「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その3

その2からの続き)

「携挙にさようなら」??

そして私が最も困惑したのは、彼の携挙に対する考えです。彼は、「携挙にさようなら」と言って、その教えを一蹴しています。この英文を読み、英語そのものは理解できても内容がさっぱり理解できませんでした。実に、「読み込み」を行なわないと出てこないような比喩的解釈であります。

「携挙→大患難→キリストの地上再臨」という教えを至極批判する人にありがちですが、「この教えを信じれば、地上に起こっていることには無関心になり、地球がどうなってもよいと思っている。」と思っています。冗談じゃない!と言いたいです。まず、個人的なことを言わせていただきますと、主が今にでも来られるから教会の開拓を始めました。一人でも魂が救われて欲しいと願っています。主が間もなくこられるかもしれないから、東北の救援活動も精力的に行ないました。「この世は悪くなり、主がその中に深く関わっておられるから、その中で光として輝きなさい。」という主の命令が、切迫再臨を信じることによって心の中で見えてくるのです。

そして私の知っている人々で携挙を強く信じている人が、主に関することで忙しくしていても、関心を示さずに呑気にしていることは全くいません。時々、インターネットなどでそういう人は見かけますが実に嫌悪感が出て来ます。

同じ「神の恵み」を信じている者でも放縦に走る者はいるし、「永遠の救いの保証を」信じている者で「罪の生活をしていても救いは保証されている」と曲解する者はいるし、どの聖書的教えにおいても歪曲し、汚れと不正の中に生きる者たちはどこでもいます。

やはり、私と同じ反応している人は多く、例えば彼の著書に対する以下のコメントがあります。「ある人は携挙を信じて、丘の中に隠れた生活をする。他の人は携挙を信じて、主の仕事に忙しくしている。予定論についても考えてみよう。ある人たちは誤って、他者に伝道する必要はないと考える。一方、愚かな宣教によって、キリストの声を羊が聞くと信じている。根っこが同じでも、このように異なる実が出てくるのだ。」

実は既に信じているよ!

そして、博士は欧米キリスト教の誤謬を批判しながら、実はその神学体系の中に彼の主張がそのままあることが多いです。携挙の話を続けますと、このように言っている人がいます。私もまったく同感ですが「私は、これからいうことで大声でディスペンセーション終末論を擁護するのではないが、ディスペンセーション神学の中で、携挙こそが『信者の死者の復活』になっていることを指摘したい。これこそが実は、新天新地の前に訪れる『死後の命の後の命』なのだ。」

「死後の命の後の命」というのはライト博士が好む言葉であり、「死後の天における命よりも、その後に来る復活の命に聖書は重点を置いている」と言うのですが、携挙はまさしく信者の復活が実行に移される一大イベントであり、だからこそ私たちはその希望に大いに喜び踊っています!

実はこのことが他の神学の領域でも起こっています。「信仰義認」といえば宗教改革の中核であります。それを大事にしているのは「改革神学」という体系を信じている人たちです。米国には有名な教師ジョン・パイパーがいます。ライト博士が従来の信仰義認について極めて否定的な見解を展開していたので、彼は苦言を呈しました。「極めて誤解を生みやすく、不必要に複雑だ」

このことに関して日本人の神学に詳しい牧師さんが記事に残しているので、ご参照ください。

N.T.ライトの魅力と限界についての単なる思いつきのメモ

ライト博士の主張
「本来的に聖書において「義認」が意味することは有罪判決の撤去を意味するのではなく、「契約の民に入れられること」である。」

この牧師さんの反論
「贖罪があってこその契約共同体への参加なのである。キリストは我々を罪から救うために来られたことは、聖書が創世記から黙示録に至るまで、ありとあらゆるところで語っていることであって、覆いようがない。」

あまりにも当たり前なのですが、少なくとも私たちのような聖書知識の凡人(?)には、この牧師さんの反論がすぐに思い当たるのです。そして大事ことを彼は述べています。

ライトは「子とすること」と「義認」とを混同している。・・・今の時代、ライトのような主張が人気を得る背景としての伝統的プロテスタントの問題は、義認論にエネルギーを傾けるあまり、契約神学における神の民に入れられるという意味での救いを軽んじてきたことである。また、それは・・・「義とされること」「子とされること」「聖とされること」のうち、「子とされること」を軽んじて来たことでもある。

「契約の民に入れられること」すなわち「子とされること」は、すでに改革神学の中で教えられています。けれども、それが「義とされること」を強調するあまり軽視されてきました。それでライト博士がその部分を強調し、強調するだけでなく、大切な「義認」の教えにも触れてしまっているのです。

つまり、題名に書きましたが「欧米キリスト教の「盲点」を突きながら、新たな盲点を生み出している」ということです。

市井のキリスト者のことを考えて!

