生々しい現実と福音の光

 今回の記事は、もっと一般的な「生々しい人間の現実と福音の光」というテーマでお話ししたいと思います。キーワードは、「キリスト者の社会的責任」です。

当事者が聞いている可能性

 私が教会開拓を始めて特に、自分が説教をする時の心構えが変わりました。それは、これまで見聞で得た情報で語ったことが、実はその当事者が会衆の中にいるかもしれないという可能性です。例えば、宮清めをイエスがなされた背後の腐敗した祭司制度を説明する時に、仏教の檀家制度や神社のことを言及したことがあります。すると、「聞いている人に伯父に仏僧がいたので、彼女は傷ついた。謝罪して説教の内容を訂正して欲しい。」という要求が来たことがあります。私はご本人には釈明と必要ならば謝罪もするが、説教の内容自体は変えることはできないと答えました。

 この出来事は今の教会を開拓する前ですが、当事者がいるということを体感した初めての経験でした。

 徐々に、自分が単に知識をまとめて話す聖書教師ではなく、まさに現場にいる人々が神に立ち返るべく呼びかける御霊に応えて語るのだということを感じています。ゆえに、御言葉を曲げて語ってはならないと思っています。実際にそれに該当する人がいるかもしれないと思いつつ、それでも語る逡巡は心に負担がかかり辛いのですが、いや、むしろその負担こそが、預言者が主から与えられた重荷(burden「宣告」と訳されている)なのではないか、と思うのです。

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