天皇の即位礼とキリスト者の姿勢

 今年、2019年は、元号が平成から令和へと替わり、国全体が少し和み、喜び、慰めを受けているような感じがします。素直に、そのことに私個人も喜んでいます。

 そして、皇位継承のための儀式がこんなにも数多く、詳細で、期間をかけるものなのか、そして盛大なものなのか、ということに改めて驚いています。また、昭和から平成に移行した時に比べると、平成から令和に移った今回のほうが、もっと和やかで、落ち着いており、素直に国民が喜んでいるような気がしています。世情が暗いこと、また災難が多いことを思うと、一時の和みです。

 キリスト者として、一連の皇位継承の儀式をどうみているのか?を私個人の想いを本記事に書かせていただきます。

「王を敬え」という命令

 キリスト者として、素直に、喜び申し上げたい思いを持っています。私は、以下のキリスト者オピニオン・サイトの論説委員の一人でもありますが、同じ思いを共有しています。

「今上天皇陛下の「即位礼正殿の儀」をお祝いし、心よりお喜び申し上げます。」

 聖書的にも、歴史的にも、そして世界的には、教会は、上に立てられた権威を尊敬してきました。

 パウロは、エペソで牧会していたテモテに対してこう教えました。「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。(Ⅰテモテ2:1-2)」続けて読んでいくと、そのような祈りは、救い主なる神の前で喜ばれ、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを願われているとあります。つまり、全ての人のために祈り、王たちと高い地位にいる全ての人のために祈ることは、人々への救いにつながり、福音宣教者としてふさわしいことであると、教えているのです。

 教会として、牧会者として、これはそのまま受け入れるに値する命令であると受けとめています。

 さらに、ペテロは、迫害下にあるキリスト者を励ますために第一の手紙を書いていますが、こう言っています。

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。(2:13-17)」

 主が地上におられた時、またその後も、ローマは、皇帝を神とし、皇帝礼拝も国民宗教としてその住民に課す、帝政でした。しかし、主イエスご自身は、皇帝も総督も、反抗したことはなく、むしろその権威を認めておられました。そして使徒たちは、皇帝礼拝のゆえ、キリスト者が礼拝行為はできないとのことで迫害を受けていても、それでもなお、王を敬い、総督に従うように教えていました。反政府的行動、暴力的行動を戒めていたのです。

 歴史的にはどうだったでしょうか?ユダヤ人は、ローマに対して反抗的でした。熱心党率いるユダヤ反乱が二度起こりましたが、イエスを信じるユダヤ人は、第一次反乱において、エルサレム包囲が一時解除された時に、主が前もって命じておられたように、一目散のユダヤ地方から逃げました。第二次の時、バル・コクバがメシアだとすることはできず、その反乱から手を引きました。

 キリスト者に対しては、皇帝ネロの時代から組織的な迫害が起こり、それは断続的に二百年ぐらいかけて起こり、ついにミラノ勅令(313年)において、キリスト教が公認されるに至りました。その間、キリスト者は皇帝礼拝を拒んだものの、反政府的姿勢は見せず、むしろ敬い、また人々が嫌がるようなこと(疫病の時に、果敢に他宗教の人も含めて看病していった)なことも積極的に行い、それゆえ、弾圧し、根絶する根拠をローマは失ってしまい、それでローマ中にキリスト者が増え広がったのです。

 世界的には、どうでしょうか?政府としては世俗、あるいは他宗教を国教に掲げている国々は多数あります。キリスト教会が政府に対して反対を表明したりするのは、「教会における礼拝の自由」に介入してくるのみです。例えば、中国の教会は、公認も、非公認も、政府が共産党政権だということで批判したり、反対したりすることはありませんでした。むしろ、彼らは一貫して、政治指導者たちのために執り成しをしていました。最近の弾圧において、礼拝に対して直接介入していたので、教会指導者たちが信仰的抵抗をすることを表明しましたが、それは極めてまれであり、一時的です。その抵抗の表明でさえも、「共産党は反キリスト教だ、だから倒れるべきだ」ということを決して言わず、むしろ、神の立てられた権威として尊重し、受け入れています。(参考記事

 政教分離のされていない、イスラム原理主義の国イランでも、イランの地下教会は、反政府運動に加担していません。ブータンは仏教国であり、君主制ですが、そこのクリスチャンは迫害をされていましたが、反政府的なことはしていません。インドは今、ヒンズー教民族主義の政権になっており、かつてない迫害をクリスチャンは受けていますが、政治指導者たちのために執り成しても、反政府的な行動はとっていません。

