次回LCF礼拝の予定(4月29日)

来週の礼拝のお知らせをします。
(今週の土曜は、聖書の学び&祈り会はございません。)

場所:「足立区勤労福祉会館」第五洋室

11:00 午前礼拝 テサロニケ第一1章 「新しい信者への想い」
13:30 午後礼拝 テサロニケ第一2-3章

聖書通読の学び(現在「申命記」進行中)から少し離れて、私がLCFの教会を始めるときに主から与えられていた手紙は、この手紙でした。パウロが、数週間で身の危険のためにテサロニケを離れなければいけなかった中で、その置き去りにされた新しい信者たちのことが気がかりでどうしようもなかったところ、テモテからの知らせで、これまでになくますます愛と信仰に満ちていることを聞き、神への感謝の祈りを捧げたのが、この手紙です。午前礼拝で1章を、午後礼拝で2‐3章を読みますので、よろしかったらどちらもご参加ください!

ワーシップ・コンサート2012 (4月30日)

こんにちは。今回はワーシップコンサートのお知らせです。

来る4月30日(月・祭日)、午前9時30分~12時30分までカルバリーチャペル西東京(西武新宿線田無駅 南口 駅前)にてカルバリーチャペル・ワーシップコンサートを行います。

メッセージ(明石 清正;ロゴスミニストリー)もございます。その後近隣のレストランで食事をともにして、午後2時からはジャムセッション=楽器を奏でるワーシッパー達による合同演奏でみんなで賛美をする時も予定しています。もし、ギターや楽器を演奏できる方はご持参下さい、一緒に賛美しましょう。

参加できる方はお知らせください。また、お友達等を誘ってご参加ください。

主にありて
Santo, Rich, and Travis

Greetings,

Just wanted to let you all know that on Monday, April 30, at Calvary Chapel West Tokyo, we will be holding a worship concert. The cost is free. From 9:30-12:30 we will have a worship concert with various Calvary Chapel worship teams. There will also be a message shared by Kiyomasa Akashi. We will then break for lunch and resume at 2PM. From 2-4PM we will be having a worship jam session. A time for people who play an instrument who want to enjoy worshipping the Lord with other worshippers. If you have a guitar or some other kind of instrument, feel free to bring it with you.

Let us know if you can make it. Looking forward to the fellowship. We’ve attached a informational flier below.

God bless you,
Santo, Rich, and Travis

LCF活動のお知らせ

明日と明後日の活動をお知らせします。

4月14日(土)足立区こども家庭支援センター 別館3階
 14:00 聖書の学び 「マタイによる福音書3章」
 16:00 祈り会

4月15日(日)足立区こども家庭支援センター 別館3階
 11:00 午前礼拝 申命記26章16-19節 「あなたの神、主の民」
 13:30 午後礼拝 申命記26-28章

チャック・スミスの日本語訳サイト

ロゴス・ミニストリーの中に「翻訳メッセージ」というページがあります。そこには、牧者チャック・スミスによる説教や書籍の邦訳の紹介とリンク先を提示していますが、最近、リンク切れが多発していました。

理由は、元のカルバリーチャペルのサイトが大幅に改新されているからです。

最近のインターネットの動きに合わせて、ブログ・フェイスブック・ツイッター・Vimeoの機能を取り入れ、牧者らの直接の投稿記事を見ることができます。これでかなりカルバリーチャペルが互いに身近になり、私はとても喜んでいます。けれども、これまで存在していた翻訳のページがなくなっていて、どうすればよいかと悩んでいました。そこでフェイスブックで直接Calvary Chapelに問い合わせたところ、実はありました!!

Calvary Chapel | Japanese

以前よりも見やすくなっています。ぜひご活用ください。それに合わせてもちろん翻訳メッセージも更新しましたので、こちらもご覧ください。

LCF活動のお知らせ

明日と明後日の活動をお知らせします!

