米大使館襲撃事件とイスラム信仰

よりによって911の日に・・・「またしでかしたな!」と思いました。

領事館襲撃で駐リビア米大使らが死亡 「預言者侮辱」にイスラム教徒が抗議

改めて、イスラムについて考えなければいけません。以前、紹介した池内恵著「中東 危機の震源を読む」にリンクしている書評から引用します。

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イスラーム原理主義者によるテロ事件の報道などを見ると、私たちはどうしても「西洋(キリスト教)対イスラーム」という図式を頭に浮かべてしまう。しかしイスラームが対面している相手は、実は西洋でもキリスト教でもなく、「近代社会」だ。これが最も顕在化するのが、改宗をめぐる問題である。

池内恵によれば、イスラーム諸国が西洋諸国と向き合うとき争わざるをえないのは、キリスト教的価値とイスラーム的価値の優劣なのではなく、「信教の自由」ということ自体の意味なのだという。

イスラーム教では、イスラーム教から他宗教への改宗は絶対的な罪であり、認められない。「背教」の最たるものとされ、死罪にあたる。……改宗が「許されない」という次元の話ではなく、普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」という共通認識が根本にある。(2007年8月、217項)

近代社会では、キリスト教以外の宗教を信仰すること、また双方への改宗も当然の権利とみなされる。ところが、イスラーム教ではそうではない。

近代に確立されてきた基本的人権において、「信仰の自由」は最重要項目である。各個人がある宗教を信仰する自由を保障するとともに、その宗教から離れる自由も、宗教も信じない自由も同時にある。むしろ宗教的な制約からの解放こそが思想・信条の自由の推進の原動力であった。イスラーム教の規範においては、宗教に関する限り、人間の自由には制限が大きい。また全ての宗教は平等ではなく、イスラーム教徒が「離教」することは、神に対する最大限の罪となる。(同上、219項)

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普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」」の部分がとても大切です。

私たちキリスト者の考える真理は「キリスト」ご自身です。キリストなる人格ある存在に接することが永遠の命であり、真理は自由意志の行き交う交わりの中に存在します。

しかしイスラム教では、物が地面に落ちる重力の法則と同様に真理を考えます。つまり、「物が宙に浮くことがありえない」と同じように、「イスラームからの離脱もありえない」と考えるのです。他の生命のない被造物と同じように人もアッラーに服するのであり、ゆえにイスラーム(=服従)なのです。人格的交わりも、自由意志も一切ありません。

もし服さない者(また物)があれば、普通なら思考を生かして「なぜ服さないのだろう?」と考えるでしょう。しかし、そのような思考経路はありません。もし服さないのであれば、抹殺あるのみです。このような経路で、ユーチューブのムハンマドを描く映画に反応しています。

さらに言わせていただくなら、アッラー自体に、聖書の神の人格がありません。彼には愛の交わりがありません。孤独なのです、たった独りなのです。自己は自分の意思を動かす中枢でしかありません。しかし、聖書の神は唯一でありながら、かつ交わりがあります。父がおられ、子がおられ、また霊がおられます。父が子を愛し、子は父に対してその愛において服従します。対して、イスラームの信仰告白の支柱に「アッラーには子がいない」というのがあります。こうやってアッラーは自ら愛の人格を剥奪し、運命と宿命の渦に成り果てました。ゆえに人に対しても、有無を言わせない服従しか要求できないのです。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。(1ヨハネ2:22-23)」(参照記事:ダニエル書8章のエッセイ

今回の事件について未だに、一部の人がいう「文明の対話を怠ってきたからだ」という分析に固執するのでしょうか?そもそも、対話などできるのでしょうか?また、「アメリカの中東政策のつけだ」ということなのでしょうか?いつになったら、アメリカとイスラエルのせいにする思考回路から脱却できるのでしょうか?同じようにアメリカの政策に手なずけられたと言われる他の独裁国(韓国やフィリピンなど)は、とっくの昔に民主化し、政治的に成熟しています。

「イスラム」に問題は内在しているのです。米国政府の失策ではなく、これは霊の戦いなのです。だからキリスト者がもっと祈るのです。中東キリスト者への祈りと、福音と御霊の力による解放を願うことこそ、平和をつくる人になれます。

【追記】
知人の方から、この記事を読んで「独裁制からの自由を求める市民のために、その民主化のために祈り支えることが必要」、また「キリスト者に原理主義者がいるように、イスラムにもいる。コーランを焼くような牧師は、最も愚劣な存在だと思う。そして、やはり対話は必要。」との貴重なコメントをいただきました。次が私が書いた返答です。