 やはり、主ご自身の権威に対する敬い、使徒たちの教えを遵守しているのが、世界における標準的な教会の姿です。

 ですから、たとえ天皇家と皇位継承に関わる儀式が、神道に深く根差すものであっても、それが日本国憲法にも定められている象徴としての天皇を否定する根拠とはなりません。上の使徒たちの言葉のように、それが異教であったとしても、明らかに創造主ご自身の立てられた権威であり、神から来ているものであるからです。

参照記事:「指導者への執り成し - 安倍首相のために祈る

聖書信仰者だからこそ見えて来る意義

 神道は、明らかに、創造主ではなく、被造物に畏敬と祈りを向ける異教であり、キリスト者としてはそれに関わることは偶像礼拝に当たる罪とされています。しかしながら、私は、即位礼正殿の儀においても、その後の大嘗祭においても、聖書を学んでいる身として驚くことがあります。それは、「王なるキリストの祭儀」を連想するようなものが多いからです。

 キリスト者と教会にとって「礼拝」こそが中心であり、私たちは礼拝を中心にして生きていると言っても過言ではないですが、はたして「礼拝」の意味を実感をもって行えているか?というと、どうしても、目に見えない神を、その御言葉をもって、また霊をもって礼拝しているために、具体的なものとしては実感が分からないというのが実情だと思います。

 けれども、私がアメリカで聖書教育と牧会訓練を受けていた時に、タイからの移民の兄弟が、「王に拝する」ことについて、タイにおける王に対する国民の敬いを例ととって、拝するとは何であるかを説教の中で語っていたのを鮮明に覚えています。天皇陛下に対して、タイの国王に対するような国民の敬いは、正直、ないと思いました。ヨルダンに行った時もそうでしたが、そこはイスラム教の国であるにもかかわらず、国王に対する尊敬は非常に大きいものでした。どうしても、「民主主義」の中に生きている日本国民は、現憲法の中に天皇が国民統合の象徴として規定されていることに、普段は実感が湧かないのではないでしょうか。

 しかし、即位に関わるの一連の儀式を見て、驚きを持って眺めていました。即位礼正殿の儀において、高御座の中におられる天皇陛下に対して、首相が万歳三唱する姿は、キリストがエルサレムに再臨され、そこに神殿が再建され、その中に入られて、王としてあがめられる預言の幻を思い出しました。

終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。(イザヤ2:2-4)」

万軍の【主】はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、【主】の神殿を建てる。彼が【主】の神殿を建て、彼が威光を帯び、王座に就いて支配する。その王座の傍らに一人の祭司がいて、二人の間には、平和の計画がある。(ゼカリヤ6:12-13)」

 政治における最高責任者をして、万歳として王を称えるのですから、王の王、主の主であられるキリストを思い起こさせ、さらに、即位式には政界中からの要職に就かれている人々が出席している姿も、世界の諸国がエルサレムの神の家に参拝に行くところに似ています。

 キリストは王であられ、かつ祭司であられますが、即位礼正殿の儀においては王としての認知が、そして次の大嘗祭では祭司としての務めを思い起こさせるものです。

 大嘗祭については、それが本質的に収穫祭であり、イスラエルの秋の祭りを思い起こされるものです。その建物が大嘗祭のためだけに建てられ、終われば取り壊されますが、荒野における旅で、主は、モーセに対してご自分の住まわれる幕屋を建てなさいと命じられました。それは、建てて、また取り外して移動し、運搬できるものでした。さらに、その儀式は誰にも見えないところで行われる秘儀であり、そこで神と会食するという「食べる」行為であることも、とても似ています。

その穀物のささげ物の残りはアロンとその子らのものとなる。それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものである。(レビ2:3)」

 ですから、私は、説教においても、王であり祭司であるキリストがおられること、そして私たちはキリストに仕える祭司であることを教える時に、今回の即位礼について少し言及しましたし、私たちの主がどのような方なのか、そして私たちの祭司としての使命は何なのかを、思い起こす良き教材なのではないか?と思いました。

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(ヘブル7:25)」

決定的に違う点

 しかし、当然ながら、天皇の即位礼とキリストの即位が同じというものでは、全く違います。キリスト者にとっては、まことの王、まことの祭司を写し出す例であっても、実物ではないからです。