4月14日(土)足立区こども家庭支援センター 別館3階
 14:00 聖書の学び 「マタイによる福音書2章」
  ※ 新しい聖書シリーズが始まりました。
   イエス様を学べることはなんとすばらしいことでしょう。
   ぜひ楽しみにしておいでください!
 16:00 祈り会

4月15日(日)足立区こども家庭支援センター 別館3階
 11:00 午前礼拝 申命記24:1-4 「望まれる結婚」
     ※ 結婚について知りたい方はおいでください!
 13:30 午後礼拝 申命記22-25章

「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 【補足】

その3からの続き)

フェイスブックで、モリエルの森さんとこのブログ記事についての意見交換をしました。その一部をここに転載します。「その1」から「その3」まででお話させていただいたことの具体的事例です。

森さん
・・・天に関する意識として多くの人が「死後の状態」のイメージを持っているのは疑いようがないと思います。ですが、多くの人が見落としているのはその前に地上での千年の王国があるということではないでしょうか。もっと突き詰めるとクリスチャンがただ新約聖書のギリシア語から教理を形成し、ヘブライ的な書物であることを忘れている点に大きな問題があると考えます。

たとえば預言がただ予告と成就から成っているという考えから多くの教理が作られていますが、聖書のユダヤ的な預言は明らかにパターンです。千年王国(または神の国、天の御国)という考えはイスラエルの地を相続したヨシュアから出てきたことは明らかです。そのためヘブル3章・4章では約束の地に入ることが「安息」と呼ばれ、私たちもその安息(私たちにとっては復活)に入るように勧められています。そうすると約束の地に入れなかった者たちは背教者であること、また「正しい者はいつまでも動かされない。しかし悪者はこの地に住みつくことができない」(箴言10:30)のような箇所が理解でき、「正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか」(コリント6:9)とある箇所は信者の旧約聖書理解(約束の地の相続)を前提としていることが分かります。

要約すると、新約聖書だけを切り離し、ギリシア語またギリシア的解釈のみで教理を作っているためにそのようなN.T.ライトさんの問題が発生するのだと思います。それを見て私たちは聖書全体の文脈・思想を考慮することが必要なのではないでしょうか。携挙の後に私たちが地上に帰ってくることを説明した説教があるので良ければお読みください。

私の返答
森さん、書き込みありがとうございます。モリエルのセミナーに数回参加させていただいた者として、預言の見方のパターン(「モチーフ」とも言っていましたね)はとても役に立ちました。私も元々そのような考えを持っていたのですが、以前よりずっと鮮明になっています。聖書講解の準備をするときにも助けになっています。

アーノルド・フルクテンバウムの「新約における旧約預言の取り扱い方」も参考になっていますが、彼は1)文字通りの成就、2)型としての成就、3)単なる適用、という区分けをしています。例えば、十字架の下で兵士たちがくじ引きしていたというのは1)でしょうが、幼子イエス様がエジプトに下ったときに、ホセア書にある出エジプトの記事をマタイが引用したのは、2)の型になるわけです。

そして聖書講解を、創世記から順番に行なっていると分かってくるのは、新約において旧約にある神の原則が潤沢にあるということです。旧約なしで新約を読み続けたら(未信者や新しく信じた人ならまだしも)、ちょうどトランプで家を建てているような、ぐらぐらした状態になるでしょう。

NTライト氏は、むしろユダヤ人の考え方を重視し、新約時代のユダヤ教と初代キリスト教の背景を専門としている人です。彼のマタイ伝の注解は子供でも読めるような平易なものであると同時に、その舞台を私たちでも肌で感じ取ることのできるような歴史背景を説明してくれています。

森さんのご指摘にしたがって説明しますと、ライト氏の問題はその後にあります。彼は「千年王国」の考えを、「新天新地」にまで持ち込んでいます。他の神学の領域でも起こっている「混同」の問題です。(注:「その3」で話した、「義とされることと」と「子とされることの混同の話です。)

森さんもご存知のように、千年王国から新天新地に行くまでには、はっきりとした断絶があります。まず、悪魔が取り除かれます。また悪魔に惑わされる者たちも滅ぼされます。それから最後の審判があります。命の書に記されていない者は火と硫黄の池に投げ込まれます。そして以前の天や地の万象が跡形もなくなるという「衣替え」が起こるわけです(ヘブル1:12)。それから新天新地があるわけであり、確かに「天」と「地」という認識ができるような状態でしょうが、完全な再創造がそこに存在するわけです。

