「聖書預言の力と目的を再発見する」 その5

(「その4」からの続き)

同じように驚くべき事は、主なる神は聖書を ― 旧約と新約のどちらをも ― 通して、メシヤの再臨の「終わりの日」における要となる国々において起こる、要となる出来事の一部を私たちに宣言してくださっています。私たちが「終わりの日」に生きていることを指し示す「徴」を前もって警告しておられます。ですから私たちへの問いかけは、この方の御言葉に注意を寄せていますか、その命令に従いますか?ということです。

第三に、終わりの時の聖書預言に、多くの国々が具体的に言及されていますが、アメリカはその一つではない、ということです。イスラエルは終わりの日において、神のご計画とご目的の震央部分になっています。聖書預言で言及されている他の国はロシア、イラン、シリア、レバノン、トルコ、リビア、スーダン、復興ローマ帝国など、その他数カ国です。けれどもアメリカ合衆国は、直接的に、具体的に聖書に言及されていません。私の最近の著作”Implosion“(内破)の中で、このことをさらに詳しく取り扱っています。けれども重要な点は、アメリカが人類の歴史の中で、この地上で最も豊かで最も強力な国であっても、聖書は、終わりの日において私たちに対する特別な役割を説明していません。したがって、何かが私たちの力を無くし、キリストの到来に至る出来事で鍵となる役割を果たすのを無力化させるのではないかと思えます。

もしかしたら、この国の財政が崩壊すること、一連の天災、あるいは戦争やテロ攻撃、あるいはその他のいろいろなシナリオが含まれているかもしれません。どのようにアメリカが無力化されるのか正確には分からない一方、私たちの国では、神が私たちの国から好意と慈しみの御手を引かれるかもしれない、あるいは、私たちを公然と裁き罰するに至る、非常に不穏な動向を既にいくつも見ています。その中の一つとして、1973年以降私たちは5300万人の中絶を犯してきた事実があります。1960年以降、暴力犯罪が460パーセントの割合で爆発的増加を見ました。恐ろしい殺人の波が今日の私たちの国に、小さな町にさえ押し寄せています。数千万というアメリカ人が、あらゆる類の性的罪の中に生きています。ポルノ、性的不品行、姦淫、同性愛など、数知れません。聖書が個人や国が関わってはいけないと警告している罪であります。さらに、持ってもいないお金を費やすのに毒されてしまいました。連邦赤字が、16兆ドル(=1330兆円)に達しました。ワシントンは現在、歳入として受け取っているものより、毎秒、42210ドル(=330万円)を費やしているのです。

このような動向はあまりにもひどく、決して維持できないものです。もし方向を変えなければ、― もし、悔い改めてキリストに罪を赦していただき、第三大覚醒を与えてくださらなければ、― 私たちの国は経済的に、道徳的に内部破裂するだろうと思います。この状況は、私たちがひざまずき、祈りと断食と悔い改めへ促していなければなりません。実際に、促しているでしょうか?

第四に、アメリカが内部破裂に直面している理由の一つが、教会がマタイ28章18‐20節にしたがって、弟子を作っていない大掛かりな失敗にある、ということです。アメリカには、34万の教会の会衆があります。これらがみな、暗闇の中の霊的な「灯台」でなければいけないはずで、人々がキリストにある安全と避け所を見つけるように手助けしていなければいけません。しかし、私たちの会衆の多くが、その光がかすんでおり、あるいは完全に消し去られています。アメリカの教会が、行くべき道を導いていないのです。あまりにも多くの牧師や指導者が眠っています。私たちは絶対に目を覚まし、健全で、聖い、キリストとの歩みに戻らなければいけません。教会の最大の失敗の一つは健全な弟子を作ってこなかったことにあり、健全な弟子が再生し、霊的に他の健全な弟子を作ることができていないことです。アメリカでは、(霊的に)年齢を経た、賢い、イエスに従う者たちが、若い信者たちの生活に時間とエネルギーを注ぎ込むことを、系統的にしてこなかったのであり、世代から次の世代へ、キリストに似た性質、価値観、訓練を注意深く伝授してきませんでした。アメリカのキリスト教は、マタイ28章18-20節にある、イエス・キリストの大宣教命令に従ってこなかったので、弱体化し、失敗し、霊的復興が最も必要な状態になっています。一部の人たちは従っているのですが、大多数は、すべての国民(自分の国民から始めて)を弟子にしておらず、それらの弟子たちにバプテスマを授け、キリストが教えられた「すべての」ことを従うようにそれらの弟子たちに教えることをせず、世の終わりまで、いつも共におられるというキリストの約束を思い出させて来ませんでした。
【意訳以上】

