2016: オバマのアメリカ(2016: Obama’s America)

今、アメリカで全米歴代二位の興行成績を達成したという話題の映画です。マイケル・ムーアの「華氏911」には及ばないそうですが、政治ドキュメンタリー映画としては、第二位に食い込んでると言います。日本語の記事を探したら、次の記事が一番詳しかったです。

ワシントン・古森義久 「反オバマ映画」人気の理由

私は先日「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の記事を書き、信仰的立場から今の米国保守派を批判しました。オバマ大統領については少し言及するに留めました。以前、米国リベラル派の由来についての記事を書きましたが、オバマ自身については正直なところ沢山書けませんでした。保守派からは反キリストではないかという声が有る程でしたし、彼の出生についての陰謀論が出回っていたので、私は興味が失せていました。一方、リベラル派はあの熱狂振りが理解不能でした。日本人でさえCHANGEという言葉に振り動かされていたほです。

でも、彼自身の人物像は確かな情報が出ていなかったと思います。そこで副題が、”LOVE HIM, HATE HIM, YOU DON’T KNOW HIM”というもので、実に端的に言い表していると思いました。訳せば、「オバマを愛しているにしても、憎んでいるにしても、彼のことは知らないね。」ということでしょう。どちら側も、彼を突き動かしている思想や情熱を知りません。

私個人の印象としては、前から「暗さ」を感じていました。彼の会見映像を見るたびに思います。アメリカン・ドリームとはほど遠い、というか、何か異質なものを感じます。(妻は十年以上米国に滞在し、その多くをリベラル色の強い東海岸で過ごしたけれども、私だけでなく彼女も「彼は、私の知っているアメリカと違う!」と言っています。)歴代の民主党大統領とも何かが違います。とらえどころのない謎を秘めた人です。保守派の人がこれまで民主党大統領を批判したとて、批判できるのは何か、どこかで一致できる何かがありました。けれども、それがないので空振りをしている感じです。以上が私の印象です。

そこでこの映画ですが、これはインド系米国人の政治学者ディネシュ・デスーザ氏による著書The Roots of Obama’s Rage(オバマの怒りのルーツ)を基にしています。中身は大体、次の記事二つを読めば分かるみたいです。

Forbesの記事:“How Obama Thinks”(オバマの考え方)
Washington Postの記事:“Why Barack Obama is an anti-colonialist”(バラク・オバマがなぜ反植民地主義者なのか?)

最初の産経新聞の紹介記事にまとめがありますが、「デスーザ氏は「オバマ氏の真のイデオロギー的理念は、米国がアフリカなどの開発途上国から搾取した植民地主義の結果の是正であり、そのために米国の力や富を相対的に減らすことを意図している」という結論を下す。」とのことです。私はこれで「なるほど!」と思いました。

彼のルーツは、彼のケニア人の反植民主義者の父だそうです。大していっしょに過ごしたのではないけれども、父の情熱と思想がしっかりと受け継がれていることが、彼が34歳の時に書き記した、「マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝」に散らばっているそうです。デスーザ氏はあるスピーチの中で次のような内容を話していました。「アメリカ人は、多様性のある多文化のアメリカの夢をオバマに投影させているが、オバマ自身の歴史を見落としている。父が反植民地主義であり、その考えをアメリカの地に適用させようとしている。普通の民主党員は、『所得をアメリカの中で再配分しようとしている』。けれどもオバマ氏は、『アメリカを世界の中に再編成しようとしている』」

これで、すとんと来ました。これが民主党や穏健リベラル派との違いです。ただ、デスーザ氏の主張がどこまで正しいのかどうか私には推し量ることはできません。特にオバマ氏による大統領としての政策に、どこまでその思想と情熱が反映できているか、つまり「したくてもできない」ものも多いのではないか、と思うからです。けれども私が前々から感じていた深い懸念と合致していました。つまり「アメリカをもうアメリカででなくしてしまい、他の世界の国々と同類にしていこうとする強い力が働いている。」と、個人的には強く感じていたからです。

最後に、私は多くの日本の人、クリスチャンを含む日本の人に言いたい。アメリカの独自性をイラク戦争後「一国主義」と言ってあれだけ批判していましたが、「本当にアメリカ無き後の世界を私たちが望んでいるのか?」ということです。アメリカが強大な国で無くなりようがないから、という甘えがあって批判していたのではないでしょうか?ちょうど、自衛隊違憲、日米安保否定の路線を立てて置きながら、一度、与党になったら一気に転回したかつての社会党のように。でも、現実にそうしていこうと思っている大統領がお望みどおり就いている、ということです。そして、あと4年続けるかもしれない、ということです。

今、現実にアメリカがアメリカでなくなっていく時代に入っていこうとしています。ジョエル・ローゼンバーグ氏が言うように、Implode(内部破裂)してしまう時期が近づいています。

