世界一評判の良い国 ― 日本 その2

(「その1」からの続き)

1パーセント未満は神の御心

そして日本のキリスト者、キリスト教会が陥っている「否定的認識」があります。それは、「人口の一パーセント未満しか信仰を持っていない」ということを、自分たちのせいにすることです。どうして人々が信仰を持つことができないのだろう?ということを、自分たちの祈りが足りないのだとか、伝道が足りないのだとか、決め付けるのでしょうか?はたまた以前は、「天皇制を積極的に受け入れていないからだ」またその反対に「天皇制を否定していなかった」「偶像を捨てていないからだ」とか、言っていました。

私は、祈ることも、伝道することも、また偶像を捨てることもみなしなければいけないことだと思っています。しかし、それをしていないから「1パーセント未満」ではないのです。これを言ったら、私はほとんどのキリスト者を敵に回すでしょう、けれども誤解を恐れずに言います。「1パーセント未満なのは、神の御心である。」パロは、自分の心を強情にして、神の命令を聞き入れませんでした。しかしそのパロに対して、「神はパロの心をかたくなにされた」とあるのです。同じように、1パーセント未満という状態に、神の主権を認めなければいけません。

神の主権について、キリスト者の認識が非常に甘すぎます。神がかたくなにされるというのは、「私たちが心を開きたいのに、神が無理強いして心を閉ざすようにしむけておられる。」という類のものではないのです。「神の御心」と聞くときに、それを宿命や運命として捉えるのは間違っているのです。ヨナは、アッシリヤの首都ニネベに対して、「もう四十日もすると、ニネベは滅ぼされる。」と宣告しました。けれども王を始め、国民が彼らなりに必死になって悔い改めました。すると、神は「思い直してあわれみ」、四十日が過ぎても災いはその町に下らなかったのです。

エゼキエル書18章が、神の御心の性質を知ることのできる極めて重要な章です。ぜひその章全体を読んでみてください。(良ければメッセージ原稿を参照してください。)私たちの神の御心についての認識が、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(2節)」と同じになっている場合が多いです。そうではありません、神がどれほどはっきりと、「わたしは裁く」と宣告されても、もし悔い改めて主に立ち上がるなら、その瞬間に裁きの手を引かれるのです。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23節)」その反対に、正しいとされた者でも、宿命的に義とされるのではありません。これまでどんなに正しいことを行なっても、今、悪の中にとどまっているのならば、その悪のゆえにその人は滅びるのです。

神の御心や主権は、占いのような宿命的なものではありません。では何なのか?それは、「分からない」という定義なのです!私たちの理解を超えたところにある神のご計画、摂理と定義できるのです。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)」

私たちは、1パーセント未満という少ない信仰率だから、一生懸命祈るのではありません。少ないから伝道するのではありません。そうではなく、「愛しているから」祈るのです。「愛しているから」伝道するのです。神に愛されて、それで神を愛しているから祈ります。そして、その愛に満たされ、あふれるから伝道するのです。ただキリストの愛によって、私たちは熱心になることができます。祈りが足りない、伝道が足りないのは、その愛が欠如しているからであっても、1パーセント未満のクリスチャン人口を増せていない原因ではないのです。ここに神の主権があります。

ですから、1パーセント未満という実態によって私たちは卑下する必要が全くありません。むしろ、これを幸いに思ってください。喜んでください!こんな過激な発言をしていいのか、と思われる方はマタイによる福音書5章12節を読んでください。日本は基本的に、信仰の自由が認められていない国としての歴史を持っています。キリシタンの時代から今に至るまで、信教の自由が認められたのは戦後のわずかな期間ですが、それでもキリシタン撲滅のために作られた檀家制度によって、未だに日本の人たちは縛られています。政治的に、法的には自由を持っていますが、社会的には極めて制約の多い日本において、それでも信仰を持つことが許されているというのは幸いなのです。

清教徒から始まり、ユダヤ・キリスト教価値観によって成り立っている米国と、共産党による一党独裁の中国では、その中にいるキリスト者はどちらが幸せでしょうか?後者が持っていない大きな制約を前者は持っています。「自由」を乱用してしまう危険、「物質」の豊かさによる霊的危機、それらに屈してはいけないという意思決定を絶えず行わなければいけないという制約です。それに対して、神の主権によって、これらのことから中国のキリスト者はある程度守られているのです(このごろの経済発展によって、同じ危険は怒涛のごとく押し寄せはいますが)。

半分近くがクリスチャンになったのではないかと言われている韓国と、日本はいかがでしょうか?韓国のキリスト者のほうから声があがるでしょう、「私たちの国の教会には深刻な問題が山積している。」私も韓国にはよく訪れるほうですが、キリスト教会がたくさんあるからかえって、福音や御言葉を伝えることのできないという制約があります。人々の心にすでにキリスト教会のイメージが定着しており、その多くが否定的なイメージなのです。日本人に福音を伝えても、白紙のところにイエス・キリストの話を聞いてもらえるという「自由」があります。なかなか伝わらないという苦悩はありますが、すでに出来上がっている既成概念を打ち壊すのは並大抵のことではありません。

その3に続く)

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