その世界を、「現在の地上の連続」として描こうとしている、いや、描こうとしていると誤解されるような主張を展開していくのです。

森さんの「千年王国」のご指摘は全くその通りで、私も今日のキリスト教会に欠けているものだと思います。それでNTライト氏の強調点は「かゆい所に手が届かないところを語ってくれた」と称賛したい気分になるのですが、それはつかの間で、さらに「新天新地」にまで手を伸ばして、これまでキリスト教会では問題視されていなかった、一致を見ていた部分にまで触れているのではないか、という懸念を抱いています。

それで、「天」における爆発的な栄光の幻を地上のものに「引き下ろし」、そして地上にいる者が天に「引き上げられる」という携挙を非常に嫌っている、というような印象を受けました。

要は、ある人が言っていましたが「学識はあるが神学がだめ」なのです。聖書の各箇所の知識背景を知らせるのには長けていますが、聖書全体を知るための体系、また、私たちの全生活に関わることとしての教えを垂れる、ということに対しては極めて脆弱であるという感想を抱いています。・・・
*****
この後に、森さんが「N.T.ライトさんは新約時代のユダヤ教と初代キリスト教の背景を専門としている人でしたか、すみませんでた。理解不足でした。」とおっしゃっていますが、実はここが、私が一連のブログ記事を書いた目的であります。つまり、我々聖書に取り組んでいる者が読んでも、誤解をしてしまったり、理解困難なことが多すぎるということです。

そして最後に、私たちクリスチャンはNTライト(いや、全ての聖書学者、神学者、聖書教師・説教者を含めて)を理解するために努力するのではなく、聖書を理解するために努力するべきです。他の著書を理解するのに努力して、それから聖書を開いていたのでは、「目覚めよ」を読みながら新世界訳を開いているエホバの証人と変わりなくなってしまいます。この本末転倒だけは止めたいものです。

「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その3

その2からの続き)

「携挙にさようなら」??

そして私が最も困惑したのは、彼の携挙に対する考えです。彼は、「携挙にさようなら」と言って、その教えを一蹴しています。この英文を読み、英語そのものは理解できても内容がさっぱり理解できませんでした。実に、「読み込み」を行なわないと出てこないような比喩的解釈であります。

「携挙→大患難→キリストの地上再臨」という教えを至極批判する人にありがちですが、「この教えを信じれば、地上に起こっていることには無関心になり、地球がどうなってもよいと思っている。」と思っています。冗談じゃない!と言いたいです。まず、個人的なことを言わせていただきますと、主が今にでも来られるから教会の開拓を始めました。一人でも魂が救われて欲しいと願っています。主が間もなくこられるかもしれないから、東北の救援活動も精力的に行ないました。「この世は悪くなり、主がその中に深く関わっておられるから、その中で光として輝きなさい。」という主の命令が、切迫再臨を信じることによって心の中で見えてくるのです。

そして私の知っている人々で携挙を強く信じている人が、主に関することで忙しくしていても、関心を示さずに呑気にしていることは全くいません。時々、インターネットなどでそういう人は見かけますが実に嫌悪感が出て来ます。

同じ「神の恵み」を信じている者でも放縦に走る者はいるし、「永遠の救いの保証を」信じている者で「罪の生活をしていても救いは保証されている」と曲解する者はいるし、どの聖書的教えにおいても歪曲し、汚れと不正の中に生きる者たちはどこでもいます。

やはり、私と同じ反応している人は多く、例えば彼の著書に対する以下のコメントがあります。「ある人は携挙を信じて、丘の中に隠れた生活をする。他の人は携挙を信じて、主の仕事に忙しくしている。予定論についても考えてみよう。ある人たちは誤って、他者に伝道する必要はないと考える。一方、愚かな宣教によって、キリストの声を羊が聞くと信じている。根っこが同じでも、このように異なる実が出てくるのだ。」

実は既に信じているよ!

そして、博士は欧米キリスト教の誤謬を批判しながら、実はその神学体系の中に彼の主張がそのままあることが多いです。携挙の話を続けますと、このように言っている人がいます。私もまったく同感ですが「私は、これからいうことで大声でディスペンセーション終末論を擁護するのではないが、ディスペンセーション神学の中で、携挙こそが『信者の死者の復活』になっていることを指摘したい。これこそが実は、新天新地の前に訪れる『死後の命の後の命』なのだ。」

「死後の命の後の命」というのはライト博士が好む言葉であり、「死後の天における命よりも、その後に来る復活の命に聖書は重点を置いている」と言うのですが、携挙はまさしく信者の復活が実行に移される一大イベントであり、だからこそ私たちはその希望に大いに喜び踊っています!

