LCFの活動予定(2月11,12日)

次回の教会の活動場所のお知らせです。

2月11日(土)場所: 足立区こども家庭支援センター別館3階
 14:00 聖書の学び(使徒の働き22章)
 16:00 祈り会

2月12日(日)場所: 足立区こども家庭支援センター別館3階
 11:00 午前礼拝 民数記27章1-11節 「女たちの相続地」
 14:00 午後礼拝 民数記26-31章

明日、明後日は同じ場所になります。
まだいらっしゃったことのない方もぜひいらしてください!

男よ、お前が悪いのだよ! その2

その1からの続き)

では解決への道は何でしょうか?フェミニズムのように、女性を社会構造的な弱者として見て、その構造を変革することが必要なのでしょうか?もちろん制度上の精力的な変革の努力は必要でしょう、けれども福音信仰に立つ者は、それが根本解決ではないことを知っています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1-5)

終わりの日の困難さは、第一に「自分を愛する」ところから出てきます。自己愛、これこそが問題の根源です。自分の上に権威がないのです。自分が一番であり、自分が神なのです。そして現代は他の社会的規範などで抑えられていた権威が取り除かれ、自我が制御されることなく漏出することによって、諸問題が噴出しているのです。

私はダビデが大好きです。ヨナタンがなぜダビデを愛していたのかがよく分かります。その反面、サウルが嫌いです。いや、サウルに自分の醜さを見る、と言ったら良いでしょう。彼はまさに、今の言葉で言えば「パワー・ハラスメント」の男でした。彼は元々おとなしい人でした。臆病でさえありました。けれども一度、権力の座につくとたちまち高慢になりました。最後まで自分の非を認めることができませんでした。言い訳を言い続けました。認めたようにふるまってもすぐに態度を翻しました。そして、自分が認められていないと被害意識を抱きながら、祭司を虐殺するという攻撃性を表しました。

それに対してダビデは真の男です。ダビデが息子ソロモンに、「強く、男らしくありなさい。(2列王2:2)」と言いましたが、男らしい、とはどういうことでしょうか?彼は知っていました。彼も自分の権力によって、姦淫の罪を犯した女の夫を殺すという重罪を犯しました。けれども、彼はこう告白したのです。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:4)」

サウルが神の前に出ると言う経験がなかったのと対照的に、ダビデは初めから神との交わりが中心となった生活を送っていました。そして自分が犯した過ちも神の前で告白しました。神の前に崩れ落ち、泣き悲しみ、悔いる心、この砕かれた魂こそが、男らしいのです。サウルはそれが最後までできませんでしたが、ダビデは行なったのです。神の裁きを甘んじて受け、けれどもその裁きよりもさらに根源にある神の憐れみを信じて、神の前に出ました。責任をただ自分にあることを認め、自分が子供のように小さくなりました。

このように自分の弱さを認めるのです。弱さと罪を認めることは、ものすごい勇気の要ることです。その勇気こそが、「万物をあなたに支配させる」という意図で神が創造された、その全責任を自らが担うという人間本来の姿、または男本来の姿に回帰することなのです。ダビデも、罪を告白した後の姿は弱くなりました。その家に、彼がかつて犯した罪(姦淫と殺人)が蔓延しました。全然格好良くありません。でも、これこそが神の前では格好良いのです。自分が弱くなること、これこそがキリストの恵みが完全に現れ、その力が働く時です。

他人のせいにしない。そして果敢に神の前に出て行き、自分の心をすべて明け渡し、泣きじゃくってもいいから祈る。そして神によって心を柔らかにしていただく。その柔和さで、弱い人の弱さを担います。

そして友が必要です。先の性暴力事件の加害者が属していた教団の検証を読みますと、教団に対する批判的な態度、主任牧師に従えない、自分のしていることには誰も干渉させない、というような問題がずっと前からあったようです。神学校時代や信徒の時代からの友がいることが大切、という話も書かれています。

特に牧師として生涯を全うするためには、「△△教会の○○牧師」といった付加価値抜きの、素の自分を見せられる相手、一人の人として自分を見、意見してくれる存在が不可欠である。できることなら、こうした肩書や、成果を求められる状況が生じる以前、信徒、修養生時代にそのような相手を得られることが望ましい。と同時に、継続した訓練が必要である。

ですから男たちに問いたい、「あなたに友はいますか?」私自身も恐れるのは、交わりを失うことです。他者や自分の属しているグループなどに問題を感じたとしても、その関係を断つことは致命的であると考えています。そんな批判ができるほど自分が優っているのか?という、自己のうぬぼれに対する警戒も必要です。「交わる」ことは、直、へりくだりにつながります。