「民主化を求める市民たちを祈り支持する、ということは、これまでの独裁制からの脱皮において現実的には綱渡り的な難しさがあります。

その独裁からの脱却の市民母体は、必ずや他の種類の悪玉が入り込んできます。これまでムバラク独裁の中でさえ、ある程度、信仰の自由が許されていたエジプト・コプト教のキリスト教徒は、前代未聞の迫害下の中に今います。(私は日本でコプト教徒のエジプト人兄弟を会いました。残念なことに亡命申請の複雑さに直面して帰国しました。返ってきた携帯メッセージには、キリスト教用語は避けられています。)

したがって、最も小さな、声なき声はこのような人たちです。彼らは、必死に信仰を保っています。もちろん神が御座におられるという信仰に支えられているのですが、人間的には「ムバラク政権も嫌だが、いなくなった後のほうがもっと恐い。」というのが本音だったのです。

今のシリアでも、反体制派には多分にアルカイーダ等、国際テロ分子が入り込んでいます。同じように、声なき声であるシリアのキリスト教徒も同じように本音はアサド政権のほうが助かる、というものなのです。

だからといって独裁制が良い、正当化できるという話ではありません。私たちは「民主化」という政治運動を決して単純化してはいけないということです。

私は朝鮮半島を愛しています。金日成の母親は熱心なクリスチャンでした。日本が侵略し、独立運動を朝鮮人が展開している中で、キリスト教は深いつながりを持っていました。しかし共産主義も入ってきました。そこで日本敗戦後、あのように自由主義陣営と共産主義陣営の国内分裂が起きて、朝鮮戦争になりました。米国は独裁者を援助しました。けれどもその独裁者は反共主義でした。結果、韓国民は苦しみましたが、同時に今の北朝鮮のような惨状からは救われていたのです。

そして北朝鮮のキリスト者は、ユダヤ人のアウシュウィッツ収容所と等しいと言っても過言ではない、強制収容所で極度の飢餓による死、強制堕胎、日常的な性奴隷、生体実験、言語に絶する惨死など、無言でそれらの苦しみをキリストのゆえに甘受しています。

韓国には国家保安法があります。日本の破防法のようなものです。市民運動を隠れ蓑にして北朝鮮スパイが思想的に韓国民を摂取し、韓国転覆を試みる分子を取り締まるための法律です。日本赤軍のような規模ではなく、その十数倍の力を持っています。保守党が嫌いな進歩的な韓国の人でさえ、この法律の必要悪を認めています。

そして、キリスト教原理主義について。これが教義的な意味であれば、私は原理主義者(fundamentalist)です。聖書の無謬性、キリストの処女降誕、キリストの十字架の贖罪と復活、文字通りの再臨、これらを信じるというのが根本主義の始まりでした。

政治的な関わりとしては私は米国民ではないので何とも言えないですが、もしキリスト教倫理に基づく政治的関与そのものを否定するのであれば、二重基準にならないために、日本のキリスト者も政治的な事柄に口出ししてはいけないでしょう。靖国神社参拝反対、反原発など、止めるべきです。もし社会正義もキリスト者の働きの一つであると考えるならば、米国キリスト者の政治的関与自体については尊重すべきだと私は思います。

そして、コーランを破った牧師について。私も愚かだと思います。彼は義憤からそれを行なったと思いますが、新約時代に生きているキリスト者は、言葉による福音弁証が課せられています。コーランがいかに間違っているか、そして聖書の真理とイエス・キリストがいかに真理であるか、堂々と論じれば良いのです。使徒ペテロが言っているように、「優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明(1ペテロ3:16)」しなければいけないのですが、破るのはどう考えてもキリスト者の態度ではありません。

ただ、彼はイスラム教について知っています。私たちが考える「聖書」とイスラムの「コーラン」の霊感説が違うのです。聖書は、神が与え、それを人が書いたという神と人との協同作業です。コーランは、あのアラビア語で神がそのまま書き残した、というのがイスラムの教義です。(翻訳されたものは「コーランの注釈書」という位置づけです。)ですから、アラビア語のコーラン、その書かれている紙そのものが彼らの信仰の対象となっており、それで破られると彼らの信仰そのものが否定されている、とてつもない侮辱になります。それを知っていて行なっています。

ですから彼は初めから、ムスリムを福音宣教の対象としていません。騒動を起こさせることを目的にした目立ちがり屋です。「牧師」の看板を下ろすべきです。

最後に、「対話」ではなく「伝道」が必要だと私は思います。「対話」は共通点をまず探し出さなければいけませんが、福音はまさに共通点ではなく、イエス・キリストの独自性を宣言する言葉です。この方こそが救いであり、ただこの方だけが唯一無二の神の独り子だからです。

そして、その「伝道」において、相手の立場に合わせた、効果的、創造的な伝道が必要になります。ムスリムの人たちの中にはとても霊的に飢え渇いている人が多いので、聞き入れてくれる人は多いと思います。米国は、コーランを破るようなパフォーマーがいると同時に、大量の中東やアフリカ移民のムスリムに、慎み深く、愛をもって伝道しているクリスチャンがいます。(こういう人たちは、マスコミには出てきませんが。)」

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