実はこのことが他の神学の領域でも起こっています。「信仰義認」といえば宗教改革の中核であります。それを大事にしているのは「改革神学」という体系を信じている人たちです。米国には有名な教師ジョン・パイパーがいます。ライト博士が従来の信仰義認について極めて否定的な見解を展開していたので、彼は苦言を呈しました。「極めて誤解を生みやすく、不必要に複雑だ」

このことに関して日本人の神学に詳しい牧師さんが記事に残しているので、ご参照ください。

N.T.ライトの魅力と限界についての単なる思いつきのメモ

ライト博士の主張
「本来的に聖書において「義認」が意味することは有罪判決の撤去を意味するのではなく、「契約の民に入れられること」である。」

この牧師さんの反論
「贖罪があってこその契約共同体への参加なのである。キリストは我々を罪から救うために来られたことは、聖書が創世記から黙示録に至るまで、ありとあらゆるところで語っていることであって、覆いようがない。」

あまりにも当たり前なのですが、少なくとも私たちのような聖書知識の凡人(?)には、この牧師さんの反論がすぐに思い当たるのです。そして大事ことを彼は述べています。

ライトは「子とすること」と「義認」とを混同している。・・・今の時代、ライトのような主張が人気を得る背景としての伝統的プロテスタントの問題は、義認論にエネルギーを傾けるあまり、契約神学における神の民に入れられるという意味での救いを軽んじてきたことである。また、それは・・・「義とされること」「子とされること」「聖とされること」のうち、「子とされること」を軽んじて来たことでもある。

「契約の民に入れられること」すなわち「子とされること」は、すでに改革神学の中で教えられています。けれども、それが「義とされること」を強調するあまり軽視されてきました。それでライト博士がその部分を強調し、強調するだけでなく、大切な「義認」の教えにも触れてしまっているのです。

つまり、題名に書きましたが「欧米キリスト教の「盲点」を突きながら、新たな盲点を生み出している」ということです。

市井のキリスト者のことを考えて!

ライト博士の著書に期待しているけれども、自戒してその内容を教会の現場に卸すことを控えておられる牧師さんの記事がありました。

教えの風とならないように

欧米で聖書論を巡って激しい論争が繰り広げられているそうです。そのことを懸念して、ある神学校教授がこう指摘しました。(以下は意訳です)「専門の学者が、福音の世界の一般人にどのような影響を与えるかを考慮せずに、自分の研究発表をごり押しする傾向がある。専門外の人が誤解しないように、注意して自分の資料を提示することが必要だ。これは意思疎通の訓練であり、残念なことに学者はこれに食指が向かない。不必要な敵意が時に新しい解釈に向けられるのだが、それは、一般のキリスト者に対する十分な配慮を欠いたまま提示されているからだ。」そして、日本で適用されるまでは、半世紀の月日が必要なのではないかということも指摘されています。

聖書研究ソフトLogosで、好きな聖書学者で一位になったぐらいですから、以上の私の見解は、この学者が好きな人からの風当たりは相当強いと思います。けれども、自分がそのまま素直に感じたことを述べました。私がそう感じているのですから、おそらく私の周りにいる普通に信仰生活を送っている兄弟姉妹も、同じ事を感じるだろうと思うからです。

前記事のテーマと同じですが、「教えの風」には吹きまわされずに、地道にキリストにあって成長していくことに集中していきましょう。(後記:英文ですが、彼の著書へのコメントで良い題名がありました。中身も良いです。”Good Scholarship Bad Theology(学識はあるが神学が駄目)”

【後記】(2012年9月22日)

N.T.ライトについて、ようやく一つの神学が分かりました。これは今、流行っている”New Creation Theology“(新創造神学)というものです。要は、今の世界の中で神の原初の創造を回復させる働きを積極的にやっていこう、とするものです。この単語を入れて検索にかけると、沢山の情報を得ることができました。批判的考察の記事を紹介します。