最後の最後に・・・、本映画の原作者ディネシュ・デスーザ氏は福音派のクリスチャンで、キリスト教系のキングズ大学の学長でもあるそうです。キリスト教弁証学者としても有名ですが、どこかで聞いたことのある人だな?とは思っていました。また、彼はアジア系の米国移民なので、なぜ彼が保守的になったのか少し共感できます。アメリカにしかない独自性を外部にいたからこそ知ることができるので、その建国思想に純粋に帰依しやすい面があります。有色系移民一世のほうが、従来の白人よりも保守的になりやすい面が実はあります。下の記事を書いていますね。これもまたアメリカの魅力を知った時を思い出し、共感できます。(私も「アメリカに感謝している訳」なんていう記事を以前書きました。)

祝するべき10の事 /なぜ私が、反・反米主義者なのか

【後記】

カルバリーチャペルのラジオ番組KWVEで、チャック・スミス牧師がディネシュ・デスーザさんにインタビューしました!番組の録音も聞くことができます。(写真 ・ 録音)彼自身、カルバリーチャペルに通っているそうです。

イスラムとカルビン主義「予定説」

前記事「米大使館襲撃事件とイスラム信仰」の補足になります。

ある小冊子に、カルビン主義の「予定説」は、清教徒に見られるように、今のイスラム教と似たようなことを行なってきたことを指摘している文章がありました。秘密警察を置いてみたり、異端者を公に燃やしたり、オランダ改革教会における南アフリカでの人種隔離政策、カルビン主義者同士の殺し合い、そして南部バプテストやメソジストによる奴隷制支持などがありました。なるほど!です。

イスラムでは、「インシャ・アッラー(=アッラーの意志のままに)」という言葉がそれに当ります。

プロテスタント教会史の汚点

神が一方的に憐れみをもってある人を救いに呼ばれたということを、「予定説」では、「ある人を天国に、またある人を地獄で永遠に苦しませるために意図的に創造した」と教えています(=「無条件的選択」)。これは聖書的に間違っているだけでなく(1テモテ2:4、エゼキエル33:11等)、福音伝道の必要性と大宣教命令に矛盾します。これをいくら論理的な説明を試みたところで、神の予定ならず「運命」あるいは「宿命」の神という、聖書とは異なる決定論的な神を予定説は浮き彫りにしていきます。

したがって、霊的救いだけでなく社会的にも敷衍して、例えば黒人が奴隷であることが神から決定されているものとみなし、それを変えることに躊躇したのが当時の人々でした。そして、極端になるとそれを変えることが神の決定を妨げることになるから排除しなければならないと考えます。予定説を唱えている人は否定しますが、「神の意志」というものを哲学的な決定論の中で捉えているために、こうした過ちが起こっているのです。(今はさすがに奴隷制支持者はいませんが、大衆伝道集会に一部の過激カルビン主義者らが、イエス様を受け入れる決断をするため説教壇の所まで行こうとするところを、「選択はできない(No Choice!)」と書いてあるTシャツを来て、それを阻もうとしています。)

予定は、神との、愛の中での自由な営みの中にある

神は計画を持っています。予め初めから全てのことを知っておられて、予めすべてを計画しておられます。しかし、神は同時に、人のすべての営みに介入しておられます。人の細かい一つ一つの心の動きさえ、それを知り、痛みがあるならば共に痛み、喜ぶならば共に喜んでくださり、制限のある人間と一つになっていてくださいます。

その被造物との関わりが究極の形で現れたのが「十字架」です。神が一見、弱者に思われるようなところまで、一つになってくださったのです。

真理とは決定論の中の真理ではありません。「真実」と訳したほうが良いでしょうか、人の自由な営みがあって、なおのこと不変で不動の存在があり、それが真理なのです。

神はひとりなのですが、三つのの位格(父・子・聖霊)があるからこそ、このことができるのです。「全ての主権者」であると同時に「人の弱さ」に一体化することが可能になるのです。イスラム教は、御子を否定することによって、人の弱さに同情できない神を造り上げました。けれどもカルビン主義の予定説は、キリストが全人類のために血を流し、あらゆる人の所まで溢れ流れたという恵み深さを、「選定された者だけ」という決定論の中に押し込めました。

したがって、私が聞くのが好きではない祈りが、「どうか、あの人を、あなたの御心であれば、お救いください。」であります。そして、まだ生きている時に、救われたのかそうでないのかを、その人の歩みを見て決めていこうすることです。そうではありません!こう祈るべきです。「あの人のために、あなたはキリストを十字架の上で死に渡されました。ですから、救ってください、お願いします!(涙)」であります。そしてその人が死ぬまで、最後の最後まで、しつこく祈り続けることです。その執拗さの中に、主はご自身の予め決められていた御心を現してくださるのです。