以上が、ホノルルでの説教ノートの意訳です。

まず、<第三の点>への一言。アメリカ国内だけでなく、日本でもあまりにも多くの人が、これからの世界の行く末を見るときに、この国に注目しています。そして、イスラエルを始めとする中東と周辺諸国が終わりの日の聖書の舞台ですから、本来なら同じぐらいの、いやそれ以上の時間を費やさないといけないのですが、それをやっていません。今日は米国同時多発テロが起こった日であり11月には大統領選が行なわれるのでまたまた注目されていくでしょうが、米国は誰が政治を執り行っても内部破裂は免れない状態であると、私も感じています。

幸いにも、米国はそのような不安と混乱期において、教会の中で大覚醒が起こり、社会全体を変えてしまうほど強力な、御霊の力強い働きがその歴史にありました。ジョエル氏が言っている「第三大覚醒」というのは、二つの大覚醒に続く新たな霊的復興がなければ、今やアメリカに希望は見いだせない、という意味です。同じ先進国であり、世界有数の経済大国である日本も、似た道を歩んでいると感じています。あまりにも大きな課題と問題が山積しており、いつか潰れてしまうではないか、と思います。

そこで<第四の点>の話題に移りますが、日本もアメリカと同じような混沌期に入っていますが、その中で教会はどのような指針を、光として照らすことができるのでしょうか?私はジョエル氏の意見に全く賛成で、一にも二にも「弟子づくり」だと思います。

日本の教会も基本的に、アメリカのキリスト教会の流れの中にあります。それで、教会成長というものを数の大きさによって測る嫌いがあります。韓国も同じなので、韓国から来るキリスト教の影響もあって、人々が教会にどれだけ多く集まるかが、焦点になります。もちろん、救われる人々が加えられる事は神の御心ですからそれ自体はすばらしいことです。しかし、キリストの命令はそうではありませんでした。「弟子とする」ことが命令でした。キリストが教えられたことを教えるのですから、イエス様が弟子たちとどのように過ごされたのか、それを模範にしないといけません。

第一に、弟子づくりは時間がかかります。イエス様が、わからずやの弟子たちにどれだけの時間を費やされたかを思い出してください。けれども日本の教会は、特に大きな所では一度、信仰告白をし、洗礼を受けていると、そのままにされる羊がたくさんいます。教会にいながらにして、迷える羊となっていることがしばしば起こっています。

第二に、生活を共にしています。今日の日本社会は、「個人」ならず「孤人」化しているという指摘があります。けれども、弟子づくりには、イエス様が弟子たちと生活を共にしたように、生活の中でキリストのうちにある自分を他者に伝えることができるのです。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴言27:17)」とあるように、人格と人格の衝突があって初めて、キリストの命令を実践することができます。

第三に、御言葉には体系的に取り組まなければいけません。ある時はこの箇所、またある時はあの箇所、弟子づくりならばこの教材、あのプログラム・・・というように、周辺的な事柄が中心となっています。けれども、イエスは弟子たちに聖書全体からご自分について教えられました。パウロは、エペソの長老たちに、神のご計画の全体を教えました。

そして最後に、実は聖書預言に注目する意義について、かつてデービッド・ホーキングが、チャック・スミス牧師にインタビューしたことがあります。基本的にジョエル氏と同じ事を話しています。

聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その4

(「その3」の続き)

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、ホノルルでの説教を二回行ないましたが、次から二回目に入ります。次のブログ記事が原文です。一回目の説教に基づき、さらに四つの要点を話します。

SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 2

【意訳】
第一に、聖書には、その言葉が、全能で、全てを見る、全てを知る宇宙の神の言葉そのものであることを臆することなく表現されています。数例を挙げましょう。

主は、ヘブル人の預言者イザヤを通してこう言われました。「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。(42:9)

主は、預言者イザヤを通してこうも言われました。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。(44:6-7)

主は、預言者イザヤによってこうも言われました。「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(46:9-10)

使徒ペテロが書きました。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20-21)

主イエス・キリストが言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示22:13)

