バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その2

その1からの続き)

そもそも、今回のように、外交的手段で影響力を行使するという考え自体が、聖書にあるキリストの体には存在していないのです。使徒ヨハネは、神の子どもについて、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)」と言いました。神のみが、その人の霊に対して行われる働きによって教会は構成されるのです。「人の意欲」つまり、人間の恣意的行為によってその人が教会の中に入ったと認知することはできないのです。

カトリックは第二バチカン会議にて、これまでの閉鎖的な教会の改革を行ない始めたと言いますが、上の点で、「ローマ・カトリック」という組織そのものがその始まりから間違っているのです。

ローマ帝国の中でご聖霊が誕生せしめた教会は、歴代のローマ皇帝の中で激しい迫害を受けました。ところが、その迫害に関わらず、反対に信仰者は増え続けました。ついに、皇帝自身が信仰を言い表しました。コンスタンティヌス帝です。彼は信教の自由の勅令を出しましたが、テオドシウス帝はキリスト教を国教化したのです。ローマの住民がある日を境に一夜にしてみなキリスト教徒になったのです!これがローマ・カトリックの始まりです。

「国教」にしたといっても、実際はその反対です。教会がローマを支配したのではなく、ローマ帝国が教会を支配したのです。主イエスは、ピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と言われました。まさに、ローマ・カトリックはキリストの国をこの世のものにしようとする試みです。

そして国教化したために、あらゆる異教徒を取り込まなければいけませんでした。ローマ帝国の軍事的精神がそのまま採用されることになり、テオドシウスは強制的に偶像崇拝を禁じました。あるいは、改宗は異教徒をそのまま包摂することによって行なわれました。ローマの宗教にそのまま「キリスト」という名前を付け足しただけでした。

初代教会の礼拝は簡素なものであったのに、手の込んだ堂々としたものになり、他の異教と同じようなものになりました。祭司制度は、キリスト者一人ひとりが担ったという神の奥義が新約聖書で啓示されたにも関わらず、仏教や神道にもある仲介者としての司祭を作りました。イエスの母マリヤも崇拝対象となりました。それは、異教の中に女神崇拝があるからです。バビロンのイシュタル、エジプトのイシス、カナンのアシュタロテ、そしてギリシヤのアフロディテ、そしてローマのビーナスの延長です。

今日のバチカンは、「宣教」という言葉を使わず「新しい福音化」という言葉を使います。それは、キリスト教の教義を信じ、告白すべく働きかけるのではなく、生活や社会、教会一致運動などによって福音の影響力を広めるという趣旨です。その延長に、今回の世界中央銀行という提案もあります。

しかし、真に御霊によって支配を受けていない人々に対して、神ご本人が各人を聖霊によって新生せしめる福音の言葉を語らずに影響力を及ぼそうとしている点において、すでに「世」に組み込まれています。「教会がローマを征服したのではなく、ローマが教会を征服した」ことの繰り返しなのです。それゆえダニエルが預言した「第四の国」の一端を担い、さらに宗教という名のもので経済や政治に介入していることで、使徒ヨハネの見た「大淫婦」となっているのです。

私たちも気をつけるべき

ローマ・カトリックについて、すべてを否定する訳では決してありません。彼らが公会議において固辞した聖書の正典化、三位一体等の根本教理は、神の摂理の中で行なわれたと信じています。その他の数々の聖書釈義や信仰告白も、カトリックの中で発展しました。イエス様は、「天の御国の奥義」の中で御国は、毒麦の種が蒔かれた良い麦の畑であると言われました。毒麦もあるのですが良い麦もある、というのが今日の組織としての教会の姿です。

ルターが腐敗したカトリックに対して抗議したことによって、「宗教改革」が起こりましたが、改革はその時だけでなく、今も行なわねばなりません。例えば、会社の社長さんがクリスチャンで、従業員に礼拝に出ることを奨励したりすることがありますが、キリストの霊的権威のみで回心するという純粋性から逸脱しないように、強制にならぬよう気をつけなければいけません。

また、最近キリスト教団体の中で、「神道はキリスト教をルーツとしている」と称して、神道の儀式の中にキリスト教を見出してもらおうという動きがありますが、そのような方々は、すでにローマ・カトリックで大失敗していることを思い出してもらいたい。パウロは、異教に取り込ませることで福音を宣べ伝えませんでした。むしろ、「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている(使徒14:15)」「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(17:24)」と、異教の神々と対比させて、まことの神、主を宣べ伝えました。異教を取り込んで語っている「福音」は、すでに性質を変えた「異なった福音」になっていることを知ってください。

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1

世界中に広がる経済・金融不安に対して、バチカンが金融規制をする世界中央銀行の設立を訴えています。

「ウォール街を占拠せよ」デモ、バチカン枢機卿が支持-金融規制要望」

Vatican Calls for ‘Central World Bank’ to Be Set Up

皆さんは、今の日本また世界中で起こっている経済格差デモについてどうお感じでしょうか?私は、日本で生活保護が戦後最多になったことも含めて、今の日本と世界がどうなってしまったのだろう?と思っていました。

しかし、これを世界的に管理する金融機関を創設することによって解決するのか?というと、私はその考えに空恐ろしさを感じます。忘れてはならないことは、現在の金融制度や経済制度に代わる制度も、同じ人間が管理するということです。理想を高く掲げれば掲げるほど、現実との乖離の中でその欺瞞の中で人間は今よりも何重にも苦しめられることでしょう。

さらに、この記事は唯一の公同のキリスト教会と称するバチカンが発言しているものです。世界の政治指導者に対する彼らの外交は良く知られていますが、国々の金の動きにも支配を広げようとしています。

以前、「世界統一通貨」の記事を書きました。世界が統一化されていく動きは、すでに紀元前六世紀に生きていたダニエルに対して神が、啓示として与えられていました。「第四の国は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。(7:23)」それに呼応するかのように、カトリック教会は二十世紀以降、一つになった世界をふまえてその影響力を行使しつづけています。

黙示録17章には、世界の諸国の王が不品行をしている、世界帝国の上に座っている大淫婦の姿を描いています。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(2-4節)」

次の新書はぜひ、手にして読んでみたいと思っています。なぜこうも、世界で政治や経済の中心的人物がバチカンに謁見するのか、日本の元バチカン大使が書いた本です。

「『バチカンの聖と俗』 - 日本大使の1400日」 上野景文著 かまくら春秋社

次に、ローマ・カトリックの問題点を述べたいと思います。 (その2に続く)