 そもそも、異教においての祭儀の制度には、イスラエルに与えられた神の祭儀と、その強弱の差こそあれ似ている面があります。神はむしろ、人々の間で受け入れられている祭儀と、全く無関係の中でご自身を現されたのではなく、関連性を持たせて、それで、「わたしこそが神であり、主である」とご自身を証しされるのです。被造物の例を使って、ご自身を証しされるので、自ずと類似性、共通の面は出てきます。

 私は、去年と今年、トルコ旅行に行きましたが、当時は世界中に名が知れていたエペソのアルテミス神殿の跡地で、その神殿礼拝の話を聞きましたが、やはり、エルサレムの神殿と似た面があります。エペソの人たちが、手紙をパウロから受け取って、「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。(2:21)」という言葉を読んだ時に、エルサレムにある神殿よりも、アルテミス神殿のことを思い出したのではないか?とも推察できます。けれども、彼らはイスラエルに与えられた契約にキリストにあってつなげられた者たちでもあり(2:11-19)、ゆえにエルサレムの神殿のことを思っていた可能性も大きいです。つまり、「全く異なるのだが、共通している部分がある」からこそ語ることのできた話なのです。

 偶像というのは、まことの神の代替です。まことの神をあがめるのではなく、他のものをあがめるのです。神道においては、「森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する」のであり、被造物に創造主の栄光が現れているのに、その被造物をあがめている、ということになります。

参考記事:「神道を摂取する宣教?

 まことの神は、どれだけ大きい方なのか?そして、それを被造物に混ぜ合わせることがいかに虚しいことか、イザヤという預言者が雄弁に語っています。

だれが手のひらで水を量り、手の幅で天を測り、地のちりを升に盛り、山々を天秤で量ったのか。もろもろの丘を秤で。だれが【主】の霊を推し量り、主の助言者として主に教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。見よ。国々は手桶の一しずく、秤の上のごみのように見なされる。見よ。主は島々をちりのように取り上げる。レバノンも、薪にするには足りない。その獣も、全焼のささげ物にするには足りない。すべての国々も主の前では無いに等しく、主には、空しく何もないものと見なされる。(40:12-17)」

 そして、聖書におけるイスラエルの祭儀と、天皇の執り行う祭儀の決定的な違いがあります。後者には「律法がない」ということです。聖書にはトーラ(律法)があってこその神とのつながりであり、その祭儀も神の命令に基づくものです。

 そして最も決定的なものは、「血が流されていない」ということです。聖書はアダムに対して神が命令を出し、その命令に違反したので「罪」が世界に入ったとしています。そこで、神に近づく時に、羊などのいけにえを献げ始め、神と人との契約には、いけにえの流す血が伴っています。

 アロンとその子孫の行う祭儀の中心は、肉や穀物を食するということもありますが、それ以上に、いけにえを屠り、血を流し、祭壇に振りかけ、それを火で焼くというものがあります。油が彼自身にも注がれ、また血もあてがわれ、至る所に血があります。民の汚れを清める祭儀である、「宥めの日(贖罪日)」がレビ記16,23章に書かれていますが、それは、大祭司が至聖所に「血」を携え、契約の箱の上にある宥めの蓋に振りかけるのです。

 表面的には、形としては、イスラエルに与えられた祭儀に似ていますが、中身をほんの少しでも掘り下げるならば、神道の中では「穢れを清める」としても、全く異なる姿が表れています。

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)」

 ゆえに、キリスト教会は、血の流されたキリストの御名をほめたたえ、礼拝において、その方の裂かれた肉と流された血を思い起こすために、パンとぶどう酒にあずかります。

「日本がすごい」ではなく、キリスト!

 しかし、古代神道とイスラエルの祭儀の類似点を見つけて、日本民族に特別な意味を持たせることを、日本のキリスト教会の一部にあります。(例)実は、それは戦前から続いてきたもので、一時、リバイバルが起こったホーリネス運動でもそのような動きが出て来てしまったために、分裂してしまいました。

 私は、創造主は日本を造られ、愛しておられて、日本で生を受けたことをこの神に感謝し、先祖にも感謝していますし、我が国を誇りに思っています。天皇家も、神の配剤の中で今日にまで連綿と続いてきたと思っています。(参照記事:「美しい日本、美しい血潮」)

 しかし、そういった自然に与えられた神の賜物と、選びによって与えられた特別な賜物を混同させてはいけません。日本であっても何であっても、キリスト以外のものに誇りを持てば、キリストの体を壊し、世に対しても良き証しとはなりません。

 日ユ同祖論というものがあり、「日本人のルーツはユダヤにある」とするのですが、その根っこにある考えは、「日本民族に対する誇り」なのです。今、話したように神から自然に与えられた賜物としての誇りではなく、それ以上の誇りです。