ライト博士の著書に期待しているけれども、自戒してその内容を教会の現場に卸すことを控えておられる牧師さんの記事がありました。

教えの風とならないように

欧米で聖書論を巡って激しい論争が繰り広げられているそうです。そのことを懸念して、ある神学校教授がこう指摘しました。(以下は意訳です)「専門の学者が、福音の世界の一般人にどのような影響を与えるかを考慮せずに、自分の研究発表をごり押しする傾向がある。専門外の人が誤解しないように、注意して自分の資料を提示することが必要だ。これは意思疎通の訓練であり、残念なことに学者はこれに食指が向かない。不必要な敵意が時に新しい解釈に向けられるのだが、それは、一般のキリスト者に対する十分な配慮を欠いたまま提示されているからだ。」そして、日本で適用されるまでは、半世紀の月日が必要なのではないかということも指摘されています。

聖書研究ソフトLogosで、好きな聖書学者で一位になったぐらいですから、以上の私の見解は、この学者が好きな人からの風当たりは相当強いと思います。けれども、自分がそのまま素直に感じたことを述べました。私がそう感じているのですから、おそらく私の周りにいる普通に信仰生活を送っている兄弟姉妹も、同じ事を感じるだろうと思うからです。

前記事のテーマと同じですが、「教えの風」には吹きまわされずに、地道にキリストにあって成長していくことに集中していきましょう。(後記:英文ですが、彼の著書へのコメントで良い題名がありました。中身も良いです。”Good Scholarship Bad Theology(学識はあるが神学が駄目)”

【後記】(2012年9月22日)

N.T.ライトについて、ようやく一つの神学が分かりました。これは今、流行っている”New Creation Theology“(新創造神学)というものです。要は、今の世界の中で神の原初の創造を回復させる働きを積極的にやっていこう、とするものです。この単語を入れて検索にかけると、沢山の情報を得ることができました。批判的考察の記事を紹介します。

N.T. Wright and the New Creation
牧師さんが、ライト博士の講演を聞いた後で本人に質問した時の話が載っています。彼もまた聖書理解と実践におけるこの神学の適用に混乱し、困惑しています。

Rethinking the Gospel?(福音の再考察?)
こちらは著名な改革神学博士のブログで南部バプテストの代表が寄稿したものです。紹介した改革系の牧師さんの内容と同じであり、現代キリスト教が個人主義に陥り、福音が宇宙的な再創造にまで至らせる壮大なものであることを忘れている、という点ではその通りだが、「福音の中心は、人が救われること」であると強調しています。

もっと調べますと今の流行が少しずつ分かってきました。今は「目に見える世の中に入っていこう」という傾向が極めて強いです。ライト氏もそうですし、マーズヒル教会のマーク・ドリスコル牧師らが提唱するmissional churchもそうですし、そしてemerging church等、「世と一つになる」という宣教方法、また神学が流行っています。したがって、この世が滅びるであるとか、この世との分離という側面を排除しようとするのです。

キリスト教会に流行は存在しません。福音はいつまでも変わりません。しかしこの“古臭い福音”が、その時代にあって革命的な変化や新創造をもたらすのです

(「補足」に続く)

「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その2

その1からの続き)

でもやっぱり「天国」と「地獄」はある

しかし博士は、西洋キリスト教にある歪みに注目するあまり、「天」そのもの「魂」そのものの聖書観にも手を触れてしまっています。つまり天また地獄を比喩的なもの、修辞的なもののように考える傾向があります。これに対して批判すると、確かに信じているように反論します。そうであれば、初めから既存の神学を批判しなければいいのに、やはり対抗的に論じていくのです。

ギリシヤ思想に影響されていなくても、聖書の「天」は確かに「上」にあります。物理的には創世記一章が描いている通りです。そしてシナイ山においては、神が上から降りておられ、それは恐ろしい光景でありました。聖なる神と、呪われた地との間には「隔絶」があり、地は確かに呪われたものです。ゆえに仲介が必要であり、動物のいけにえが必要であり、祭司制度が必要でありました。