N.T. Wright and the New Creation
牧師さんが、ライト博士の講演を聞いた後で本人に質問した時の話が載っています。彼もまた聖書理解と実践におけるこの神学の適用に混乱し、困惑しています。

Rethinking the Gospel?(福音の再考察?)
こちらは著名な改革神学博士のブログで南部バプテストの代表が寄稿したものです。紹介した改革系の牧師さんの内容と同じであり、現代キリスト教が個人主義に陥り、福音が宇宙的な再創造にまで至らせる壮大なものであることを忘れている、という点ではその通りだが、「福音の中心は、人が救われること」であると強調しています。

もっと調べますと今の流行が少しずつ分かってきました。今は「目に見える世の中に入っていこう」という傾向が極めて強いです。ライト氏もそうですし、マーズヒル教会のマーク・ドリスコル牧師らが提唱するmissional churchもそうですし、そしてemerging church等、「世と一つになる」という宣教方法、また神学が流行っています。したがって、この世が滅びるであるとか、この世との分離という側面を排除しようとするのです。

キリスト教会に流行は存在しません。福音はいつまでも変わりません。しかしこの“古臭い福音”が、その時代にあって革命的な変化や新創造をもたらすのです

(「補足」に続く)

「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その2

その1からの続き)

でもやっぱり「天国」と「地獄」はある

しかし博士は、西洋キリスト教にある歪みに注目するあまり、「天」そのもの「魂」そのものの聖書観にも手を触れてしまっています。つまり天また地獄を比喩的なもの、修辞的なもののように考える傾向があります。これに対して批判すると、確かに信じているように反論します。そうであれば、初めから既存の神学を批判しなければいいのに、やはり対抗的に論じていくのです。

ギリシヤ思想に影響されていなくても、聖書の「天」は確かに「上」にあります。物理的には創世記一章が描いている通りです。そしてシナイ山においては、神が上から降りておられ、それは恐ろしい光景でありました。聖なる神と、呪われた地との間には「隔絶」があり、地は確かに呪われたものです。ゆえに仲介が必要であり、動物のいけにえが必要であり、祭司制度が必要でありました。

そして預言者エリヤは天に「上っていった」のであり、地から離れていきました。イザヤは、神の御座を見て「ああ、私に災いが来る」と叫びました(イザヤ5:1)。絶対的な隔絶があります。

キリストが来られたのは、まさに幕屋になられるためでした(ヨハネ1:14)。この方にあって、ある意味で天が地に接することができるようになりました。しかし、イエスもよみがえられ、天に昇られました。そして、こう言われました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

キリストが体をもってこの地上におられないため、もうひとりの助け主を主は私たちに与えてくださいましたが、それでも体をもって主が戻って来てくださることを弟子たちは切に待ち望みました。そして使徒的教会は、主に待ち焦がれ、黙示録は花嫁として「主よ、来てください」という掛け声そして、その応答である主の、「しかりわたしは来る」で終わっているのです。

この花嫁としての待ち焦がれを、パウロは「天からの着物」を待っていると言い、地上の肉体を離れて「主のみもと」にいるほうがよい、と言っています(2コリント5:8)。天にこそ資産が貯えられているのであり(1ペテロ1:4)、「世を去ってキリストとともにいることが、はるかにまさっている(ピリピ1:23参照)」と言っているのです!地は罪で呪われており、やはり私たち信者は天にあこがれるのです!

黙示録は、イエス・キリストの最終的啓示です。その全体は、天が地に迫ってくる一連の出来事になっています。初めに栄光の御姿の主が現れ、ヨハネは死んだようになりました。これだけ隔絶されているのであり、天は畏れ多いところ、聖なるところであります。

そしてその天の尺度から見た地上の教会が、七つの教会です。そこでは、よみがえられた主がご自分の燃える目で見ておられ、悔い改めを迫っておられます。そして天における情景に4,5章は移ります。そこには天に引き上げられた教会の姿がありました。6章から地上への神の怒りが現れるが、それでも4,5章における天で御使いや四つの生き物や、長老らが叫び、主に栄光をおかえししています。

そして19章には天における小羊の婚姻があります。それから聖徒と共に主が地上に来て、地上の軍勢を倒されます。ここから地上における神の国が始まります。イスラエルに約束された神の至福はここで実現します。けれども、この千年期もまた中間地点です。千年の終わりに神は最後審判を行なわれ、行なわれた後で万物を一新し、新天新地において天からのエルサレムを新地にいる者たちに与えられます。

