クリスチャンの政治家

先ほど明日の恵比寿バイブルスタディの学びの準備が終わり、ちょっとネットサーフィンで遊んでいました。フェイスブックで「柴橋正直」という民主党議員の方がリンクされていたので、思わず彼のブログを熟読してしまいました。プロテスタントの教会の牧師の息子さんで、そして彼の政治姿勢には非常に共感できるものが数多く、その考えの背後に聖書的価値観が横たわっていることが明言されています。例えば・・・、

TPPに関連して、世界統一の流れは反キリストであると明言

パレスチナ問題について、「パレスチナ問題について、領土問題は当事者同士の話し合いで決めること、エルサレムをパレスチナの首都と認めることは聖書に反すること、イスラエルの安全保障を確保し、イスラエルを孤立化させないことを、総理に提言しました。パレスチナ問題は、旧約聖書の時代から流れている全世界史的課題であり、背景をおさえた上で、欧米や中東諸国と国連で協議してほしいとの思いです。」・・・すごい!

聖書の観点から不信任案を斬る」という題名で、姦淫の現場で捕えられた女の話を取り出し、「東日本大震災を前にして、神の前にも人の前にも100点満点の議員がいるでしょうか?」とのこと。

その他、聖書に関するコメントが多数あり、実際の国会の審議においても質疑において聖書に基づいた個人的信条を語っておられます。(ビデオ

しかし、非常に気になることがありました。神社などの習俗行事に積極的に参加し、実際の儀式にも関わっている記事がかなり多くあったことです。

政治家と宗教行事

実は日本の政治界(実は経済界にも)には、カトリックを含むキリスト教徒は多くいると言われています。「小さな命を守る会」のブログ記事の「この方もクリスチャン」には有名人でクリスチャンだと言われている人たちが登場しますが、保守政党にも革新政党にも議員は結構いますし、実は首相を務めた方にもキリスト教徒は何人かいます。

ここから私が思うことを書きたいと思います。

第一に、この世におけるキリスト者の働きを見るときに、単にその人がクリスチャンだからと言って無条件に支持をしたり、援助すべきではない、ということです。政治家に限らずあらゆる職業にいえることですが、「クリスチャン」だということで「暗黙の甘え」が生じる傾向をこれまで見てきました。

例えば、教会運営のラジオ番組のコマーシャルで聞いた不動産屋さんにお世話になったら騙された、という話を聞きました。私はその人にこう答えました。「世においてきちんとした経営ができないから、クリスチャン相手に行なうのは本末転倒。世における厳しい環境においても、なおのこと実績を持っていることが世の光となる。だから私は、クリスチャンの会社だからという理由でお願いすることはない。未信者でもプロ意識をもってしっかり業務をこなす不動産にお願いしている。」

そして第二に、政治などでその信条や思想はある程度、信仰とは切り離すべきであると私は考えています。同じキリスト者であっても保守と革新がいますし、私は聖書が明言していない事柄については多様な意見があって当然であると考えています。そして、その領域において意見を対立させても、それはキリスト者の分裂であるとか裁き合うという罪にはならないと思っています。むしろ、個々が主にある堅い礼拝と信仰を守っているならば、アウグスチヌスが「神を愛し、そして自分の願うように行ないなさい」と言ったように、恣意的に聖書的世界観を構築しなくても、自然な形でキリストの香りが放たれると信じています。

ですから、あるブログで「日本では保守系政治家とキリスト者は相容れない」と書いていましたが、それはとんでもない話で、自分の政治信条と信仰基準を同列においている僭越的発言だと思っています。

しかし第三に、信仰に関する事柄が直接、政治の領域に触れることがあります。例えば、先に挙げたパレスチナ問題は、単に政治信条に留まらず、個々の信仰者の聖書理解、その神学の深みに関わる問題です。この部分において意見を異にする政治家、経済人、企業家、教育者、その他の職業人がいるならば、それは懸念事項になり、その人を支持するかどうかを決める重要な要素になります。

神社は公式行事なのか?