そして預言者エリヤは天に「上っていった」のであり、地から離れていきました。イザヤは、神の御座を見て「ああ、私に災いが来る」と叫びました(イザヤ5:1)。絶対的な隔絶があります。

キリストが来られたのは、まさに幕屋になられるためでした(ヨハネ1:14)。この方にあって、ある意味で天が地に接することができるようになりました。しかし、イエスもよみがえられ、天に昇られました。そして、こう言われました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

キリストが体をもってこの地上におられないため、もうひとりの助け主を主は私たちに与えてくださいましたが、それでも体をもって主が戻って来てくださることを弟子たちは切に待ち望みました。そして使徒的教会は、主に待ち焦がれ、黙示録は花嫁として「主よ、来てください」という掛け声そして、その応答である主の、「しかりわたしは来る」で終わっているのです。

この花嫁としての待ち焦がれを、パウロは「天からの着物」を待っていると言い、地上の肉体を離れて「主のみもと」にいるほうがよい、と言っています(2コリント5:8)。天にこそ資産が貯えられているのであり(1ペテロ1:4)、「世を去ってキリストとともにいることが、はるかにまさっている(ピリピ1:23参照)」と言っているのです!地は罪で呪われており、やはり私たち信者は天にあこがれるのです!

黙示録は、イエス・キリストの最終的啓示です。その全体は、天が地に迫ってくる一連の出来事になっています。初めに栄光の御姿の主が現れ、ヨハネは死んだようになりました。これだけ隔絶されているのであり、天は畏れ多いところ、聖なるところであります。

そしてその天の尺度から見た地上の教会が、七つの教会です。そこでは、よみがえられた主がご自分の燃える目で見ておられ、悔い改めを迫っておられます。そして天における情景に4,5章は移ります。そこには天に引き上げられた教会の姿がありました。6章から地上への神の怒りが現れるが、それでも4,5章における天で御使いや四つの生き物や、長老らが叫び、主に栄光をおかえししています。

そして19章には天における小羊の婚姻があります。それから聖徒と共に主が地上に来て、地上の軍勢を倒されます。ここから地上における神の国が始まります。イスラエルに約束された神の至福はここで実現します。けれども、この千年期もまた中間地点です。千年の終わりに神は最後審判を行なわれ、行なわれた後で万物を一新し、新天新地において天からのエルサレムを新地にいる者たちに与えられます。

「天の完全性、地との隔絶、けれどもキリストの仲介による天と地の和解」が聖書の流れです。

地獄についても、ライト博士は「非人間化」という言葉を使って比喩表現に留まっていますが、当時のユダヤ人の思想背景も重要でしょうが、人間はどの時代に生きていてもやはり人間であり、同じ感覚を有しています。聖書はどの時代の人にも読むことができるように神が語られたものと信じています。そうでなければ、どうして異邦人への救いを神は約束されたのでしょうか?火と硫黄と言えば、旧約時代、ロトが住んでいたソドムの町は文字通り火と硫黄が降ったのです。その話を信じていた当時のユダヤ人が、「火と硫黄」と聞いたときに何を想起するかは容易に想像できます。

その3に続く)

「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その1

今朝、私の愛用しているLogos4(聖書研究PCソフト)のフェイスブックでN.T.ライトという新約聖書学者がインタビューに答えている動画を見ました。彼の著作が七割引だということ、そして彼の書いたマタイ伝の注解書に興味を示しました。サンプルもあり、内容的にはとても良かったです。それで続けて調べましたが、日本人の間では読書会が出来上がっているようです。

それで、いろいろと欧米では極めて人気を博しているこの新約聖書学者について調べてみますと、二つの流れを感じました。一つは、「見事だ、実に鋭いところ、かゆいところに手が届かないところを言葉に表してくれている」ということと、反面「誤解を教会に与え、物事を複雑にしていく」ということです。

ライト氏の主張の一つは「聖書は死後の天国を永遠の住まいとしていない」ということです。「地上での生活に神の豊かな意図がある。天に入ることが全てで地上での生活が狭められているのが聖書的キリスト教ではない。天に魂が行ってしまうことが終わりではなく、体をもった復活が主要な内容であり、永遠はむしろ天が地に下りてくる『新しいエルサレム』なのだ。」という主張です。