自由意志を用いた愛の交わりの中に「真理」が存在するのであり、そして、その真理はすなわちキリストご自身なのです。

参照文献:カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば チャック・スミス著

米大使館襲撃事件とイスラム信仰

よりによって911の日に・・・「またしでかしたな!」と思いました。

領事館襲撃で駐リビア米大使らが死亡 「預言者侮辱」にイスラム教徒が抗議

改めて、イスラムについて考えなければいけません。以前、紹介した池内恵著「中東 危機の震源を読む」にリンクしている書評から引用します。

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イスラーム原理主義者によるテロ事件の報道などを見ると、私たちはどうしても「西洋(キリスト教)対イスラーム」という図式を頭に浮かべてしまう。しかしイスラームが対面している相手は、実は西洋でもキリスト教でもなく、「近代社会」だ。これが最も顕在化するのが、改宗をめぐる問題である。

池内恵によれば、イスラーム諸国が西洋諸国と向き合うとき争わざるをえないのは、キリスト教的価値とイスラーム的価値の優劣なのではなく、「信教の自由」ということ自体の意味なのだという。

イスラーム教では、イスラーム教から他宗教への改宗は絶対的な罪であり、認められない。「背教」の最たるものとされ、死罪にあたる。……改宗が「許されない」という次元の話ではなく、普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」という共通認識が根本にある。(2007年8月、217項)

近代社会では、キリスト教以外の宗教を信仰すること、また双方への改宗も当然の権利とみなされる。ところが、イスラーム教ではそうではない。

近代に確立されてきた基本的人権において、「信仰の自由」は最重要項目である。各個人がある宗教を信仰する自由を保障するとともに、その宗教から離れる自由も、宗教も信じない自由も同時にある。むしろ宗教的な制約からの解放こそが思想・信条の自由の推進の原動力であった。イスラーム教の規範においては、宗教に関する限り、人間の自由には制限が大きい。また全ての宗教は平等ではなく、イスラーム教徒が「離教」することは、神に対する最大限の罪となる。(同上、219項)

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普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」」の部分がとても大切です。

私たちキリスト者の考える真理は「キリスト」ご自身です。キリストなる人格ある存在に接することが永遠の命であり、真理は自由意志の行き交う交わりの中に存在します。

しかしイスラム教では、物が地面に落ちる重力の法則と同様に真理を考えます。つまり、「物が宙に浮くことがありえない」と同じように、「イスラームからの離脱もありえない」と考えるのです。他の生命のない被造物と同じように人もアッラーに服するのであり、ゆえにイスラーム(=服従)なのです。人格的交わりも、自由意志も一切ありません。

もし服さない者(また物)があれば、普通なら思考を生かして「なぜ服さないのだろう?」と考えるでしょう。しかし、そのような思考経路はありません。もし服さないのであれば、抹殺あるのみです。このような経路で、ユーチューブのムハンマドを描く映画に反応しています。

さらに言わせていただくなら、アッラー自体に、聖書の神の人格がありません。彼には愛の交わりがありません。孤独なのです、たった独りなのです。自己は自分の意思を動かす中枢でしかありません。しかし、聖書の神は唯一でありながら、かつ交わりがあります。父がおられ、子がおられ、また霊がおられます。父が子を愛し、子は父に対してその愛において服従します。対して、イスラームの信仰告白の支柱に「アッラーには子がいない」というのがあります。こうやってアッラーは自ら愛の人格を剥奪し、運命と宿命の渦に成り果てました。ゆえに人に対しても、有無を言わせない服従しか要求できないのです。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。(1ヨハネ2:22-23)」(参照記事:ダニエル書8章のエッセイ

今回の事件について未だに、一部の人がいう「文明の対話を怠ってきたからだ」という分析に固執するのでしょうか?そもそも、対話などできるのでしょうか?また、「アメリカの中東政策のつけだ」ということなのでしょうか?いつになったら、アメリカとイスラエルのせいにする思考回路から脱却できるのでしょうか?同じようにアメリカの政策に手なずけられたと言われる他の独裁国(韓国やフィリピンなど)は、とっくの昔に民主化し、政治的に成熟しています。

「イスラム」に問題は内在しているのです。米国政府の失策ではなく、これは霊の戦いなのです。だからキリスト者がもっと祈るのです。中東キリスト者への祈りと、福音と御霊の力による解放を願うことこそ、平和をつくる人になれます。

【追記】
知人の方から、この記事を読んで「独裁制からの自由を求める市民のために、その民主化のために祈り支えることが必要」、また「キリスト者に原理主義者がいるように、イスラムにもいる。コーランを焼くような牧師は、最も愚劣な存在だと思う。そして、やはり対話は必要。」との貴重なコメントをいただきました。次が私が書いた返答です。

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