原発より恐ろしいもの

私は、今回の大地震と津波、そして福島原発の一連の動きにおいて懸念しているのは、世界そして日本における「パニック」です。先の記事で、大地震と津波は神の注意喚起であり、日本のクリスチャンの伝道の契機、また日本の人々が福音に耳を傾けるべき神の御声であることをお話ししました。けれども、今回の原発に関わる恐れから生じる混乱は、全世界を巻き込む悪魔の仕業だと考えています。

まず、初めにお断りしたいことは、私はここで原発存続の是非を問うているのではありません。ある方は廃止を訴えるしある人たちは推進します。けれども、今、問題なのはそのことではなく、世界的に起こった現象、マスコミに煽られた一般の人々、そして国々の動きまでも動かしてしまっているほど撹乱していることです。

私は全く同じことを、ブッシュ大統領が指揮したイラク戦争についても言えました。あの時も、世界中から沸き起こったように反対運動が起こりました。マスコミが世界中の人々を煽りました。けれども、それによって蹂躙されていたイラク一般民衆がいて、結果的にイラクが民主化されて、中東全域が安定したという効果についてはどこかに追いやられています。

クリントン政権であったときも戦争を発動していましたが、全く非難がありませんでした。そしてたった今、オバマ大統領が、ブッシュ政権の時とまったく同じ根拠でリビアを攻撃しています。しかも、ブッシュ大統領の場合は、国連のみならず議会も通して行なったことなのに対して、オバマは今回、議会を素通りしていています。そして、「レジーム(政体)転換のための軍事介入」を非難している雰囲気が世界に微塵たりともありません。

ちなみに私はブッシュ大統領の決断には同情的です。またオバマ大統領の決断には賛成です。むしろなぜもっと早く軍事介入しなかったのか、とも思っています。理由は同じで「一般民衆に対する殺戮」を止めるためです。世界の大国だからこそできること、責務があります。今回の自然災害に「トモダチ作戦」によって米軍が真っ先に来てくれたように。けれども、そうであっても戦争の是非は人それぞれであり、それ自体は議論の余地があるのです。今、問題にしているのはこういうことではなく、あまりにも冷静さを欠いた不安と混乱であります。

聖書は「恐れ」や「不安」が神から来たものでないことを教えています。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(1ヨハネ4:18)」

そして神は、ご自分を信じない者たちに対して、この不安と恐れを植えつけることによって裁きを行なわれます。数ある戦いにおいて、その手法を神は使われました。例えば、三百人のギデオン率いるイスラエル軍が13万5千人になぜ勝てたのか?

「それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。(士師記7:21-22)」

恐れと混乱から来る同士打ちです。現在、数多くの在日の外国人が国外避難しています。先日、韓国の人たちの住む東京のある地域を通りましたが、店の大半が閉まっていました。ある所は、教会そのものが閉鎖しています!一般の人たちだけでなく、フランス、アメリカ、中国、韓国、台湾などなど、政府を挙げて根拠に基づかない噂によって行動を起こしています。このことによって、日本に対する世界の評価が下がります。経済活動が停滞します。日本は経済第三の大国ですから、もう既に世界に経済不況に拍車をかけています。そして何よりも、今の被災地救援活動、その後の復興活動に大きな支障をもたらしていることが深刻です。

そして最も深刻なのは霊的影響です。以前のイラク戦争の時には、伝道をするたびに「ブッシュ大統領はクリスチャンなのになぜ戦争をするのか。」という質問を受けることによって邪魔がありました。今回は、このように日本からいなくなる、あるいは来ようとしないことで、外国人のクリスチャンまでがその影響を受けて、日本での地道な伝道活動、また日本への宣教活動に支障が出ていることです。私は今、この領域で悪魔が激しく攻撃しているのではないかと思います。

いくつか原発についての啓発的記事をご紹介したいと思います。一つは、原発で働いていた方が非常に分かりやすく説明しているブログがあります。

http://ameblo.jp/fabridge/

下のブログには、現状の分かりやすい説明と数々の有用リンクがあります。

http://ameblo.jp/satoshitaka/entry-10834940369.html

元原発関連職員であられた方で今は伝道師になっておられる方が、記事にしておられます。

http://sccrblog.blog137.fc2.com/blog-entry-31.html

そして英文ですが、どうか英語の話す外国人の方にご紹介ください。16年間核関連の仕事をされて、今はカリフォルニアにあるカルバリーチャペルの副牧師の方が大変、憂慮されて教会のサイトに啓発的記事を図入りで掲載されています。