「天の完全性、地との隔絶、けれどもキリストの仲介による天と地の和解」が聖書の流れです。

地獄についても、ライト博士は「非人間化」という言葉を使って比喩表現に留まっていますが、当時のユダヤ人の思想背景も重要でしょうが、人間はどの時代に生きていてもやはり人間であり、同じ感覚を有しています。聖書はどの時代の人にも読むことができるように神が語られたものと信じています。そうでなければ、どうして異邦人への救いを神は約束されたのでしょうか?火と硫黄と言えば、旧約時代、ロトが住んでいたソドムの町は文字通り火と硫黄が降ったのです。その話を信じていた当時のユダヤ人が、「火と硫黄」と聞いたときに何を想起するかは容易に想像できます。

その3に続く)

「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その1

今朝、私の愛用しているLogos4(聖書研究PCソフト)のフェイスブックでN.T.ライトという新約聖書学者がインタビューに答えている動画を見ました。彼の著作が七割引だということ、そして彼の書いたマタイ伝の注解書に興味を示しました。サンプルもあり、内容的にはとても良かったです。それで続けて調べましたが、日本人の間では読書会が出来上がっているようです。

それで、いろいろと欧米では極めて人気を博しているこの新約聖書学者について調べてみますと、二つの流れを感じました。一つは、「見事だ、実に鋭いところ、かゆいところに手が届かないところを言葉に表してくれている」ということと、反面「誤解を教会に与え、物事を複雑にしていく」ということです。

ライト氏の主張の一つは「聖書は死後の天国を永遠の住まいとしていない」ということです。「地上での生活に神の豊かな意図がある。天に入ることが全てで地上での生活が狭められているのが聖書的キリスト教ではない。天に魂が行ってしまうことが終わりではなく、体をもった復活が主要な内容であり、永遠はむしろ天が地に下りてくる『新しいエルサレム』なのだ。」という主張です。

これは実に深い示唆であり、一見、異端的に聞こえますが、実は聖書が描く終末そのものであります。「死んだ後の魂の状態」よりも「死者の復活」に非常に大きな重点が置かれています。そして、神の国は地上に迫ってくるものであり、どこか宇宙の遥か彼方の空間に存在するのではありません。天は私たちが考えるよりも間近にあり、実に天が地における事象を支配していると言って過言ではありません。

日本の人に、「死後にどこにいくか気になりませんか?」と尋ねても、この世の生活を考えるだけで精一杯だという答えが返ってくる中で、伝道として新たな回答を用意できるのではないかと思いました。

私たちは、イエス様が間もなく来られることを待ち望んでいます。そして私はキリストの再臨によって、この地上に神の国が建てられることを堅く信じています。ゆえに、今の世界における生活・政治・文化・経済などにもある程度の関心を寄せています。そうでなければ、神の国の骨格さえ分かりません。

米国において韓国人宣教師が、私の導く聖書の学び会において面前でいかに私がカルト的であるかを説き(その学びでは語っていなかった「千年王国」を取り上げていました)、そしてこう言いました。「再臨は大切です。けれども、もっと大切なのは救いです。」私は唖然としました。「再臨をなくした救いって何なんだ?!」これは典型的な「魂が天に入ることが究極の目的」だと考えている、ギリシヤ思想に影響されたキリスト教神学です。NTライト博士の指摘するとおりです。

主はこの世の事象に極めて関心を持っておられます。人の心の状態の魂だけではなく、地上に起こる社会の動き、国のあり方など、旧約聖書から概観すればそのように結論づけることができます。その中でバプテスマのヨハネが「天の御国が近づいた、悔い改めなさい。」と説き、パウロは、今にでも地上に下る神の裁きから免れることを説きました。

そして天においては復活の体を身にまとうまでの中間状態については、どうなっているのかは明示していないのに対して、復活そのものが前面に現れています。キリストを初穂として我々が復活するというのが、パウロが第一コリント15章で詳細に説明している通りであります。(まだ調べたことがないですが、もしかしたらコリントにある教会はギリシヤ思想に影響されて、死者の体の復活を軽視していたのかもしれません。)

その2に続く)