「聖書預言の力と目的を再発見する」 その3

(「その2」の続き)

第三に、多くの牧師が預言を教えない理由は、いわゆる「預言気違い」や扇情主義を売りにする者たちと一緒にされたくないという恐れがあるからです。確かに、預言を教えようとする者の中に気違いが存在します。聖書の誤った解釈をしています。間違った結論を下しています。煽り立てます。したがって、自分の評価を落とし、評判を落としています。牧師がこれらの偽教師らを避けるべきであり、こうした方法で神の御言葉を安物にしてしまうようなことを避けるべきであるというのは正しいです。けれども、聖書預言を誤って教える者が一部にいるからと言って、健全な教師がこの話題を避けるのは理屈にかないません。福音書や書簡を誤って教えている者たちもいます。けれども、良い牧者なら、聖書のこれらの書物を正しく教えることを避けたりしません。どのような根拠で、人々を誤りに導いている偽者がいるからという理由で、聖書のすべての巻 ― イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、黙示録等 ― を教えるのを避ける権利を私たちは持っているのでしょうか。使徒パウロはテモテに教えました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、・・・(2テモテ4:2-3)

第四に、多くの牧師が預言を教えないのは、私たちの生きている時代、またキリストの到来がなおいっそうのこと近づいていることに理解が欠けているためであります。同時に、数多くの誠実な牧師の方々がイエス様を愛して、御言葉を愛しているのですが、なぜか私たちが今いる、驚くべき歴史の瞬間に引き付けられていないのです。そして、教会のために主イエス・キリストが戻られることに、人々の心を用意させる、切実な必要に気づいていないのです。これまで以上に、私たちはイッサカルの子らのような牧者たちが必要です。「時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている・・・(1歴代12:32)」これまで以上に、主イエス・キリストの教えに従う牧者たちが必要です。主は、天気予報に取り付かれるのではなく、「今のこの時代」を悟り、自分の世話すべき人々を、キリストとさらに近しく歩み、この方の到来の日がこれまで以上に近づいている今、この方に従順になるよう備えさせるのです。

【きよきよの一言】
<第三の理由>事実、私のところに来て、異端やカルト団体と一緒くたにして挑みかかってきた宣教師に会ったことがあります。そして、米国内の政治状況の中に話を引きずりこもうとしたり、私のことを極端な神学の範疇に入れた牧師もいます。両者に共通していたのは、“不安”です。終末について自分の神学的立場に聖書的確信を得ていないことの裏返しのような気がしました。

しばしば、私を聖書預言の専門家であるかごとく話す人もいますが、それもまた不安から出ているのではないかと思います。ロゴス・ミニストリーで聖書の学びを行なっている人はお気づきですが、聖書の創世記から黙示録まで、そのまま通読の学びをしているだけであり、そこに数多くの預言書があり、そこも抜かさないで教えているだけなのです。ですから私が預言の専門家ではなく、むしろ多くの教師が預言書を避けているという裏返しに他なりません。

興味深いことをある人から聞きました。ある聖書の学び会にその人は参加しましたが、ゼカリヤ書を学び始めたということでした。初めは、「この書と黙示録は関係がない。過去にほとんどが成就した。預言の書として読んではいけない。」ということでした。けれども一節ずつ学んでいったので、学びの後半部分では「終末とキリストの再臨の預言だ。」とさっさと立場を変えて、そう結論づけたのです!そうなんです、初めはキリストの再臨と神の国について何かしらの偏見があるのですが、誠実に、丹念に聖書を読み進めるなら、そういう結論になっていきます。

<第四の理由>これまで、聖書預言に関心の薄い人に欠けている部分が指摘されていましたが、決して間違ってほしくないのは、同じように信じていない方々の中に、主を愛し、御言葉を愛しているすぐれた教師がたくさんいるという事実です。自分たちと同じように信じていないからと言って、何も学ぶところがない、あるいは偽りの教師であるかのようにみなしていくのは、全く同じものさしを自分自身に向けなければいけません。救いは、イエス・キリストを神の子キリストであると信じた人であれば、それで十分なのです。例えば、ユダヤ人にイスラエルの地を与えるという約束を信じていなければ、地獄に行くのではないのです!恵みによる、信仰による救いに、それ以上の条件を付け加えてはいけません!

むしろ私は、同じように信じていない、けれども主を心から愛している方々との交わりをもっと深めさせていただきたいと願っています。御霊に満たされた人々、主を愛する人々との付き合いはこの上もなく楽しいです。終わりの日に生きるキリスト者の特徴は、寛容と柔和であります。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(ピリピ4:5)

(「その4」に続く)

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