Perspective On Japanese Nuclear Issue

私の人間理解

(これは前投稿の続きです)

なぜ、このようにムスリム同胞団を穏健と見るのか、あるいは過激で危険であるのか見方が変わるのは、その情報の差異ではなく、各人の人間理解に基づくものです。穏健と見る人々は、「人間は、社会進歩のために努力する善を持っている。」という前提があります。けれども私は、エレミヤ書17章9節にあるように「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」という理解です。

しばしば、性善説と性悪説という対立図で日本人の人は語り、キリスト教は性悪説として括りますが、そういう次元の問題ではありません。性悪説の人たちは極悪人に対する死刑賛成であるとか、常に「自分」以外の他人に向けて語っている。けれども、そのような性質の議論ではなく、「社会的に良さそうに見える人であっても、とてつもない邪悪な性質を持っており、実はこの私がこの性質を持っているのだ。」という、自分が神の前で罪人であるという理解から来ています。

だから、神の憐れみと恵みなしには私の存在は滅ぼし尽くされるのであり、ゆえに神のみ自分を委ね、この世界も神によって支配されているのだ、という理解に至ります。かつて、中期に社会運動に傾いたキリスト者内村鑑三も、後年、この真理に気づき、キリストの再臨の希望に身を投じました。

下の本には、アメリカのリベラリズムと保守主義の対比を上手に行なっています。

アメリカ保守革命 中岡望 著 (中公新書)

リベラリズムと保守主義の対比の表
              (リベラル   保守主義)
重要な存在          人間    神
道徳的な重要性       社会    個人
人間にとっての重要性   権利    責任
悪の起源    不正な社会システム 原罪

私はもちろん後者の考えで、そのような見方で人々や日本、そして世界を見ています。

かなり前に一般の掲示板で、天皇について少し否定的な意見を述べました。それは「天皇は神ではない。私は人としての王を認める」というごく当たり前のことですが、その板が炎上してしまいました。猛烈な批判と非難を受けたのです。その管理人が私がキリスト者であることを知っておられたので、こう説明されました。

「天皇制は、単に王の機能を果たしているだけでなく、日本人の仏教と神道の宗教心の根ざしている問題である。イスラム教徒の前でコーランを破るのと同じことです。」

なるほど!と思いました。一般の日本の人は、普段はご自分のことを「無宗教」と言います。けれども自分の根底に流れている信仰心やイデオロギーがあることには、他の文化や価値観に触れていないので気づいていません。私は、人間はもともと思想的あるいは宗教的な存在であると思います。

ローマ人への手紙1章後半には、人は創造にある神を認めず、感謝しないので、知者であると言いながら思いを空しくして、創造主を偶像の神々に取り替えているという言葉があります。これが私の人間理解で、全ての人が何らかの神を宿している、というものです。

しばしば「キリスト教などの唯一神信仰は厳しく排他的であり、多神教の優しさが欲しい」と言われます。そしてキリスト教の名の付く戦争を取り上げますが、実は数十年前に“神道の大祭司”である天皇の名を叫びながら、何十万人、何百万人の人々を死に追いやった、紛れもない宗教戦争であったことには気づいておられません。

自爆テロをしているアラブ人たちが、自宅に貼っているポスターが、あの「神風特攻隊」であることをご存知でしょうか?

そして、私は海外にいる若者たちに、しばしば「年末と年始の一週間で三つの宗教を信じる」ことを話します。そうすると皆が笑います。他の人々にはそのような不可能に思えるようなことが、日本人は無意識に、キリスト教も仏教も、神道的な多神教信仰の中に包括して取り入れてしまっているからであり、決して寛容だからではありません。

私はこれを「神道原理主義」「あるいはアニミズム原理主義」と呼んでもいいかもしれません。深層意識の中に神道の原理を宿しているからです。

ですから、日本の人たちがキリスト者になることは大きな決断が必要です。自分の根幹に関わる大きな変化を受け入れることに他ならないからです。けれども、可能なのです!神の恵みと御霊の働かれるところには、神の慈しみ深さが満ちます。その中で私たちは、悔い改めを行なうことができます。

以上、日本の宗教事情を書いたのは、この国民も、今世界で起こっていることの大きな濁流の中にいるのだ、ということを述べたかったからです。イスラムやキリスト教会で起こっていることは、決して私たちと無縁なことではありません。