これは実に深い示唆であり、一見、異端的に聞こえますが、実は聖書が描く終末そのものであります。「死んだ後の魂の状態」よりも「死者の復活」に非常に大きな重点が置かれています。そして、神の国は地上に迫ってくるものであり、どこか宇宙の遥か彼方の空間に存在するのではありません。天は私たちが考えるよりも間近にあり、実に天が地における事象を支配していると言って過言ではありません。

日本の人に、「死後にどこにいくか気になりませんか?」と尋ねても、この世の生活を考えるだけで精一杯だという答えが返ってくる中で、伝道として新たな回答を用意できるのではないかと思いました。

私たちは、イエス様が間もなく来られることを待ち望んでいます。そして私はキリストの再臨によって、この地上に神の国が建てられることを堅く信じています。ゆえに、今の世界における生活・政治・文化・経済などにもある程度の関心を寄せています。そうでなければ、神の国の骨格さえ分かりません。

米国において韓国人宣教師が、私の導く聖書の学び会において面前でいかに私がカルト的であるかを説き(その学びでは語っていなかった「千年王国」を取り上げていました)、そしてこう言いました。「再臨は大切です。けれども、もっと大切なのは救いです。」私は唖然としました。「再臨をなくした救いって何なんだ?!」これは典型的な「魂が天に入ることが究極の目的」だと考えている、ギリシヤ思想に影響されたキリスト教神学です。NTライト博士の指摘するとおりです。

主はこの世の事象に極めて関心を持っておられます。人の心の状態の魂だけではなく、地上に起こる社会の動き、国のあり方など、旧約聖書から概観すればそのように結論づけることができます。その中でバプテスマのヨハネが「天の御国が近づいた、悔い改めなさい。」と説き、パウロは、今にでも地上に下る神の裁きから免れることを説きました。

そして天においては復活の体を身にまとうまでの中間状態については、どうなっているのかは明示していないのに対して、復活そのものが前面に現れています。キリストを初穂として我々が復活するというのが、パウロが第一コリント15章で詳細に説明している通りであります。(まだ調べたことがないですが、もしかしたらコリントにある教会はギリシヤ思想に影響されて、死者の体の復活を軽視していたのかもしれません。)

その2に続く)

欧米的・福音的キリスト教に反発する人々

米国キリスト教で起こっていることは、英文でその情報が私のところに入ってきます。そこで従来の福音的なキリスト教会に対抗する形で、さまざまな運動が起こっています。教会としても、また神学としても起こっています。今回は教会として起こっているものを取り上げてみたいと思います。具体的にEmerging Church、もう一つリック・ウォレンの「目的主導」の教会成長について言及します。

近代キリスト教の流れ

その前に欧米におけるキリスト教の近代史を少しかいつまんで見る必要があるでしょう。欧米キリスト教は、近代になって「近代主義」というものが出てきました。「自由主義神学」とも呼ばれます。かいつまんで言えば理知主義であり、理性で理解できないものは捨て去る考えです。聖書に出てくる超自然的な記述は非合理であるから、それは当時の他の文献から比喩的・寓話的に書かれたものであるという解釈の仕方が生まれました。目に見えるものしか信じない物質主義的な考えです。

それに危機感を抱いた人々が、「信仰の根本原理」ということで、聖書の無謬・無誤性、キリストの処女降誕、奇跡、そして十字架後の復活、昇天と再臨を根本に信じていかなければいけないという動きが起こりました。それがしばしばファンダメンタリズム(根本主義)と呼ばれています。「原理主義」とも呼ばれ、揶揄されたり、警戒されたりするのですが、もしこの記事を読んでいる方が、「聖書は神の言葉である」「キリストは処女降誕された」「この方は完全に神であられ完全に人である」「私たちの罪の代償としてキリストが十字架につけられ、三日目に体をもってよみがえられた」「天に上げられ、体をもって地上に再臨される」という、これらのことを信じているならば、それが根本主義の主張なのです。

そして、この真理をしっかりと握って福音を伝えなければいけないという動きが起こり、その延長線上に「四つの法則」で知られるキャンパス・クルセードや、ビリー・グラハム伝道協会などがあります。米国にある宣教団体が世界にも働きかけています。

そして現代はポスト・モダニズムすなわち「近代主義の後」の世界にいるのだ、という人々がいます。つまり、近代主義のように物質的なもののみに真理があるとすることもせず、そして根本主義のように絶対真理があるということもせず、すべては感覚や感性であり、絶対真理というものは存在せず、それぞれが感じ取っていくものである、という考えです。それが米国内ではEmergent Churchとも言われ、「説教」ではなく「対話」、「教義」ではなく「経験」、「絶対真理」ではなく「相対主義」という考えをもって行なっています。

