北朝鮮人権侵害問題啓発週間

電車に乗ると、車内での吊り広告に次のようなものがありました。

北朝鮮当局による人権侵害問題に対する認識を深めよう

  北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに,国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し,その抑止を図ることを目的として,平成18年6月に、「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」が施行され,国及び地方公共団体の責務等が定められるとともに,毎年12月10日から同月16日までを「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」とすることとされました。

 拉致問題は,我が国の喫緊の国民的課題であり,この解決を始めとする北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が,国際社会を挙げて取り組むべき課題とされる中,この問題についての関心と認識を深めていくことが大切です。

ロゴス・ミニストリーのブログにおいて政治的になるのはあまりよくないとは思いますが、私は上の人権意識に対する啓発には、全面的な支持を与えたいと思います。

同じように、クリスマス前の人権週間ということで、ある牧師さんが以下の意見を述べておられます。

北朝鮮による拉致は批判されて当然でしょうが、まるで自国がそのようなことをしたことがないかのような、認識で批判することがあってはならないでしょう。

 強制連行の有無とは関係なく、朝鮮半島から来た人々や被差別部落出身者、アイヌ民族などが、炭鉱やトンネル工事等で、奴隷労働を強いられ、死ねばその場に埋められていくような現実があったのです。こうした目を被いたくなるような罪や悪の現実を認めることから、本当の意味での人権尊重や国際交流が始まるのだろうと思います。
http://blog.chiisana.org/?eid=1408134 

この方の純粋な思い、過去に悲惨な目に遭い、日本がその加害者だったことに対する悔恨の思いからお書きになったことは、十分に理解できます。けれども、私はそこに「北朝鮮政府による拉致」を、過去の日本が行ったことに当てはめながら語る、その論理に対しては断固として反対します。

日本が確かに、朝鮮半島の多くの人々に対して酷い扱いを過去に行ってきました。けれども、現在の北朝鮮の政権が、朝鮮民族を代表しているのでしょうか?ここが一番問題です。私は、過去に日本が行った過ちがあるからこそ、北朝鮮政権が行っているあらゆる人権侵害行為に強硬に対抗しなければならないと考えます。

北朝鮮の人権侵害は、日本国民のみならず、その国の中にいる北朝鮮の人々を被害者としているのです。そして過去に日本が犯したことについては、私たちはその過去を変えることはできません。けれどもその政権は現在進行形で、かつて日本が行ったこと以上の、言語に絶するおぞましい虐待・虐殺を行っているのです。
かつてユダヤ人に対して行ったナチス、そして自国民に対して行ったスターリンと同じことを、彼らは行っています。

これを傍観していることこそが、まさに無反省の態度であり、消極的にその人権侵害に加担していることに他ならないのです!

日本国民の中には、拉致被害者のみならず「帰国者」がいるのです。それは戦後、北朝鮮に帰国する運動を日本政府が推進し、そしてマスコミは朝日から産経まで、政党は共産党から自民党まで、みながそれを支援しました。その背後には、「日本が戦時中に朝鮮の人々に悪いことをした」という贖罪意識があったことは言うまでもありません。そして、日本において戦後も苦しんでいた在日朝鮮人でありますが、そのキャンペーンによって日本人妻らとともに北朝鮮に移りました。そこで見たのは楽園ではなく地獄だったのです!これが犯罪加担でなくて、何なのでしょうか。

その、「日本が過去に行ったことによって、今の北朝鮮の人権侵害への批判の手を緩める」あらゆる行為に対して、私は、数多く北朝鮮内で苦しみ、死んでいった在日朝鮮人の方々、日本人妻の方々、そしてその子息のことを思って断固として反対します!(参照ページ

朝鮮民族を代表する機関は、北朝鮮政権や総連だけではありません。韓国政府そして民団があるのです。韓国政府は今でも、昨年起こった延坪島への砲撃にあるように、北朝鮮の冒険主義に対峙しています。民団は当時、かつて帰国事業に孤独の反対運動を展開し、今でも北朝鮮の蛮行に対して闘っています。私は韓国政府や民団の行っていることをすべて支持しているものは決してありませんが、北朝鮮政府が、朝鮮民族全体を決して代表しているのではない、ということをお話しています。

そして北朝鮮政府の犯罪を良く知っている人であれば、北朝鮮の人々とその政権をきちんと区別しています。めぐみさんを待っている横田早紀江さんは、めぐみさんが帰ってくることを祈っていると同時に、北朝鮮の人々のためにも祈っておられるのです。