聖書の神は、他の何ものによっても比べられません。この方はすべてを見ておられます。すべてをご存知です。すべてを覚えておられます。初めであり、終わりであるかたです。アルファであり、オメガです。この方は推測したり、将来に何が起こるかを”予測”したりなさいません。何が起こるか知っておられるのです。驚くべきことに、神は前もって重要な出来事を選んで私たちに知らせることで、私たちが、自分の神がいかにすぐれているかを悟らせようとしています。

第二に、成就した預言は、私たちが神の御言葉が真実であることを知る、最も重要で強力な方法です。例えば、旧約聖書の中に数多くの預言が成就したことを見ます。例えば、神はへブル人預言者エレミヤに、バビロンで七十年間の捕囚の後、イスラエルに帰還することを教えられましたが、それが正確に起こりました。また主は、預言者イザヤに、バビロン捕囚からユダヤ民族を解放する器になるペルシヤ人王の名を、正確に告げられました。その名は「クロス」であり、事実、その名のペルシヤ王がユダヤ人を故郷に戻らせることを助けたのです。さらに、旧約聖書では、メシヤがどのような存在なのか、何を行うのかについての数多くの手がかりを与えられました。そのいくつかを紹介します。

預言者ミカが、メシヤはベツレヘム・エフラテで生まれることを教えました(ミカ5:2)。

ヘブル人預言者イザヤが、メシヤが処女で生まれることを伝えました(イザヤ7:14)。

預言者イザヤが、メシヤは人の男の子、息子として生まれるが、「力ある神」と呼ばれることを教えました(イザヤ9:6)。

預言者イザヤは、メシヤがイスラエルのガリラヤ地方で生き、宣教活動を行うことを告げました(イザヤ9:1‐2)。

預言者ゼカリヤは、メシヤがろばに乗ってエルサレムに入城することを伝えました(ゼカリヤ9:9)。

預言者イザヤは、メシヤが癒しを行なうことを伝えました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)

ダビデ王は、メシヤが悪者たちの一団に取り囲まれ、彼らがメシヤを打ち、虐げ、この方の着物を分け合い、くじ引きにし、その手と足を刺し通し、「死のちりの上に」置くこと、つまり殺すことを預言しました(詩篇22)。

預言者ダニエルは、メシヤが、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」けれどもそれを、紀元70年にエルサレムが破壊され、神殿も破壊される前に「断たれ」る(殺される)ことによって行なわれることを明白に言いました(ダニエル9:24‐26)。

預言者イザヤは、メシヤを苦難の僕として描きました。むち打たれ、虐待を受け、あざけられ、突き通され、最後には、人類の罪のための罪過のいけにえとして殺されます(イザヤ52章13節)から53章。

預言者イザヤは、メシヤが死者の中からよみがえることも明確にしました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53:5,9,10)

預言者ヨナと預言者ホセアをとして、神はメシヤを墓から三日目によみがえらせることを教えられました(ヨナは、三日間魚の腹にいて、地に戻ってきました。ホセア6章2節には、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とあります。

驚くべきことに、主イエス・キリストは、これらの預言をすべて成就されました。事実、ルカ24章25‐27節には、こう書いてあります。「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

【きよきよの一言】
聖書預言は、実に、神が定められた伝道ツールです。初めから終わりのことを告げることによって、ご自身を明らかにしておられます。神を信じないこの世の中において、しばしば創造論による伝道があります。それもすばらしい方法です。実際に、被造物において神の力と永遠のご性質が明らかであるとローマ1章に書いてあります。また、ヨブに対して神は、ご自分の被造物を取り上げながら、ご自身の義と主権を明らかにされました。けれども、それと同じように神は、預言の言葉によってご自身を明らかにしておられることを、御言葉の中で語っておられるのです。

先日、モリエルの学び会に行ってきましたが、モリエルさんは以前、オーストラリア人の伝道師が行なった預言セミナーをまとめて小冊子にして、それを伝道に使ったそうです。確か高校生か、若い女の子に預言の一つ一つの箇所を見せていったそうです。彼女の感想の一声は、「これは、チェルノブイリ事故以後に書かれたものでなければ、絶対におかしい。」とのことでした!そして、二・三千年前に書かれた書物であることを告げると、びっくりたまげたそうです。

そしてイエス様ご自身が、旧約預言の成就そのものであることは言うまでもありません。もっともっと、日本の教会で旧約聖書の通読が強調されなければいけないと思います。そうすることによって、いかに新約の記述が重要な出来事であったのか、その重みを知ることができます。

(「その5」に続く)