このEmergent Churchは、今は若者にかなり流行っているようなのですが、必ず「内なる混乱」が起こり破綻することでしょう。人間は感性や感情だけで造られているのではなく、知性や知識が神から与えられており、それを全否定するやり方は必ず人間混乱を引き起こします。

私個人は、神学的には、根本主義と聖霊運動の流れから出てきたカルバリーチャペルの影響を強く受けていますので、二つ目に書いた根本主義の遺産を継承していると言って良いと思います。使徒の書いた新約聖書(そして、もちろん使徒が旧約聖書の成就だとして主張したその旧約聖書も含めて)のいう「言い伝え」をしっかりと守りなさいと命じられたとおりに行なわなければいけないと信じている者です。四つの法則や、先日のフランクリン・グラハムの東北における伝道の働きにおいても、私は非常に感謝しているし、日本や宣教地域で有効活用していくべきだと思っている一人です。

その中で、もちろん米国福音派の動きだけに頼っているのでは決してありません。私は日本人ですけれども、日本に遣わされた宣教者だと思っています。つまり他文化において福音宣教の働きをしているわけであり、したがって米国内のキリスト者には見えてこない聖書的視点が与えられています。しかし、米国発信の福音的キリスト教が間違っているという批判をするつもりはなく、むしろその霊的財産(遺産)に敬意を払って、それでもって神が遣わしてくださったこの地でキリストから教えられて生きていく者であるでありたいと思っています。

反発した新しい動き

ところが、むしろ米国内で従来の福音的キリスト教に反発している動きがあります。その一つが上に挙げたEmerging Churchです。彼らは「教会堂の席に座り、正しい教理だけを詰め込まれるのが教会ではない。」という強い反発を持っています。根本主義者が強調するキリストの再臨にも強い反発を示し、この地上における幸福を大事にします。地獄の教義は生理的に嫌悪しています。もっと感情や感覚、自分の思ったこと、感じたことを大切にしたいと思っています。そして、ろうそくを灯したり、カトリックや正教会の儀式の一部を取り入れたり、神秘的アプローチも取ります。

そして、保守的な欧米のクリスチャンは、これらの動きは実に危険であり、福音の真理かから逸脱しているという思いを、いろいろな媒体で表明しているわけです。

私は、このような異端的動きが起こっていることに対して、確かに欧米キリスト教会に欠けているもの(そしてそれを輸入した日本のキリスト教会にも欠けているもの)を見ています。教会史において異端や他の教えが出ている時には、必ずと言ってよいほど教会自体の不足や盲点が浮き彫りにされていたときです。例えば教会が腐敗していたときに、アラビア半島からイスラム教が台頭しました。

Emerging Churchからの批判について言えば、現代キリスト教会には「生活」がありません。日曜日に教会堂に行き、そこで歌と説教を聞いて、それで家に帰って終わり・・・という生活がはたして、新約聖書で教えられている教会の姿でしょうか?むしろ、教会とは共同体であり、誕生したばかりのエルサレムの教会では文字通り財産を共有して生きていました。「互いに」という言葉が使徒の手紙の中に頻繁に出てくるように、キリスト者の間における生活の関わりが密接に行なわれていました。

しかし、それがEmergent Churchになるのか?というと、そうではありません。聖書は「交わり」だけを話していません、初代教会は「使徒の教え」を堅く守っていて、パウロや他の使徒は、主の言葉、神の計画全体を教えることに多くの時間を割いていました。そして神の家を真理の柱と言っていたように、言葉で宣言できることが可能な信仰によって成り立っていたのです。Emerging Churchにはそれが完全に抜けており、自分たちが何を信じているのか分からない、そして結果的にキリストご自身を捨ててしまうということになるのです。

リック・ウォレンの提唱した「目的主導」の教会成長にも同じことが言えます。(注1)確かに福音的キリスト教には、世に対する「言葉」を失いました。この世界に生きる人々に届かなければいけない福音なのに、キリスト教文化の垣根の中でしか通用しない言葉を生み出し、教会内と教会外で壁を作ってしまったのです。聖書的キリスト教は、「ギリシヤ人にはギリシヤ人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のように」という、仕える姿で福音を伝えることでした。