上のブログ記事の牧師さんは、プロライフ(中絶反対)の活動をされている方です。日本人を拉致した北朝鮮政府が、現在どのようなことを行っているかを読んでいただけたらと思います。拉致をするとき「人を人と思わない」その考えは、胎の中の幼子をも物質にしか思っていない考えと同じなのです。

北韓人権情報センター報告 人権事件レポート 19歳妊娠女性殴打で死亡

ここまで述べましたが、あくまでも私の人権意識と政治的な見方であることを最後に付記いたしたいと思います。私は、総連の方々にもぜひイエス様を知ってほしいと願っている者の一人です。以上のような強い意見や主張を私は持っていますが、それとは関係なく、総連の方々も神に愛され、キリストがその罪のために十字架で死んでくださったことを、お知らせしたいと思います。

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その1

週末の礼拝の奉仕を終える月曜日は、なるべく休みの日のようにしようと心がけ始めましたが、今朝はお風呂かプールに行こうと思っていましたが、結局、録画していた番組を見ました。

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」

以前の原発事故の番組と同様、心を強く揺さぶられました。何度もテレビやインターネットで見た、津波が押し寄せる映像について、私はいつも「現場にいた人々はどう行動していたのだろう?でももう死んでしまったから聞けないよな。」と思っていましたが、この番組はそれを可能にしました。九死に一生を得た人々に直接取材して、そして作り上げた「被災マップ」「行動マップ」を、地震発生から克明に描いています。

私たちは何度も東松島市への救援旅行に行っていますが、奥松島では、宮戸島の住民は引きこもりの人一名のみが死亡、けれども島の付け根にある野蒜地域は二百名以上と言われています。この前の救援旅行では、牛網の人に、宮戸島にある引越し物件の可能性の話をしたら、「あんな危ねえどご、やべぇんじゃねぇ」という反応でしたが、そこで死亡者がほぼ皆無だったことを話したら驚いていました。また私は東京で地震を経験して、すぐにNHKの番組を見て、普通は至極冷静なアナウンサーが、気が狂ったかのように巨大津波の警報を読んでいたという話をしたら、それも驚いていました。「知らねがった」とのことです。

より安全であるはずの人々がかえって死んでしまった、そして外部にいる人々はその危機を察知しているのに、現場にいる人が分かっていない、ということをこの番組では取り上げています。それは一言、「心の罠」で要約できます。

災害心理学において、その行動をまとめることができるそうで、1)「正常性バイアス」、2)「愛他行動」、3)「同調バイアス」があるそうです。

1)は、逃げることをせず普段どおり近所と世間話をする等、非常時に「まさか本当だとは思わなかった」「こんなことが起こるはずがない」と現実として捉えられない心理作用のことです。

2)は、避難することを固辞した人までも説得するのに貴重な時間を喰い、自分の命を落としてしまうような行動です。他の人を救おうとする意識が過剰になってしまい、自分だけ逃げることで自分の心に残る後悔を払いきれず、人助けをすることに集中して危険を感じることを後回しにしまうという心理だそうです。

3)は、緊急時、複数の人数でいると「皆でいる安心感」を感じたり、また、判断に迷ったとき、周りの人と同じ行動をするのが安全だと考えてしまう心理作用です。「隣が動かないから大丈夫だろう」と考え、逃げ遅れたりします。

(番組では取り上げられませんでしたが、4)「エキスパート・エラー」というのもあるそうです。(こちら)一般人が専門家の意見や指示を「プロの意見だから」と疑わずに信じてしまい、そのとき相応しい判断を間違える心理行動、とのことです。事実、この名取市閖上地区の記事を探したら、次の文がありました。「「なぜ公民館に避難しないんだ、戻れ」。阿部さんは顔見知りの女性に強く注意した。女性は「公民館の人から、ここは津波の避難所じゃないので中学校へ移動するよう言われた」と答え、その場を後にした。」)

そして、番組の最後は復興計画を説明し、二重の防潮堤のことを話している名取市職員に対して、住民が「そんなこと言ったって、津波が来たらまた家に戻ってしまいますよ。そして同じように死にますよ。」と叫んでいる住民の声がどしんと響きました。

ぜひ、この番組を視聴してみてください。今のところこちらで見ることができます。

私は単に、これを防災面のみの問題として見ることができませんでした。日本国のような安定した先進国での生活に横たわる問題、そして、聖書で警告されている「突如の滅び」という大きな主題について示唆が与えられたからです。

その2に続く)

911と311

上の数字を見ていただければお分かりの通り、米同時多発テロの日と東日本大震災の日は同じです。日本では菅前首相がインタビューに応じ、ちょうど六か月になるということで当時の原発事故対応について話しましたが、ブッシュ前大統領も、ちょうど十年前に起きたことをふりかえってインタビューに答えています。