私がいつも残念に思うのは、「信条や思想」と「信仰」の区別が明白になっていないために、一つの政治信条をクリスチャンはもてないという空気を教会やキリスト教界で造り上げてしまうことです。例えば、改憲がいかにキリスト者として悪しきことか、という空気を作り上げて果たして良いのでしょうか?聖書に軍隊放棄が明確に書かれていることなのでしょうか?そして、自衛隊など国防に関わっている人がそのような意見を聞いたときに、心を痛めるのでは?という余裕は持たないのでしょうか?私たちはキリストのゆえに、自分の信条に思っていることさえ横に置くことを命じられています。

しかし、政治家に関わらず「神道などの宗教行事に公の人が関わる」ということが、革新的な考えを持っている人が「政教分離違反」として批判する前に、キリスト者としていかがなものか?ということを真剣に考えなければいけないと思います。

聖書はこの領域において、具体的に立ち入った模範を置いています。ダニエルとその友人三人です。彼らは公人でした。友人三人は、権力集中のためにネブカデネザルが造り上げた金の像を拝むことを拒みました。ダニエル自身は、メディヤの王ダリヨス以外に祈願する者は獅子の穴に投げ込まれるという勅令を知りながら、いつもと同じようにエルサレムに向かっている窓を開けて、感謝をささげ、願いを立てていました。

彼らが異教の国バビロンやメディヤで、反抗的な態度を取っていたかというとその正反対であり、極めて忠実な僕であり、非の打ち所がないほどだったことが知られています。単に「政教分離」の問題で反対運動することがキリスト者の態度では決してなく、むしろ指導者に対して敬意を払い、あらゆる事柄で指導者を支えていたのです。

けれども、自らの信仰と公の部分が触れる時が来ます。その時は信仰の良心を優先させます。そしてダニエル書には偶像礼拝との関わりが述べられており、日本の伝統や文化を守るという題目で神道的・仏教的儀式に関わることがいかに深刻な問題であるかはぜひ考えていただきたいものです。

私はこのことで正直悩んでいます。なぜこうも妥協してしまう公人が多いのだろう?ということで悩みます。かつてブッシュ大統領が明治神宮参拝をした時に、私は国務省やアメリカ大使館に懸念表明の手紙を書いてくれとアメリカのクリスチャンに要請したところ、逆に批判をする人々がいました。しかしその後にどんどん明らかになってきたのは、ブッシュ大統領は「イスラム教も、キリスト教も同じ神を礼拝している。」「私は聖書を文字通り信じている者ではない。」というような発言が出てきて、彼はマスコミや日本のキリスト教会で信じられてきたような「原理主義キリスト教徒(?)」とはかけ離れていた信仰を持っていたことが明らかにされています。

その時にこうした行為を正当化するために、見事に同じ箇所を引用するのですが、ナアマンが回心した後にエリシャに尋ねた言葉です。

主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。(2列王記5:18)

興味深いのは、エリシャはそれを認めた訳ではないことです。ただ「安心して行きなさい。」と言ったのみです。そして彼の主君のアラムの王は家臣ハザエルによって殺されているのです(2列王8章)。つまり、その儀式に関わらなくてもよい状況を主が備えてくださった、という見方のほうが可能性としては大きいのです。(信仰を持ったばかりのナアマンのことを取り上げてキリスト者政治家の異教儀式への参加を正当化すること自体、私はけしからんと思いますが。)
 
公の空間に働いている圧力というのは、私の想像を超えてはるかに大きいのだと思います。ですから、私もその人々を強く指差せば、姦淫の現場の女を裁こうとしたパリサイ派の人たちと同じ過ちを犯すことになります。といっても、同時に軽々しい妥協は、神社参拝などの儀式にキリスト者としての良心のゆえに投獄された、また殉教したという過去のキリスト者が流した血を踏みにじる行為であり、決して看過できぬことであります。

参考記事:
何を予期すべきか?」(美濃ミッション事件:子弟の神社参拝拒否が全国紙の一面で取り上げられ、一般人による排撃運動に発展しました。)
靖国神社参拝について その3」(ホーリネス弾圧事件を取り扱っています。)
このくにで主に従う」(「日本的なもの」と「キリストの福音」の衝突を詳述する良書)

この頃、「神道」が「宗教」ではなく「文化や伝統」という中に押し込められていくこと、さらには「キリスト教が源流」という“埋没”へと向かっていく流れを、私は不気味に感じ取っています。福音の真理に妥協しない覚悟が必要です。