 かつて、その動きに傾倒し、神社参拝までもした方が、それはキリスト者として間違いだと悟って、悔い改め(思い直し)られた方のブログ記事があります。

私が神社参拝をやめた理由

 彼は聖書に向き合ったことによって、神への信頼が回復したと言っておられます。そして最後の段落でこう言っておられますが、私も全面的に同意です。

「古代にキリスト教が日本に伝わり、神道の元になった可能性までは否定しない。しかし仮にそれが事実だとしても、今の神道は聖書の教えとは似ても似つかない多神教に変質している。日本の民族精神を成す文化として尊ぶべき側面、グレーゾーンの要素はあるだろう。だが神社参拝のような直接的な宗教行為は、やはり「偶像礼拝」としてクリスチャンは避けるべきだと今は考える。」

 尊ぶべきであるが、それ以上のものではないこと。グレーゾーンの部分もあること。ましてや直接的な宗教行為に関わることは、キリスト者としては避けるべきであるという立場です。

 そして同じ兄弟が、日ユ同祖論の本質は「血統」ではないことをずばり書いておられます。

「十部族は失われていない」は日ユ同祖論否定の根拠にならない

「日本人はむしろ、独立した一異邦人として謙虚に身をわきまえるべきである。・・・日ユ同祖論は、自分たちを「イスラエルの子孫」と見なすことで、本来受ける資格のない「契約の民」としての祝福を我が物にしようとする高慢な思想である。ともすれば、本来の「契約の民」であるユダヤ人をその地位から追放し、自らがそれにとって変わろうとする危険性さえある。」

 自分は日ユ同祖論者ではないと言い張る人々にも、私たちの希望が、何か民族に依拠したものであるかのように語っていることについては、結局、同じなのです。しかし、そうした恵みや祝福から外されているとされている者が、ただキリストによって近づけられた、とする「恵み」にあるということです。イエス様が、娘が悪霊につかれたカナン人の女に、きっぱりとイスラエルの子ではないから断れられた時に、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言い、イエス様はその「信仰」を立派だとして、娘を癒されたのです。ここに救いがあります。

 これまでの宣教が、日本人があたかも欧米の宗教を受け入れ、日本人性を捨ててしまうかのように見られていたという反省がありますが、その反動で、日本人であるというところに、何らかの救いの可能性があるかのような誘導は、パウロがまさにガラテヤ書で話していた「肉を誇る」ことになります。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。(ガラテヤ6:14)」

「なおさら」の中で生きているキリスト者

 しかしながら、天皇陛下の国民への祈り、平和への思い、国民を統合する象徴の力には、驚かされます。そこでキリスト者として、恥じ入る思いになりました。キリスト者は、天皇陛下のように執り成しているのか?様々な考えや利己的な思いが渦巻く日本社会ですが、その中に会っても、言葉を選ばれて、人々に安寧をもたらすべく祈りの言葉を語られる姿を見て、私たちキリスト者は、一般の方々に、どれだけ平和をもたらしているのだろうか?と思わされます。ややもすると、世の対立や争いと変わりないことをやっていないか?世の一部のようになってしまっていることはないか?政治について批判するけれども、どれだけ寄り添って「執り成して祈っている」だろうか?と思わされます。

 私たちは、キリストにある祭司として召されています。キリストが偉大な大祭司であられ、この方に仕える私たちも祭司です。祭司とは、神と人をつなぐ仲介者ですが、どれだけ私たちが、人々の弱さや痛みに寄り添い、キリストとの橋渡しをしているだろうか?と反省させられます。

 本来なら、「なおさらのこと」とならなければいけないのです。イエス様は何度となく、卑近な例を取り上げられました。悪い父でさえ、魚がほしいと言っているのに、蛇を与えることないけれども、なおさらのこと、天の父は求める者たちに聖霊を下さる、と言われました。時に対極にある存在を譬えとして使われます、不正の管理人です。不正の管理人はこの世のことに抜け目がないのに、御国の管理人は、富のことで、御国のために抜け目なく管理しているか?という問いです。

 ですから、「天皇陛下がこれほどまでに執り成し、祭司的働きを国民に対して行われているのに、キリストに祭司また王として召された私たちが、なおさらのこと、誠実に神に仕えているだろうか?」と問わなければいけないのでしょう。

参照説教:「Ⅰ歴代誌9章35節~12章40節「主 (ヤハウェ) に召された者が問われる誠実さ」

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。(Ⅰペテロ2:9)」

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