恵比寿バイブル・スタディのお知らせ(9月5日)

皆様へ

こんにちは。連絡が遅れてすみません、恵比寿バイブルスタディのお知らせです。

日時:9月5日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第二9章以降
(その後の予定は9月19日です。)

何章まで進むかまだ迷っていますが、11章にはあのバテ・シェバとの姦淫、夫ウリヤ殺害を犯すダビデの姿を読みます。これまで、主の前にへりくだって歩んできたダビデがなぜ?と思われるかもしれません。その部分を探ってみたいと思います。

それでは、明日お会いできるのを楽しみにしています。

霊的復興とは?

(前記事「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の続き)

そこで紹介したい記事があります。カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師ブライアン・ブローダソンのブログ記事です。リバイバル(霊的復興)の定義と意義について書いています。日本にも必要な御霊の動きです。

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Revival Part2

(意訳)
リバイバル(霊的復興)の主題に入ります。初めに、霊的復興が何ではないかについて提起しましょう。霊的復興は、私たちが呼び起こすことのできるものではない、ということです。「今週のリバイバル集会 午後7時半より」という看板を掲げた教会を通り過ぎたことが、おそらくおありでしょう。リバイバルは確かに教会に関わるものですが、教会によって計画できるものではありません。神が霊的復興をいつ、どこで起こされか、私たち指図することはできないのです。私たちが自分を霊的復興に導かせるためにできる事はありますが、究極的には主権的な神の御業なのです。

霊的復興は、このように定義されてきました。「多くの信者が、聖霊による深い罪の自覚を同時に経験する時の、特別な回復の時であり、罪の告白と遺棄(時には公に捨て去る)をもたらす。最後には、主への献身を更新することになる。」リバイバルは、聖潔への新たな決意、新鮮な伝道の情熱、宣教の幻に導きます。

分かりますか、霊的復興は、私たちが信仰的に後退し、御霊に属する事柄について冷えてしまっているとき、神がご自分の民のためにしてくださる何かです。教会にはまだ通っているかもしれません、聖書を持って歩いているかもしれません、そうした決まった活動はしているかもしれませんが、心の中では、主イエス・キリストに対する親密さや全き献身から離れ去っているのです。

The Spiritual Awakeners(「霊的覚醒を与えるもの」)の中で、著者Keith Hardmanは、霊的復興に至らせる条件について、こう話しました。「霊的復興は、霊的沈滞、無気力、著しい罪の時期、名目上のキリスト者の大多数が、世俗社会の構成員と実質的にほとんど違わない時を経て、その後に普通続くものである。」

今日の私たち自身が、この状況なのではないでしょうか?多くの回心が起こっているように見え、新しい教会が始められており、ある時は、人々がぞろぞろとやってきます。けれども、実際の起こっていることを近くで眺めてみると、多くの教会が人々が来ていっぱいになっていても、その教会の中にいる人々の生活と、教会の外にいる人の生活が大きく違う、というわけではないことがはっきりしてきます。ですから、霊的復興が必要なのです!

さらなる霊的覚醒の必要

覚醒は、復興と並んでくるものであり、教会の外にいる人々に影響を与え、キリストへの救いの信仰に至らせます。一般的には、復興と覚醒は同時に起こります。神が御霊によってご自分の教会を動かし始め、新たな罪の自覚をもたらし、新たな決意を呼びかけられると、外の社会に対しても働き始め、人々に罪の自覚を与えられるのです。

これが私たちの世界で、大きな必要となっているのでないでしょうか?つまり、人々が罪の自覚の下に来ることです。人々に罪について話すとき、その考えを全て退けて、「そんなものはない」と言います。絶対真理を信じないで、真理は存在しないと思っている人に、すべての人が実は罪人であることをどのように説得できるのでしょうか?私たちは、論じる能力以上の何かが必要です。神の御霊の力が必要なのです!

Hardmanは、結論をこう述べています。「覚醒は、文化の歪み、個々人の深刻なストレスの時期に起こり始める。私たちが規範としているもの、制度の実存性、教会と国家にいる権威の正当性に信頼が失われるとき、起こり始める。」これは今日の私たちを描写していませんか?私たちは確かに、裁きを受けるに熟していますが、復興することにおいても熟しています。覚醒することにも熟しています。神の民として、このことを期待し、神がそれをもたらしてくだることを叫ばないといけません。
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参考文献:「第二次大覚醒」(ウィキペディア)

もはや保守派でも、リベラル派でもない

共和党候補がロムニー氏に決まり、その応援演説にライス前米国国務長官が駆けつけたとのことで、早速ユーチューブで探して閲覧しました。

とても分かりやすい英語で、共和党の基盤となる見方を、いや、アメリカがアメリカとして成り立っている存在意義、あるいはイデオロギーをきちんと述べているところに好感が持てました。そして私が好きなのは、彼女が黒人であるのにその思想が保守主義に基づいていること。「保守派は白人である」という日本でありがちな極めて陳腐な議論を、彼女の演説は粉砕しています。

