肉の行いを打ち捨てて、イエス・キリストにある正しい生き方をすることです(ローマ13:12-14)。

このように、私たちに与えられている天災は、神が拡声器を取り上げて、大声で、「これらのことで、わたしがいることを知りなさい!」と言い聞かせている貴重な機会であることを覚えましょう。

このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル13:21等)

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その2

その1の続き)

私たちは2005年から2010年まで、日本でもなくアメリカでもない他の国に住んでいましたが、三ヶ月後に震災に遭い、その後の日本がかつていたその国に少しにかよったことに気づきました。

一つは、1)の「正常性バイアス」に関連することですが、「予期せぬことが起こる」に慣れていました。最近、自宅の前で水道管工事がありましたが、ポストにその工事の予定を告知する用紙が投函されていました。これは私たちがいたところでは皆無です。抜き打ち工事であり、マンションの住民のことは一切考慮されず、その出入り口を塞いだりすることは当たり前で、すぐそばで突貫工事を真夜中に行なっていることもありました。

その他、卑近な例ですと、歩道だと思っている所に自動車が突然走ってきたり、二メートル先の所で建物の工事現場から燃えている火の鉄の塊が落ちてきたりと、常に「予期せぬ」ことでいっぱいでした。

けれども、そこですぐに感謝できたのは、「その分、余計に神に拠り頼みやすくなった。」ということです。今日の安全は、祈りと共に始まり、祈りつつ与えられていました。自分が生きていることを、こじつけではなく、真実に、素直に「神の守り」であることが実感できました。

その反面、日本は前もって「変化」を伝えるという計画性を持っています。東電の「計画停電」というのはその典型例です。しかし、それは生活基盤の安定した先進国だからこそできることであり、この発展も神の恵みで与えられているということを人々は無視しています。あたかも、家を煉瓦で作り、そこに瀝青(アスファルト)で塗り固めたバベルの住民のようです(創世記10章参照)。

しかし、津波は、自然の威力の前では人の築いた物が無力であることを教えました。それでも私たちは、今でも「自分にはこれらの災いが起こらない」という錯覚を持ちながら生きているのです。災害心理のみならず、霊的にも錯覚した状態で生きています。

次の2)「愛他行動」を考えてみます。この行動は一見美談に聞こえますが、実は悲劇です。真実は、「津波てんでんこ」なのです。意味は次のとおりです。

「てんでんこ」は「手に手に」に接尾辞「こ」が付いたこの地方の方言で、「てんでんばらばらに」という意味。「津波が来たら、肉親に構わず、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」がこの伝承の本来の意味である。津波は到達速度が速く、肉親等に構っていると逃げ遅れて共倒れになってしまうため、「一族を存続させるためにも、自分一人だけでもとにかく早く高台へと逃げよ」という意味があり、また「自分の命は自分で守れ」とも含意しているとされる。また、自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない、不文律にもなっている。(Wikipediaの説明)

日本の人々は、「みなが一緒に生きていく」という優れた国民性を持っています。我先に行動することは醜いとして見下げます。けれども、それには自然の脅威やその他の危機においては通用しないことを今回の津波は教えています。「自分の命は自分で守る」という責任を果たさなければ、家族や共同体さえも失われてしまうという人間生存の原理があるのです。

私たちが、他国の人たちにも福音宣教をしている中で、日本人に特有だと気づくのは、「福音を知らないで死んでしまった家族の人は地獄に行ったのですか?」という質問です。日本人には「これは人間なら全ての人が抱く質問ではないか」と思うでしょうが、彼らは疑問として抱くことはすれ、信仰上の悩みとまではなっていません。家族の間でも、「あなたはあなた、私は私」という自己が確立されています。

けれども、日本においては、初めてキリスト教を布教したカトリック宣教師ザビエルでさえ、受けた質問であり、日本人がいかに「永遠の命」という個々人の問題に対しても、他者と一緒に救われなかったらいたたまれない、という負い目を持って生きているかがよく分かります。

自分自身が救われる、ということついて、「自分が家族の中でどう思われるのか」「先祖の墓はどうすればよいのか」などの心配によって、信仰の決断を後回しにするときに、自分の命を失うばかりか、その家族の命をも死に至らせるということを知らなければいけないのです。「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 (ローマ14:12)」

そして、家族を救うことはできるのは、初めに自分が救われてから、次に、ようやく神の憐れみによって与えられるものなのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」あくまでも「自分の救い」を考えなければ、自然界だけでなく、罪から来る罰においても、災いを免れることはできません。

そして3)の「同調バイアス」についても、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という考えが日本人の中に横たわっています。真実は、「赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ」なのです!他の人々と異なる行動を取るのを私たちはひどく嫌います。けれども、真理というのは、多くの場合、他の多くの人々と異なる道を選び取ることなのです。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」

さらに4)の「エキスパート・エラー」について言うならば、これは自分の判断を放棄しているところから来ています。これはまじめな人ほど陥りやすい過ちです。自分で判断することこそが、災害時においての行動基準であることは、防災の専門家の多くが指摘していますが、同じことが霊的識別にも言えます。私たちは、人の与えた規則や意向ではなく、神が与えられた御霊に導かれるという責任があるのです。