【補足】「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳

(補足)アメリカという国は、言わば「文化戦争(Cultural War)」とも言われる、社会的、倫理的価値観の激しい衝突が起こっている所です。(Facebookのプロフィールに、「宗教」「政治観」そして「恋愛対象」と書いてありますね?これは友達を作るときに、必ず知っておかなければいけない背景であり、作成者はその衝突をよく理解しています。)

アメリカがベトナム戦争を起こした時に、反戦運動が学生の間で荒れましたが、それは自然発生的なものではなく、麻薬や東洋神秘、フリーセックスなどを標榜する「ビート・ジェネレーション」と呼ばれる人々の強い影響があります。政治的には極左であり、非常に思想的な人々です。

ちなみに、そうした運動からヒッピーと呼ばれる青年たちが現れ、さらにそのヒッピーたちから「ジーザス・ムーブメント」と呼ばれる、新生したクリスチャンの誕生があり、今、アメリカ福音派教会の指導者の多くがその世代の人たちです。

そしてそうしたビートニック(ビート世代の人々)の影響を受けた人々が今、社会的地位を得ており、大学教授、政治家、マスコミなどでアメリカ全体に影響を与えるようになりました。その結実がバラク・オバマ氏の大統領当選です。

私たちは、彼が演説をしているのを見たときに、「私たちが知っているアメリカのイメージとどうしても合わない。」と感じていました。彼から出てくるものが「暗い」のです。私たちの知っているアメリカ人が持っている、底力のような明るさがないのです。

けれども私たちが知らなかったのは、こうしたリベラルの人々の存在でした。彼らはリベラル(自由主義)と言っても、アメリカの建国精神の基盤であるキリスト教への対抗としてのリベラルを位置づけており、キリスト教的伝統価値観からの自由を強調します。

そして教育や知性を強調します。したがって、意識的にキリスト教の神を否定して、自らを知者であると誇る傾向があります。まさにロマ書1章21節にある、「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは暗くなり、その無知な心は暗くなったのです。」という描写が当てはまるのです。

この箇所の後に、パウロは偶像礼拝と同性愛を挙げていますが、まさにそれをこの流れにいる人々は、そのことをも東洋神秘と同性愛行為によって実現させてしまっているのです。

したがって、アメリカの保守的な人々、特に福音派の人々を、イラク戦争を契機に批判し、日本のキリスト教界までが批判していたとき、私は非常に危惧したのです。彼らを批判するということは、つまり、反キリスト教傾向の強い米国自由主義の台頭を許すことに他ならなかったからです。

これが私が、「アメリカの世界への関与自体を否定すると、もっと大変なことになる。」と言った所以です。

感謝を知らないというのは恐ろしいことです。残されているのは無機質な暗闇と、知識によって高慢になった人々による精神的蹂躙です。そして、愛や平安とは裏腹の、激しい敵愾心と憎悪です。

そして既存のもの、先代のものを尊重しないのは、後に全世界を支配する反キリストを迎え入れることに他なりません。

「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。(ダニエル11:37)」

私たちは終わりの日に生きています。感謝することは、もはや、してもしなくてもいいような選択ではなく、意識的に決断しなければいけない時代に入っています。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は自分を愛する者、・・・感謝することを知らない者(になり)(2テモテ3:1,2)」

「感謝の力」 - ④たとえ敵であっても

アメリカとは正反対の共産主義国は、私たちの国の近くにもあります。言わずとしれた中国です。これまでの話だと、私が中国に激しく反対する意見を言うと思われるかもしれません。矛盾するようですが、私は中国にも感謝しています。30年間の開放政策のおかげで、人々に制限付きですが自由が与えられ、とてつもない問題を抱えながらも、神の御業がものすごい勢いで進んでいるのですから。福音を信じる自由を少しでも与える国は、神が祝福してくださいます。今の経済発展も、神の祝福があるからだと私は信じています。

そしてその制限がかえって、自由民主主義国に生きる私たちにはない純化を与えてくれます。そこには実質的な集会の自由がありません。その代わり、教会は大集会を開いて、商業的に人々を招きいれようなんていう発想をしません。また、情報が制限されていますから、アメリカや韓国で発生するあらゆる教えの風も、そこで遮断されます。また、既存の宗教(キリスト教、イスラム教、仏教、カトリック、道教)以外は「迷信」として禁じています。ですから、変な異端を持ち込む余地も少なくなっています。