そこで地域や社会に貢献できる教会を目指したわけですが、問題はその逆のことが起こったのです。「教会が世に届くのではなく、世が教会の中に入ってきた」のです。キリスト教とイスラム教を融合させるような発言を彼が行なったとして多くの批判を受け、彼は激しく反論しましたが、けれども傍目から見てやはり融合しているとしか思えない、いわば政治家のように八方美人になって語る、相手によって言葉を変えている状態です。

そして、根本主義的教会は携挙を強調し、キリストの地上再臨を強調して、この地上に対する関わりをなくしたとし、「自分たちでキリストの御国を立てるのだ」という考えで運動を進めています。個人としては「五つの目的」で知られる自己啓発の哲学に基づく書物が売れ、教会としては政治・環境運動とあまり差異のない人間主導の活動を行っています。

「欠けたもの」への反発から「必要なもの」を捨て去る

二つの動きに共通しているのは、従来の福音的キリスト教に見過ごされていたもの、欠けていたものに焦点を当てながら、それに反発することによって、肝心のもの、絶対必須のものも捨ててしまうという現象です。

これを放射能汚染に例えてみましょう、原発事故で放射性物質が発散されましたが、では私たちは空気全体をどこかに移動することはできるでしょうか?海水にも汚染水が出て行きましたが、海全体を取り替えることはできるのでしょうか?いいえ、もし空気を移動したら窒息します。海水を取り替えようとするなら、海の生物は死滅します。魚介類はもちろんこれから食べることはできません。多少汚染されていた空気であっても吸うことが必須であり、吸わなかったら被爆よりもはるかに即時的に、確定的にその人は死亡するのです。けれども、そうしたことを「反発」という動きによって霊的に行なっているのが現状です。

もっと聖書的、霊的に言えば、問題は「かしらなるキリストに結びつく」ことを忘れてしまったことです。

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2:8-10)」

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ2:18-19)」

現代の教会のあり方に反発を抱いているのであれば、まずはこれまで、自分自身がキリストにしっかりと結びついておらず、聖書的ではない動きに振り回されていたことを悔い改めなければいけません。聖書を読みながら、実は「聖書を読む」というプログラムに自分の身を任せてはいなかったでしょうか?伝道しながら、実は、聖書に基づくキリストの愛に押し流された、御霊による伝道の努力ではなく、伝道プログラムの中に自分の身を任せてはいなかったでしょうか?キリストの切迫的来臨を聖書で見ながら、初代教会と同じようにこの方との再来を待ち焦がれ、慎み深く地上での生活を歩むのではなく、「レフト・ビハインド」に代表されるような小説でただ熱気立っていたのではないでしょうか?(注2)キリストではなく、教会で行なわれている一つの空気の中で自分が生きていたのではないか?という、自己に対する疑問を呈してみたらいかがでしょうか?

Emergentや目的主導のような動きが批判している、今日の福音的キリスト教の問題点は、福音的キリスト教が元々信じていたはずなのにどこかに置き忘れてしまったもの、信条としては信じているのに実践されていなかったものなどが、ほとんどです。教会のあり方を批判している人々に同調して、他のところ、他の人、他の動きに飛びつくのではなく、むしろキリストに立ち戻るのです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15)」

注1:リック・ウェレンについての日本語による記事はこちらをお薦めします。
非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 その栄枯盛衰の狭間で翻弄される日本の弱小教会

注2:私個人は「レフト・ビハインド」を評価しています。伝道用文書としてすばらしい小説だと思っています。以前にブログ記事を書きました。

福音の立体的骨格を伝えるには? その2

その1からの続き)

行ないによって

そして伝道の強力な武器は「良い行ない」です。神が愛であるのと口で言うのと、困っている人に実際に必要にかなう物を分け与えるのとでは全然違います。後者によって神が愛であることを伝えるほうが極めて効果的です。東北震災の被災地において、大勢の人がキリストを実感できました。「なぜクリスチャンのボランティアは、見返りを期待せずに喜んで働いているのだろうか?既存の神道や仏教の人々より、圧倒的な差でなぜ教会が動いているのか?」という問いかけが、現地では多くなされています。実際に目で見えるものによって、目に見えない神のご性質をおぼろげに知ることができたのです。

そして、このように生活の証しによって、実際に伝道集会において、福音の言葉を聞いて信じる人が起こされています。その場でただ福音の言葉を聞いたのでは決して知ることのなかった、輪郭のある証言を与えられていたからです。

