キリスト教は、欧米のものではない

<キリスト教は、聖書的にも、世界的にも、欧米のものではない>
(7月18日にフェイスブックに投稿)

 キリスト教文化や文明と、実際のキリスト教の信仰とは、大きな開きがあります。日本では、どうしても「欧米のものを取り入れる」というものが、根底に人々の思いにあるので、それにともなう質問が大半です。なぜ、戦争をするのですか?とか、またプロテスタントとカトリックの違いは?とか。また、逆にアメリカの文化として受容するけれども、それ以上ではない場合が多いです。教会の英会話教室やゴスペル教室にはいくけれども、深入りはしないとか。

 けれども、聖書的には、その舞台は中東とその周辺です。「近東」とも言われますね。これは西欧を中心軸にした言い方ですけれども、あくまでも「東方」にあるとしています。文科省はいつしか、地理の教科書は「西アジア」に言い換えました。

 そして世界的には、戦後の趨勢として、圧倒的にアフリカ大陸です。また、アジア大陸も多数のキリスト者を有しています。お隣の国、韓国はキリスト者の多さは知られるようになっていますし、中国はアメリカのキリスト者よりも多くの信者がいるのではないか?とも言われるほどです。(最近の習近平体制での弾圧は、あまりにもキリスト者が多いことへの恐れから来ていると言われます。)迫害を受けながらも信者が爆発的に増えているイランなど、中東にも信仰を持つ人々が出て来ています。

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 アメリカで聖書教育を受け、ヒッピー運動の時に若者が信仰を持って行った人々が教会の指導者となっているところで教会生活を送った者として、「文化や文明としては、確かにキリスト教だが、しかし聖書の世界とは、かけ離れたものがある。むしろ非西欧やアジアに親和性のある面がある。」というのが実感です。特に、ここ最近はその思いを強くしています。

 日本は、戦後、敗戦のためアメリカの強い影響を受けながら生きてきました。そのため、その影響の中での情報が多数、入ってくるので、外の情報が見えにくいのかもしれません。

Undule commends Chakwera for turning to prayer on Covid-19 crisis

 シェア元の記事は、マラウイの新しい大統領ラツルス・チャクウェラ氏が、コロナの流行のために、国民に祈りと断食を呼びかけているものです。チャクウェラ大統領は牧師でした。かつて福音派の教団である「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」の代表者も務めたことがあります。前回のノーベル平和賞受賞者は、エチオピアのアビィ・アハメド首相であり、彼も、福音派の教会で説教をするぐらいの、熱心なキリスト者です。

 なぜ、文化や文明としてのキリスト教と、信仰が違うと言えるのか?これは、キリスト教と呼ばれるようになったのが、ヨーロッパに伝えられるようになったからです。

 聖書の舞台はあくまでもイスラエルとその周辺だったのが、時はローマ帝国、ギリシア文化が濃厚に残っていた時期です。我々人間の罪と咎のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスが、ユダヤ人のためだけでなく、世界の人々のためなのだということが明らかになった時、積極的にその世界の人々に伝えるようになりました。それで今のトルコに伝わり、さらに今のギリシアへと伝えられました。そして、世界の中心であったローマにまで達します。

 ローマは多神教ですから、一神教の彼らは迫害を受けます。けれども、疫病が流行した時に恐れて逃げるどころか、果敢に治療に当たったなど、その行いを見て、人々がさらに信頼を寄せ、信じていきます。そしてついに、ローマの皇帝が信じ、その後の皇帝は大きくなったキリスト者の存在を利用して、国の権力と体制の中に信仰を取り入れたのです。それが、いわゆる世間で言われる「キリスト教」の始まります。政治や国の体制としてのキリスト教です。

 けれどもヨーロッパにも、聖書の考えとは相いれないギリシャ思想や、ローマの土着の宗教がありました。このような人々に分かり易く伝えるために、いろいろな文脈化が行われました。その名残が色濃く、ローマ・カトリック教会には残っており、そこから派生したプロテスタントにも残っています。そして、宣教師たちがアジアや日本に来て、伝えてきたので、初めて聞いた人々は、「これがキリスト教なのだ」という思いを強くします。

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 けれども、キリスト教は聖書が経典であり、これに基づいて生きているので、信仰は西洋のものに全く囚われずに、自由に持つことができるのです。日本の伝統芸能を重んじるキリスト者もいますし(キリスト教信仰と全く矛盾しません)、元旦には教会で礼拝を行いますし、ある牧師さんは、袴を着て、尺八で讃美歌を吹いたりします。

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 要は、キリスト教信仰は世界に通ずるものであり、それぞれの文化に定着するものであり、多様であり、終わりの日、神の国が到来する時は、あらゆる国々、民族、言語の人々が共に、神とキリストを賛美している幻が、聖書に啓示されています。

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