日本は極めて、規則正しい国です。法治国家であることはもちろんのこと、マニュアルや行動基準が極めて発達している社会であり、人々もそれにしたがって生きていこうとします。けれども、私たちがいたところでは、その正反対でした。規則というのは単なる“標語”です。実際、守ろうとすればこれほど理不尽なものはないと思われるものばかりなので、守る気にもなれないというのが現状です。

被災地がある程度、そのような状況になりました。マスコミの情報や、役所の規則だけを聞いていれば、「被災地では何の救援活動もしなくてよい」という結論に至ります。私たちの救援活動の第一回目は、石巻を目指していましたが、その途中、被災して掃除と修理をしていた「サンクス」に、「もしかして、この地域は救援物資が必要なのでは?」と何となく感じて、入って聞いてみた、というのが始まりです。二回目には、その直前に、近くの韓国人教会で私が説教奉仕をしていたときに、たまたま東松島の被災者の人と出会って、その方の被災した家の写真を撮ってきましょうか、というのが始まりでした。

そのずっと後、数ヵ月後に、東松島市の方にボランティア活動をしていることを告げました。本当は役所を通さなければいけなかったのですが、私が既に行っている活動と、現地の人たちと直で行なっている旨を話したところ、すんなり、その後の活動も許可等を与えてくださいました。

被災地は、その場その場で決めていかなければいけないこと、そして決まり事ではなく、人と人とのつながりで広げられるものが沢山あります。これは主との関係においても同じであり、律法ではなく御霊の導きにしたがうこと、そして、プロジェクトではなく、人々との神の愛のつながりが霊的奉仕であります。

以前の記事「21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる」の筆者は、次の言葉で文章を締めくくっています。「日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。」

今の日本の危機は、神が働かれる契機なのかもしれないのです!

その3に続く)

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その1

週末の礼拝の奉仕を終える月曜日は、なるべく休みの日のようにしようと心がけ始めましたが、今朝はお風呂かプールに行こうと思っていましたが、結局、録画していた番組を見ました。

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」

以前の原発事故の番組と同様、心を強く揺さぶられました。何度もテレビやインターネットで見た、津波が押し寄せる映像について、私はいつも「現場にいた人々はどう行動していたのだろう?でももう死んでしまったから聞けないよな。」と思っていましたが、この番組はそれを可能にしました。九死に一生を得た人々に直接取材して、そして作り上げた「被災マップ」「行動マップ」を、地震発生から克明に描いています。

私たちは何度も東松島市への救援旅行に行っていますが、奥松島では、宮戸島の住民は引きこもりの人一名のみが死亡、けれども島の付け根にある野蒜地域は二百名以上と言われています。この前の救援旅行では、牛網の人に、宮戸島にある引越し物件の可能性の話をしたら、「あんな危ねえどご、やべぇんじゃねぇ」という反応でしたが、そこで死亡者がほぼ皆無だったことを話したら驚いていました。また私は東京で地震を経験して、すぐにNHKの番組を見て、普通は至極冷静なアナウンサーが、気が狂ったかのように巨大津波の警報を読んでいたという話をしたら、それも驚いていました。「知らねがった」とのことです。

より安全であるはずの人々がかえって死んでしまった、そして外部にいる人々はその危機を察知しているのに、現場にいる人が分かっていない、ということをこの番組では取り上げています。それは一言、「心の罠」で要約できます。

災害心理学において、その行動をまとめることができるそうで、1)「正常性バイアス」、2)「愛他行動」、3)「同調バイアス」があるそうです。

1)は、逃げることをせず普段どおり近所と世間話をする等、非常時に「まさか本当だとは思わなかった」「こんなことが起こるはずがない」と現実として捉えられない心理作用のことです。

2)は、避難することを固辞した人までも説得するのに貴重な時間を喰い、自分の命を落としてしまうような行動です。他の人を救おうとする意識が過剰になってしまい、自分だけ逃げることで自分の心に残る後悔を払いきれず、人助けをすることに集中して危険を感じることを後回しにしまうという心理だそうです。

3)は、緊急時、複数の人数でいると「皆でいる安心感」を感じたり、また、判断に迷ったとき、周りの人と同じ行動をするのが安全だと考えてしまう心理作用です。「隣が動かないから大丈夫だろう」と考え、逃げ遅れたりします。

(番組では取り上げられませんでしたが、4)「エキスパート・エラー」というのもあるそうです。(こちら)一般人が専門家の意見や指示を「プロの意見だから」と疑わずに信じてしまい、そのとき相応しい判断を間違える心理行動、とのことです。事実、この名取市閖上地区の記事を探したら、次の文がありました。「「なぜ公民館に避難しないんだ、戻れ」。阿部さんは顔見知りの女性に強く注意した。女性は「公民館の人から、ここは津波の避難所じゃないので中学校へ移動するよう言われた」と答え、その場を後にした。」)

そして、番組の最後は復興計画を説明し、二重の防潮堤のことを話している名取市職員に対して、住民が「そんなこと言ったって、津波が来たらまた家に戻ってしまいますよ。そして同じように死にますよ。」と叫んでいる住民の声がどしんと響きました。

ぜひ、この番組を視聴してみてください。今のところこちらで見ることができます。

私は単に、これを防災面のみの問題として見ることができませんでした。日本国のような安定した先進国での生活に横たわる問題、そして、聖書で警告されている「突如の滅び」という大きな主題について示唆が与えられたからです。

その2に続く)