弟子作りによって

そして私は、弟子作りそのものが伝道になると思っています。つまり、時間をいっしょに過ごし、聖書の言葉をじっくり、時間をかけて教えていくことです。イエス様はマタイ伝では、弟子たちに「弟子にしなさい」という命令を与えられました。マルコ伝では福音を宣べ伝えなさいと命じられましたが、弟子にしていくことは、単に福音を口で伝えること以上の過程が必要です。

旧約の時代から、神は人に対して時間をかけて接しておられました。アブラハムが神を知るのは、その何十年もかけた人生においてでした。ヤコブも体験も一足飛びではありません。ヨセフも、兄が自分を売ったことについての神の救いの計画を知るには、時間がかかりました。モーセも神に召されるまでは八十年かかっていますし、誰一人として四つの福音の冊子にある、即効的な神との出会いはしていないのです。

多神教を信じる者に対する伝道は本当に時間を要しました。ダニエルのことを思います。ネブカデネザルは、ダニエルの忠実な証しによって、晩年に天におられる神、主を認めるに至りました(ダニエル4章)。彼の発言には段階があります。初めはダニエルの神をほめたたえました。けれども、4章では自分自身の神としてほめたたえています。

そしてイエス様は、弟子たちと三年間、いっしょに時間を過ごされました。寝食を共にして、そして教えを弟子たちは聞きました。イエスの行なわれるわざを間近で見ました。それでもイエス様の本当のところについては悟ることができませんでした。全貌はご復活後に明らかにされるのです。

「骨格」が与えられるのは、やはり聖書にある神の教えを伝えながら、じっくりと時間を共に過ごすことにあるのではないかと思います。もちろん、救いは信仰を持つことによって瞬時に与えられます。御霊による新生が徐々に、漸次的に与えられるものではありません。新生しているか、いないかのどちらかです。けれども、それが必ずしも、四つの法則をいっしょに見ていったことによって、その人の人生に明らかにされるわけではないのです。クリスチャンの家庭に育った子弟が、自分の信仰が明らかになるまで時間がかかることがよくあるように、時間がかかって良いと思っています。大事なのは、信じたと告白する前から時間を共に過ごし、告白した後も同じように時間を共に過ごし、一貫した、変わらぬキリストの姿を見せていくことであります。

福音の立体的骨格を伝えるには? その1

米国から戻ってきたばかりの時の逆カルチャー・ショック

私たちが米国にいて、日本から訪ねて来られた人々に直球の伝道をしていたことがあります。ホームステイで短期に来られた人々に、そのままイエス・キリストの十字架の意味を教え、そして決断もお薦めするというようなことを行なっていました。かなり考え込んでくださっていましたが、それで信じた人はいませんでした。けれども、それでも伝えられたということで満足でした。

ところが日本に戻ってきて、その葛藤は深刻になりました。「四つの法則」に代表されるような福音の提示だけが果たして福音伝道であるのかどうか、ということです。特に、アメリカ人家庭でイエス様を信じたという日本人が帰国すれば、そのほとんどは初めから信じていない、ということが多かったのを見て、「イエスご自身を、立体的に輪郭をもって伝えられていないのではないか?」と疑問を持つようになりました。

文化習慣的な要素があることは確かです。米国のレストランでは自分の好きなメニューを瞬時で選んでウェイトレスに伝える姿を見ると、論理的に考え、選択をすることが日常で行なわれている欧米人には良いのかもしれないが、例えば、「阿片戦争」という映画で、英国人がYesかNoかと中国人官吏に迫っていたときに、腕を込んで考え込んでいる姿に表れているように、二者択一の決断がなかなかできない要素が多分にあるのではないか、と思いました。

そして人間関係が重要です。東洋人は相手を尊ぶがゆえに「はい」と答える傾向があります。相手が語っている内容に同意するのではなく、その人を重んじているのです。

けれども、それだけが要素ではないと感じています。一番大きな要素は、やはり重厚なユダヤ・キリスト教の歴史を欧米は持っているということです。イースター(復活祭)についても、例えば一般雑誌に「イエスは果たして復活したのか?」というようなことが特集記事になる程であり、読まなくても家庭に聖書が一冊あるほどなので、四つの法則で最終的な決断を勧めても問題ないところまで来ているのではないか?と感じています。

