第七回目 月浜・牛網旅行 6月21日

20日の夜、私は仲間に五時半起床、六時朝食を告げました。早いのにびっくりしていた人がいましたが、私は、「避難所の人々は通常五時前に起きて、六時には活動を開始していている。就寝が八時だ。彼らの活動に合わせないといけない。」と話しました。

朝、前々回と同じように、宿の部屋で自炊をして、それからデボーションをしました。私は、先週土曜日に説教した出エジプト記2章から、モーセが神の民の苦しみを共にして、エジプトの富や地位を捨て、永遠の報いを求めたことを話しました。救援活動によって、私たちの快適な生活は犠牲を負いますが、けれども、苦しみを共にすることが神の報いの道であることを離しました。

それから、チームを二つに分けました。女性と、運転手の魯先生は昼食の水餃子の具とフルーツの準備を、男性は月浜海岸に向かいました。

水餃子は手軽に作れる料理であり、また皮を包むときに避難所の人たちと一緒にできるという利点があります。そしてフルーツは、前日、避難所の女性たちから、「スイカが食べたい」という声が上がったからです。つまり、水気のある果物(スイカ、メロン、ブドウ等)や野菜(トマト等)に飢えていたみたいです。それで私の妻と魯先生が前日、スーパーマーケットまで車を走らせて買い物をしたのです。

もう一つ、メニューの中に「水キムチ」があります。綾瀬東部教会が作ってくださいました。これは日本の人たちにはあまり知られていませんが、冷たい汁の中に漬物があるという感じのキムチで辛くなく、さっぱりしています。暑くなってきたので、いいんじゃないかと思ったのです。

私たち男性陣が月浜海岸に到着し、そして牛網に宿泊しているカルバリー・ホノルルのマッチョの四人と、宜野湾のチャックさんが到着しました。大木など、砂浜に漂着しているごみをどんどん片付けて行きました。私は、細かいごみを拾い始めました。まだキャップの空いていない炭酸水のペットボトルがたくさん流れ着いていたのに、一本ずつ開けて中身を出したりもしました。

すると二時間ぐらいで、見事に三分の一ぐらいがきれいになりました。私はこの夏いっぱい、ここの海岸の掃除がかかるかなと思っていたので、本当に驚きました。兄弟たちも、「ぜひ残りの部分も終わらせたい。」とやる気満々でした。

11時に月浜避難所に戻り、水餃子の準備をしました。包む作業を避難されている方々にお願いしたら、女性たちがエプロンをして次々と包んでいきます!担当の小野さんが教えてくれましたが、それもそのはず、彼女たちの多くが民宿を経営していた人たちです。宮戸島の人々は民宿と漁業で生計を立てています。私も幼い頃と大人になってから二回、月浜海岸に来ています。

水餃子、水キムチ、フルーツを食べた後に、そこを片付けて、同じテーブルで見城さんと望月さんが同じくカントリー&ゴスペル・コンサートをしてくださいました。そして、さらに木村さんが自宅の掃除に来た女性のボランティアのグループも招いておられました。

私たちが二度に渡って木村宅から刀や着物を取り出した後、木村さんは、残っているものを東松島市を通してボランティアに取り出してもらっていたみたいです。一度、男性のボランティアに来てもらったら整理が雑だったので女性たちを要請したとのこと。そして木村さんは見城さんの音楽がとても気に入っていたので、昼食もゴスペル・コンサートも全部参加させたのです。

私と塩崎さんは、続けてホノルルの人たちと月浜海岸で掃除をしに行こうとしましたが、あいにく雨が降り出しました。それで再び避難所に戻りましたが、見城さんたちによると、じっくり福音を語ったとこと、神に感謝です。そして、私たちはトラビスの要請を受けて牛網避難所に移動しました。

牛網避難所には、カルバリー所沢のマイケルとチャックが醤油チキンを作っていました。山東さんが大まかなのを作り、それから下二郷でも食事を作りに行ったそうです。そして、他の人たちは20日に牛網で奉仕をしていたので、下二郷に移動し、そこで夕食とコンサートをしに行きました。料理だけ作って、私たちがそれを避難所の人たちに出します。

千葉さんが顔を見せてくれましたが、いつもと違って笑顔がありませんでした。ぜひ彼のためにお祈りください!避難所生活がすでに三ヶ月を越しています。多くの避難所で、人々が長い避難生活でいろいろな意味で疲れを覚えています。

けれども、魯先生と私は、塩崎さんと木村さんと、神の救いについての質問応答の時間を過ごし、就寝が午前1時近くになってしまいました!

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