イスラム教の国も同じでしょう。そこで回心したキリスト者は、私たちと違って、献身というものをよく知っておられます。神に服従することを彼らはもともと教わってきたので、キリストを主とするということも容易に理解できるのです。彼らに足りなかったものは、アッラーに存在しなかった「愛」です。けれども、キリストの愛を知り、それで激しく主を愛し、仕えるのです。

だいたい、こんな感じです。個人的生活でも、社会的生活でも、そして国民的、世界的情勢でも、「感謝」こそが、私たちを強める力であることを思わされているこの頃です。

「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳

数年アメリカに住んだ者として、私は、アメリカの世界における関与は、非常にその国民性を表したものであり、面倒くさい面もあるが、それ自体を否定すると、もっと大変なことになると感じています。

アメリカは曲がりなりにも、ユダヤ・キリスト教価値観を有する建国精神によって成り立っています。そして、個々人の責任において働くという「自由」の精神を強固に持っている人たちです。それゆえ、彼らが関与するところに小さな規模で不条理や不正義があったとしても、全体的に見ると良い物が生まれています。

例えば、お近くの韓国をご覧ください。今では信じられないかもしれませんが、20年数年前までそこは軍事政権であり、独裁でした。当時の世論は「独裁の韓国、そしてそれを後押しする米国」というものが主流でした。キリスト教会もおそらくそうだったでしょう。でも、アメリカが見据えていたのは、反共への防波堤であり、同じく自由民主主義を掲げる韓国を支援することでした。

たとえ独裁が間違っていたとしても、そこで指導者らは現実的な経済開発を推進し、植民地支配を最近まで受けていたのにも関わらず、日本からの経済協力を惜しみなく受けていた彼らがいたからこそ、今の豊かな韓国があるのです。したがって、独裁制よりも、もっともっと恐ろしい、共産主義・全体主義に対する歯止めを、アメリカは自ら意識しているか、していないかにしろ、実際上行なっていったのです。

そして幸いなことに、韓国民たちが、自らの力で民主化を成し遂げ、かつアメリカとの関係も断ち切ることなくその国を守り続けているのですから、大したものです。

そして日本に、膨大な数の韓国人が来て、交流を深め、日本の教会も多大の恩恵を受けています。もし韓国軍があの朝鮮戦争で血を流していなかったら、米兵が命を捨てていなかったら、どうなっていたか想像してみてください。今、北朝鮮は数年に渡って、世界で信仰の自由が蹂躙されている国として第一位なのです。そこでは信仰者が強制収容所に入れられ、言語に絶する仕打ちを受け、死んでいっているのです。

日本のキリスト教会では「平和論」を掲げ、あらゆる形の戦争を不正義だと断じる傾向がありますが、アメリカ人に聞かなくてよいでしょう、年配の韓国の人々に同じように朝鮮戦争にも適用させて語ってください。顔を真っ赤にして怒られるでしょう。彼らこそ、共産主義の恐ろしさを身をもって味わった人たちですから。

私は戦争は、決して軽々しく起こすものではないと思っています。最大限回避すべきものです。戦争は負けるほうはもちろんのこと、勝つ側にも深い傷を残す悲惨なものだからです。けれども、実際に戦争が起こるときに、それを悪だと断じることは私にはできません。なぜなら、その背景に戦争と同じぐらい、継続的に苦しみを受けている人々が大勢いることが多いからです。

ですから、今の時代にアメリカという国が存在していることを、神に感謝しています。今となってはリベラル左派が幅を利かせていますが、それでも保守派が抵抗して、拮抗している状態です。カナダや欧州では、公共の電波機関を使ったキリスト教放送が禁じられているのです。なぜなら、「同性愛者の権利を守っていない」という根拠です!(ある意味、日本より自由がないのです。)ですから、西洋で唯一、そのユダヤ・キリスト教伝統を残存させているのはアメリカであり、それゆえ私は貴重な国だと思っています。

そして良く考えてみれば(「はげ」がどうして感謝できるのかを良く考えるのと同じように!)、アメリカが私たちを助けこそすれ、何か敵対したでしょうか?多大の経済支援をしてくれました。また思想的にも自由や民主主義の概念を日本の敗戦後教えてくれました。そして一般市民のキリスト者は、何とかして福音を伝えたいと思い、世界中に宣教師を送り出しています。

彼らの世界的視野や「人々に無償で分け与える」という精神的基盤がなければ、今の世界は、そして日本はどうなっていたでしょうか?今の日本人のキリスト者に、経済的に、そして霊的に世界に貢献したいという情熱を持っている人々がどれだけいるでしょうか?「受ける側」で考えずに「与える側」で考えてみたらどうでしょうか?

