「イスラム教再考 ― 18億人が信仰する世界宗教の実相」(飯山陽 著)

 イスラム思想研究者、飯山陽さん著による、今年3月に出版された本書を完読しました。彼女の本は、「イスラムの論理」「イスラム2.0」と読んでいて、その続きと言ってもよいのが、本書です。ぜひ、以前の書評記事をお読みください。

「イスラム教の論理」読後感想 & キリスト教とイスラム教

「イスラム2.0」(飯山陽 著)書評 - キリスト教との関連から

 彼女の問題意識、イスラム思想の研究者としての資質、論理の明晰さなど、私は長いこと共鳴している一人です。今回の著書は、私自身は興味のなかった、日本のイスラム学界や言論人に対する、身勝手な彼らの「イスラム」像と、実際のイスラムを比較対比です。

 そしてもう一つ、過激イスラムを結局擁護し、共闘しているポリコレや多文化主義が、世界共産主義と同じような、現代社会における世界的脅威であるという危機感を論じているところが、本書の新しい試みです。その被害が大きく出ているのは、西欧社会です。フランスのマクロン大統領が、イスラム主義との戦いを宣言したニュースは、私には新鮮でしたが、そのことも本書で取り扱われています。

飯山陽さんのイスラムの紹介は
イスラエルやキリスト教の世界宣教の専門家のそれと一致

 私は、イスラム教そのものを学問としても学んだことがありませんが、イスラエルへの関心と、キリスト教の世界宣教から、イスラム教の世界を意識してきました。

 イスラエルについては、イスラム主義による、対イスラエル、対ユダヤ人テロが多発しているため、諜報関係者や専門家の意見をずっと見てきました。また、世界のキリスト者に対する迫害の筆頭はイスラム教の国々におけるものであり、かつ急増しているイスラム教徒に対する、福音宣教は、目下、キリスト教の宣教者の情熱の大きな一つとなっています。

 その中で、論じられているイスラム教、定説になっていることを、そのまま日本語で言い表しているというのが、私がいつも飯山さんの著書と、数々の意見主張の中で抱く感想です。

 イスラム教について、権威と言われる人々の話と全く変わりません。そして、世界宣教として、イスラム教とは何かを教える、キリスト者の神学校教授なども同じことを話してます。そして、イスラム教の国々にいるキリスト者の兄弟たちとも交わると、同じ話が出て来るのです。

 日本語としては、飯山さんの前に、本書でも何度となく言及されている、池内恵教授の著書が最初に目にしたものでした。いくつかの書を読みましたが、「現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義」(きよきよの書評)が、初めに手にした書であり、新鮮でした。そこにある教義、つまり、教えに焦点が表されていて、果敢にも終末論にふれ、それからオカルト的言説もはびこっているアラブ社会の姿を、よくもまあ、お書きになってくれたと思ったものです。

「イスラムの論理」→「イスラム2.0」→「イスラム教再考」と読む必要あり

 飯山さんの「イスラムの論理」は、それこそ「論理」をじっくりと辿っており、そのまま提示しているという感じです。日本人に受けをよくするためなのか、事実を変えてしまうという傾向は、キリスト教について論評している日本語の書籍には多々あるのですが、本書には、イスラム教について、そのような勝手な解釈が全くない、そのまんまを書いています。して「イスラム2.0」は、それがインターネットによって急速に原理主義化が拡散している現象を述べています。

 そして、「イスラム教再考 ― 18億人が信仰する世界宗教の実相」でありますが、正直、イスラム教の中身については、既知の内容なので驚きはしませんでしたが、よくもまあ、イスラム教の専門家と言われる人々が、どれほど無責任なことを言っているのか、驚きあきれ果てました。

 それよりも、私が生きている時代は、悪を善とし、善を悪とする、ポリコレの時代、道徳相対主義の時代に生きていて、イスラム主義が日本にも押し寄せる危険が現実のものとなっています。ポリコレ、道徳相対主義がいかに危険な流れか、信仰の言葉を使わせていただくと、「反キリスト的」であるかを、その危機感を改めて抱きました。

参考ブログ記事:「「悪を善、善を悪とする」時代

 ポリコレ、キャンセルカルチャー、文化マルクス主義とも呼ばれる流れは、悪を悪だということを言うことを、悪だとすることによって、言論を封殺し、悪をはびこらせ、支配するがままにさせ、加担するという流れがあります。自由社会の中に紛れ込む、異端分子と呼んでよいでしょう。しかし今、その異端分子が主流にまで広がっています。

良い知らせ:イスラム教発祥の国では、イスラム主義に抗う

 あと、話を戻しますと、絶望的にしか見えなかったイスラム教の社会ですが、去年、イスラエルとのアブラハム合意に至ったイスラム教の国々などには、イスラムそのものの穏健化、近代化の努力が行われていることは、本当に感動で、新鮮であります。それこそイスラムの文字通りのメッカを有するサウジアラビアも例外ではなく、サウジもアブラハム合意に入るのではないか?とも言われていますね。

もっと良い知らせ:過激派と穏健派以外に存在する「復興派」

 飯山陽さんは、キリスト者ではないので当たり前なのですが、過激主義と穏健派の存在については、深く論じておられますが、イスラム教徒が、キリスト・イエスに信仰を持つという、霊的復興が、イスラム教の国々で起こっていることについては、もちろん触れておられません。

 このことについては、以前、書評を書いた「Inside the Revolution」(ジョエル・ローゼンバーグ著)が、次のように述べています。

The Radicals: “Islam is the Answer.
Jihad is the Way.”

The Reformers: “Islam is the Answer, but
Jihad is not the Way.”

The Revivalists: “Islam is not the Answer, and
Jihad is not the Way,
Jesus is the Way.”

 イスラム過激派は、「イスラムこそが答え、ジハードがその道」であり、イスラム穏健派は、「イスラムこそが答え、しかしジハードがその道ではない。」であり、信仰復興派は、「イスラムは答えではないし、ジハードも道ではない。イエスこそが道だ。」というもの。

 イスラム過激派も過激ですが、ある意味、信仰復興派は、もっと過激と言ってよいでしょう。イスラムそのものを捨てるということは、イスラムにとって文字通り死を意味しますが、それも辞さず、復活のイエスを信じて生きる道を突き進んでいます。

 キリスト者の自分としては、飯山さんと同じように、我が国を大事にし、国家崩壊や日本の文化の破壊から守られることを祈ります。それに加えて、最も過激な人々が、もっと過激になることを、つまり、キリスト者を迫害し、殺害していたパウロに出会った復活のイエスに、彼らも出会うことを祈り求める者であります。

参照ブログ記事:「「反対」の中にある福音宣教(2) - 過激なキリスト教への招き

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