彼女は黒人差別をまともに経験した人です。8歳の時に友人を、白人優位主義者の爆弾テロで失っていることが強烈な体験になっています。両親(父は牧師)が持っていた「教育こそが差別に打ち勝つ武器」という強固な信念を娘は具現化しました。今回の演説でも言っていましたが、次の言葉は感動的です。「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)ウールワースでハンバーガーを食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」(ウィキペディア参照)。ホワイトハウスに親が連れて行った時は、少女の彼女は「いつかここで働く」と言ったそうですが、事実、米国で副大統領の次に第三の権限を持つ国務長官になりました。(こちらに自叙伝のまとめ記事があります。)

(関連記事:「「感謝」の力 - ②私が保守的な訳」「 「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳」

ここまで言いましたが、実は、私は演説に強い力を感じることができませんでした。共和党というか、米国の保守主義全体はもう色あせており、米国全体がタイタニックのように沈んでいく、いやまだ沈んでいませんが、どこか船底に穴が空いているけれども埋められていない、という感触を持っています。

それは何かと言いますと、ひとえに「霊的底力がなくなっていること」であります。リベラル派であるオバマ大統領が出る前、米国の福音派教会が強烈にブッシュ大統領を支持した時から、その流れを見てきました。私がショックを受けたのは、ブッシュ大統領自身は信仰的に成熟しているとはとても思えないのに、教会がまるでユダ国で霊的復興に用いられたヨシヤのように担ぎ上げられていたことです。

ブッシュ氏は、米国同時多発テロという建国以来最大の危機と言ってもよい国難であった時の最高責任者として、同情もし、よく頑張ったと思っています。しかし、福音派教会が持ち上げていた割には、対テロ戦の初期段階から宗教的に世界を一つにしようとする動きに積極的に付いていっていました。日本を訪問したときは明治神宮で参拝をし、イスラム世界においては、「私たちとムスリムは同じ神をあがめている。」と発言し、政権末期の時は「私は聖書をそのまま信じていない。」と進化論に関して答えるときに話していました。確かに政治的には保守主義と取っていますが、信仰的にはとても幼い人だという印象を受けました。

それでオバマ氏が大統領に選ばれたときには、「オバマが優れているからではなく、共和党が自らの基盤を捨てて、妥協したからに他ならない。」と思いました。そしてオバマに熱狂したアメリカ人も落胆しましたが、これまでの民主党政権にもない大政府的な政策、そして民主党を支持していたユダヤ票を無視するかのようなイスラエルの軽視など、アメリカをアメリカらしくしていたものを捨てていく政策を取ってきました。そして中絶を奨励、いや要求するような法制化、同性婚の支持など、ますますキリスト教価値観から離れています。

そして共和党が巻き返すのか、と思っていたところ、なんと出てきたのはモルモン教とのロムニー氏です。ある牧師が、こう書き記しています。「モルモン教徒であるロムニー氏はイエス・キリストは堕落した天使長ルシファー(サタン)の霊的兄だと信じている。天使のキリストが受肉してイエスになったと考える点はエホバの証人と同じである。ちなみにエホバの証人では天使のかしらのミカエルが受肉したのがイエスだと考える。モルモンは、イエスはマルタやマリヤなど複数の妻を持った一夫多妻者であったと教える(ヨハネ2章のカナの婚礼もイエス自身の結婚式であったと教える)。彼らは明らかに「別のイエス」(2コリント11:4)を宣べ伝えており、聖書はこのような「別の福音」を宣べ伝える者はのろわれるべきだと断罪している(ガラテヤ1:8−9)。」

同じ「イエス」を唱えているけれども、聖書の語るイエスは、全知全能の神の御子であり、神ご自身である方と、ルシファーの霊的兄弟という、比較できぬ雲泥の差があるのです。つまり、今回の大統領選挙は、ちょうど南北に分裂した時のイスラエル、北イスラエルのヤロブアムを選ぶか、南ユダのレハブアムを選ぶか、その二者択一に成り下がっているということです。

これは何を意味しているのか?神の裁きはこれから米国に下るのではなく、既に下っていることを表しています。国の指導者は、その民の霊的状態を映し出す鏡なのです。

米国に限らず、日本でもそうですが、私が政治論議を倦厭してしまう瞬間は、「神とキリストのみによって与えられる救済を、政治家に求めてはいないか?」という疑問が出てくる時です。実はこのことについて、米国キリスト教会の中からも声が大きくなってきました。今、アメリカに必要なのは優れた政治家ではなく、神ご自身であり、教会の霊的復興、国土の霊的覚醒であるという訴えです。次の投稿に、このことについて話したいと思います。

(次記事「霊的復興」に続く)