あれだけ世界が批判したイラク戦争も、民主化された政権下で宣教師が国内に入ることができるようになりました。それでも絶対的に悪であったと断じることができるのでしょうか?その戦争が正しくなかったとしても、神がすべてを善に変えてくださる、という信仰でどうして見ないのでしょうか?

「アメリカが正しいか、間違っているか」という視点ではなく、「神がこの状況を通して、何を行なっておられるのか」「神が、世界に対して魂の救いをどのようにして行なわれるのか」という視点でご覧になられたらいかがでしょうか?

アメリカ人の宣教に、また韓国人の宣教もそうですが、問題がないということではありません。いや、数多くあります。けれども、「もし彼らが情熱をもって福音を伝えてくれなかったら、いったい日本は、世界はどうなっていたのか?」と問い直せばよいのです。どれだけ感謝すべきか分かりません!

アメリカについて神に感謝すべきことは、まだまだあります。

ですから、アメリカの諸問題は問題として捉えますが「感謝しています」という前提をもって発言するのです。

「感謝」の力 - ②私が保守的な訳

そして政治的な見方についてですが、私は日本キリスト教会では少数派の保守的な考えを持っています。米国でその多くを学びましたが、キリスト教的価値観に基づく保守主義です。

それは、本質は「政府」という機関にあるのではない、という考えです。何か社会的な問題が起こると、必ず「政府がいけない」「このような教育を行なっているからだ」という話になっていきます。そして政府や公的機関にさらに積極的な関与を求める考えを多くの人が持ちます。おそらく日本のキリスト教の関係者も大半がそうでしょう。

けれども、私は本質は「神と個人の関係にある」と信じています。政府は神ではありません。政府が何かしてくれるのではありません。神が政府を置いてくださり、その政府が果たすべき役割はありますが、政府にできることはごく限られたものだと考えています。

政府に対して過度に非を訴えることは、言い換えると政府にそれだけ大きな役割を期待しているということです。政府が人を治めるという考えです。けれども、神ではなく「人」が他の人を治める時に、そこには神が生来与えておられる自由と人権を蹂躙するようになる、と感じています。

ですから私は、まず第一に、今の政府、また行政に感謝する立場を取りたいと思います。以前、民主党政権について一連の批判記事を書きましたが、それでも、彼らがマスコミには出てこない地道な努力をされているのだろう、という思いを決して忘れることなく、感謝の気持ちを表したいと思います。

それでもって、政治家に訴え、意見を投稿し、選挙時には深く考えて投票するという姿勢が正しいのだと思います。

そして第二に、問題を専ら政府のせいにしないことです。「自分たちが変わらないで、どうしてその自分を代表する国が変わりえるのか?」という考えです。この個人的責務において自由が与えられたら、それこそ真の民主主義であり、またその国の一市民となることができる、という考えです。

この考えを大きく拡げますと、世界情勢にも同じことが言えます。9・11の米同時多発テロ以降、世界に軍事的・経済的関与を行なっているアメリカに対する世界中からも猛烈な反発が起こりました。イラク戦争においては、堰を切ったように米国を憎む空気が流れました。これは日本のキリスト教会においても同じでした。

けれども、ここにも大きな矛盾があります。それは、世界で起こっている多くの事象をすべてアメリカに結びつけるということは、逆に言うと、世界の中心はアメリカであることを認めていることになります。そして、世界を動かしているのは神ではなく、アメリカなのだと暗に宣言しているに過ぎません。

違います、世界の中心は神ご自身であられ、その神に私たちが礼拝を捧げているのです。アメリカは所詮、世界の一国にしか過ぎず、その果たせる役割はごく一部に限られているのです。そして世界で起こっている問題は、本質的に、それを起こしている当事者の責任であり、彼らがその問題を克服することこそが、真の解決につながります。

今回のエジプトの問題に当てはめるなら、エジプトの次期政権を誰に委ねるかをエジプト人国民が決めることによって、民主化になるかイスラム化されるかが決まるのです。

「感謝」の力 - ①「はげ」を感謝する?