けれども、「四つの法則」は誰もが学ぶべき基本的知識です。伝道をするときに、この法則を念頭に入れておくのとそうでないのとでは歴然とした違いがあります。そこには、神の救いのご計画が実に見事にコンパクトにまとめられています。そして、最近米国では伝道者レイ・コンフォートが提唱し、実践している十戒を使った伝道方法も、注目に値します。反響を呼んだ”180“というビデオは、伝道する時に「考えていない人に考えさせる」という触発を与えるのは良いことであることを教えられました。

神の与えておられる接点

今、私が落ち着いている伝道するときの立場は、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たぬ人にはそのように」という使徒パウロの姿勢です(1コリント9:19-23)。そしてイエス様がニコデモとサマリヤの女に対して行なわれた伝道です。

私は全ての人が神からの知識を持っていると信じています。自然界に神の創造が現れているのはもちろんのこと、そうでなくてもその人が持っている興味、これまで歩んできた人生、自分の今の考えなどによって、そこに神が介在しておられると信じています。

イエス様は、聖書に精通しているニコデモに対しては聖書から話され、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女に対しては「水」から永遠の命を語られました。新しく生まれることを話したイエス様は、サマリヤの女に対しては「霊とまことをもって礼拝する」と言われて、巧みに言葉を変えて同じ真理を伝えておられます。ペテロも、イスラエル人に対して、「ぶどう酒に酔っているだけだ」という反応を取り上げて、そこから聖書を語り始めました。語る福音宣教者が、聞く者の中にある言葉や関心事、知識を土俵として、それを導入として語り始めるのです。

パウロの宣教を通して、数多くの人がイエス様を信じていきましたが、けれども彼はユダヤ人の会堂に初めに行って伝道しました。そして異邦人でも改宗者や神を敬う人々に向かって語りました。すでに聖書の知識を持っている人々、創造の神を求道している人に語ったので、それで信仰に至りました。反面、自分が願わぬ形で、テモテとシラスを待っていた時、独りで伝道したアテネでは、「知られざる神」という言葉から天地創造の神、そしてイエスの復活、そして再臨とその後の裁きを宣べ伝えましたが、多くの人はあざ笑うだけでした(使徒17章)。しかし、ここでも彼は、どこかで接点を見出して、そこからイエス様を語ろうと努力したのです。

私は以前、神道の信者に伝道したことがあります。その方は私が教会の者だと分かるとかえって興味を持って話しかけてこられました。その時に私が行ったのは、神道の葬式について質問したことです。目的は、相手とどのような接点があるのだろうか、相手が何に興味を抱いているのか、どのような価値観を持っているのだろうか、などを見極めることでした。-「自分が分からなかったら、素直に聞いてみる」ということは大事だと思います。- そして、ある程度の神道の信仰体系をお伺いして理解してから、それから永遠の命、そして罪と死について話したのだと思い出します。

また、死刑制度について話していた方がいました。自分の家族が殺されたら、自分は決してその人を赦すことはできない、そいつが与えた同じ苦しみをもって、苦しみを与えたいという感情が沸くだろう、ということを仰っていた人がいます。ここで、「それは罪だ。赦さないといけない。」と説教するのは極めて間違っていると私は思いました。なぜなら彼女はまだキリストを知らないからです。むしろ、その人の心に「報復の神」が啓示されていると思いました。私はこう答えました。「全くその通りです。苦しみを与えた者には、それにふさわしい報いを受けるべきだと思います。けれども私たち信仰者は、それを神がしてくださることを知っています。神が復讐してくださることを知っているので、正しい裁きが人間によって行なわれなくとも、神が行ってくださるという希望によって支えられているのです。要は、神を信じることが大事です。」と答えたかと思います。

パウロは、「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(1コリント9:22)」と言いました。自分の語る言葉を振りかざすのではなく、むしろ相手の僕となることによって、相手の土俵から福音の真理を語り始めます。相手が求める説明に対して弁明するような形で語るのです(1ペテロ3:15)。

そのためには、私たちは神だけでなく、神のお造りなさった人にも関心を示さねばならないでしょう。それには労力が伴います。自分が相手に教えるのではなく、初めに相手を知り、学んでいく必要があります。その人のところに届く宣教者とならなければいけません。その人の言語、その人の社会、その人の文化があります。そこに入ることによって、私たちが「イエス」というお名前を発するときに、相手にとって単なる言葉あるいは音で終わるのではなく、人格のある存在として伝わっていくのではないか、と思います。

その2に続く)