記事の題名は、実はフェミニストの人が書いた性暴力についての本「あなたが悪いのではない」をもじったものです。女の人が、自分が悪いと思ってしまうことについて「そうではないのだよ」と断言している言葉でしょう。けれども私はさらに一歩踏み込んで聖書的立場から、「男よ、お前が悪いのだ」という見解で書かせていただきました。

男よ、お前が悪いのだよ! その1

ものすごく過激に聞こえる題名ですが、今横たわっている虐待にまつわる問題のことを考える時、また結婚などの男女関係にかかわる問題を考える時に、結論はこれだと思いました。これから、この女性と男性の間にある支配関係のことを書いてみたいと思います。これまで、家庭内暴力や性暴力、そして何と教会の牧師がそのような犯罪に加担しているというニュースも見聞きして、その中で深く考えさせられることは、男と女の違いであります。

あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」これが、エバが蛇に惑わされたために神から受けた呪いの一つです。女性は、相手に拠り頼み、信頼を寄せることに全神経を使いますが、その女の依頼を男が自らの支配欲によって利用するという醜い関係が描かれています。

家庭内暴力の問題を抱えている方が自分の悩みを打ち明けてくださったり、または人づてで話を聞いたことがありますが、どちらも「自分が耐え忍べば、夫は変わってくれるかもしれない。」という期待をかける場合でした。私がいつも思うことは、「本当に相手を愛しているのであれば、警察に彼を連れ出さなければいけない。」ということです。彼が自分のしていることの結果を刈り取ることによって、彼が改悛する可能性が出てくる、と私は思っています。けれども、その点が女性の理解しにくいところであり、どうしても自分に原因があると思ってしまうのです。

男というものを考えてみましょう。聖書の言葉を、フェミニズム(女性同権論者)の人も封建的な人も、いやクリスチャン自身も曲解していることがありますが、それは「男は女のかしらである」という言葉です。このことによって、女は男に従わなければいけない、という従属関係を教えていると話します。また男はこれを梃子にして「女が自分に従っていない」と嘆きます。とんでもない話です。この「かしら」というのは、女が男に従うということ以上に「男が女のことについて全責任を負う」という、人間的に乱暴に言えば、ものすごく男に不利な(?)宣言であります。

アダムが罪を犯しました。エバが罪を犯した、とは聖書には書かれていません。蛇に惑わされた、とだけ書いてあります。もちろんエバも人間として罪を犯したのですが、神は人の救済史において、アダムが神の声を直接聞き、そしてそれに反することを行なったので、彼によって全世界に罪が入った、としています。これが「かしら」の始まりであり、男女において男は第一に責任を取らなければいけない、という意味です。

そして、第二のアダムとなられたキリストは、ご自分がすべての人の罪をご自分になすりつけるということを行われたことによって、信じる者たちに対する「かしら」となられたのです。男はこの方にあって初めて、女に対するかしらの務めを果たすことができます。

現代になって、「男たちに男らしさがなくなってきた」と言われるようになりましたが、それと共に男が女性を精神的・物理的に蹂躙する事件が増えています。(母親が幼児虐待する事件も増えていますが、それも結論から話しますと問題の根っこは同じです。)これは一見矛盾しているようで、実は一つなのです。男が、勇気を出して神の前でへりくだることができなくなっているので、その責任のなすりつけを女や他の弱いと見える人に対して、暴力やその他の攻撃性を示すことによって表現しています。

こちらのブログ記事で、牧師による性暴力の事件が取り扱われていますが、その被害者女性(自殺によって他界)の母親が実名を出して小冊子を出しています。インターネット上でもその概略をご本人が書いたものが掲載されています。その一部を引用します。

- 性暴力の加害者はあくまでも、力や地位や権力や脅しを利用できる状況をしっかり「選択」し、容易周到に準備していることがほとんどです。「性欲」による「反応」が加害であるとは言えません。
- 加害者が利用できる状況をしっかり「選択」し、用意周到な準備をして被害者に接触することがほとんどです。宮本の知る限りでは宗教界での事件の多くが加害者は高度なテクニックを使います。
- 性暴力加害者に共通するのは「自身の弱さ」です。弱いからこそ、持った「地位、権力」を確認するために、あるいは持っている以上の力を誇示しようとするために、自分より弱い者を被害者にする、あるいは、自身の男としての力「こうあるべきとの思い込み」の確認もあります。
- 力関係の中での性的行為で、自分が絶対的な力を持っている場合、その行為は、他のセックスよりもより刺激的になります。(妻や特定の女性がいても同じです) 加害者はエスカレートしていきます。何度もくり返したくなる最も強い誘因は、セックスの刺激と力を感じることであり、一度これを手に入れると、やめられなくなります。

ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。

ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。

その2に続く)