私たちが海外にいた時に、教会の伝道師さんが礼拝で、1テサロニケ5章にある「すべての事において、感謝しなさい」という御言葉から説教をされた時のことを、今でもよく覚えています。

出だしが、ある牧師さんが「自分がはげであることを、どのようにして神に感謝すべきか。」と悩んで、いくつかの項目を挙げたという例話でした。私も30代に入った後で少しずつおでこが広がっていたので(笑)、興味深く聞きました。

その後で、聖書全体から感謝することについて説き明かされたのですが、「感謝」というものをこれまでいかに軽く考えていたかを思わされました。「感謝することは、まさに神の前にへりくだる行為であり、そこから神の力が自分から湧き上がり、神への献身を新たにできる」という悟りです。

その礼拝の帰りに、妻に「今の日本に足りないのは、もしかしたら『感謝する』ことかもしれない。」と話しました。それに関連する記事を「今の政治(そして福音宣教)に必要なのは」という題名で書いています。

このことは、私がキリスト者として政治的なことを考える時、世界情勢を考える時でも同じことが言えるし、また個人的、霊的な側面においても同じことが言えます。

例えば、先に書いた「キリスト者が祈るべき『エジプト』」で、今の混乱のエジプトの現場からの声で、「エジプトで神がいま行なわれていることで、賛美しています。エジプトがニュースで取り扱われることによって、この国の歴史の中で、これほど多くの人がエジプトのために祈っていることはなかったと思いませんか?」という発言がありましたね?日本と比べて桁外れに大きな問題を抱えているその国において、こうした見方を持っているのです。この、神への感謝と賛美に、どれだけ生きた力が働くか知れません。

要は、環境や周囲のせいにしないことです。全てのことが神から来ているという主権を受け入れて、神の前に出ていく時に、試練の中の知恵が与えられます(ヤコブ1:2‐8)。周囲の変化に左右されない、不動の神の見方で物事を見ることができることです。

私は日本の宣教の状況に感謝しています。非常に小さい教会が点々と存在し、しかも働き人が足りないため、教会の戸が閉じられていっていると聞きます。何を始めるにおいても、不足した状態です。

けれども、まず福音を語る自由が与えられています。政治的にはもちろんのこと、霊的にも、先に「韓国の宣教報告」で書きましたが、教会文化が存在しないために、かえって純粋に聖書から福音を聞く耳を持っておられます。

多神教の排他性

前回の、小沢氏によるキリスト教批判に応えて書いた記事「自浄努力の重要性」への補筆です。良い記事を今日、見つけました。

一神教は排他的で多神教は寛容という虚構

欧米のキリスト教やイスラム教の宗教戦争(?)に反発してキリスト教を批判する民主党寄りの方(この記事を参照)も、日本人への愛国心涵養と称して、神社参拝(靖国、伊勢に限らず)を日本人全員すべきだと考え、参拝しないことを売国奴、似非クリスチャンと言って罵る保守系(?)の方々も、ぜひ全文、読んでいただきたいです。ここには最後の部分だけ引用します。

本人が絶対的な信仰を抱くことと、他者に寛容であることは別問題であり、両立可能な要素である。クリスマスを祝い、神社に初詣に行き、葬式は仏教で行うことが寛容ではない。信仰に無節操・無頓着であることを寛容と勘違いし、それを他人に強制することは不寛容の極みである。反対に強固な信仰を有している人がいたならば、その信仰を尊重することが寛容である。一神教と多神教で区別するところから不寛容の罠が始まっている。

(参照エッセイ: 「国家国旗問題」)

大いなる恵みに驚く者

新年、明けましておめでとうございます。
主によって、良い年になりますようお祈りいたします。

今、来週から行く米国旅行の準備で忙しくしています。聖書預言の学び会で、エゼキエル書36章から39章までを取り扱いますが、その準備で大変です。

でも、昨日は、近くの教会で年越し礼拝に参加しました。2010年に対する、主への思い、その約束を手紙で書いて、封書するように言われました。(こういうのは、実は初めてなのでいささか驚きましたが、良い機会だと思いました。)そこで自分の名前を封筒に書いたとき、その隣に書いたのが上の題に、「大いなる恵みに驚く者」です。私が約束を守る前に、主が恵みの約束を守ってくださったことを実感しています。

昨日、ある若者からメールが来ました。二・三ヶ月前に始めて会った方ですが御言葉に触れて変えられ、昨日の手紙では今は教会に通っているとのことです。このような救いの御業を目撃することができるのは、本当に神の恵みです。

今年も、主にあって何卒宜しくお願いいたします。