ビンラディン殺害に「喜びは感じず」 ブッシュ前大統領

原発事故は人災、説明も伝言ゲーム…菅前首相
(次の記事も参照「原発危機と日本」)

二人に共通しているしているのは、混乱の中で最終決断あるいは判断をしなければいけなかったという国の最高指導者としての苦悩です。

「戦争という霧の中を旅しているようだった」(ブッシュ前大統領)
「説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」(菅前首相)

そして911も311も、それぞれ世界を変え、また日本全体を変えてしまいました。

私はこのような惨劇について、キリスト者としての態度を再考しました。やはり、心は、「なぜそんなことをしでかしたのか?」という悔しい思いや怒りは出てきません。911であればブッシュ氏の政治倫理性を咎める人がいるでしょうし、様々な陰謀論や憶測が飛び交っています。菅氏であれば隠蔽や杜撰な危機管理と言って咎めるのでしょうが、私はお二人のインタビューを聞いて、そのような思いが出てきませんでした。

むしろ次のイエス様の言葉を考えます。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1-3)

主が、この苦しみと悲しみの中に入られて、そこから神の栄光につながることをしてくださる、という思いです。原因探しや粗探しではなく、事実、苦しんでいる人々のそばに行き、そこにいることによって神の愛を伝える、ということです。911が近づいているので、いろいろな教会指導者が意見を発表していますが、フランクリン・グラハム氏も父が911の直後に話した言葉を紹介しています。

十字架は、神が理解してくださっていることを教えています。というのも、この方は、イエス・キリストという人物の中で、ご自身の上に私たちの罪と苦しみを負ってくださったからです。十字架から神は「わたしはあなたを愛している。あなたの感じている心痛も、悲しみも、痛みも、知っているけれども、あなたを愛しているのだ。」と告げておられます。
( “Who can ever forget?” by Franklim Graham)

キリストの十字架こそが、神が私たちの痛みと苦しみを遠くから眺めているのではなく、むしろ一つになって苦しみ、痛み、悲しみ、泣いてくださっていることを証明するものです。

そして、ホライズン・クリスチャン・フェローシップ(カリフォルニア州サンディエゴ)の牧者、マイク・マッキントッシュ氏は、世界貿易センターが倒壊した直後に、心的・霊的ケアのチャプレンとして現場に赴いた時のことを思い出し、記事を書いていますが、まさに311を経験し、救援活動を行っているキリスト教団体の気持ちと重なります。

God’s Love Was at Ground Zero(神の愛が、グラウンド・ゼロにあった)

彼は、「遺体がくすぶり燃えている臭気よりも、そこには神の愛のかぐわしい香りがはるかにまさっていた。」と言っています。悲しみの中にいる人々に祈るとき、そこには神を信じている人もいない人も、だれもが祈りを必要としていた。そこには日本で言う「宗教アレルギー」は存在しなかったと言っています。そしてそこでは、改宗させようとか、説教を垂れようとするのではなく、ただ寄り添い、天の御国を代表する、必要に応じる奉仕者が大勢いたのであり、それが神の愛の芳しい香りになったのだ、とのことです。

そして、私がもう一つ思い出す惨劇に対するイエス様の御言葉は、上の記事にも触れられていますが、ルカによる福音書13章1-5節です。

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

津波で死んだ人々、ことさらに大きな罪を犯したからそうなったのでしょうか?いいえ、むしろ、生きている私たちに対する警告なのです。「なぜ、神は多くの人々を死なせるような酷いことを行なうのか?」という人には、はっきり、このように申し上げたい。「なぜ、神はあなたを含む数多くの人々を、今もこうやって生かしておられるのですか?」今、生きていて滅んでいないことが神の憐れみであるのに、そして自分はいつ滅び、死に、そして神の裁きを受けてもおかしくない存在なのに、それでもいま生きているという事実を感謝したことがあるでしょうか?

人は死に、死後に裁きを受けることが定められています。また生きていても、この地上にこれまでにない大患難を下されることを警告しておられます。けれども私たちが生きていて、そしてまだ大患難に遭っていないというのは、神があえて、それらの災いが起こらないようにし、私たちが悔い改めることができるように忍耐しておられるのです。それでも、心を脂のように鈍らせ、日本の安定と繁栄の生活の中で神などいないと言っている人々に、神は憐れみをもって、ご自分に注意を寄せてもらおうと、その災いのごくごく一部、その最小限度をお見せになったのです。

「けれども、津波で死んだ多くの人は、福音を聞く機会がなかったのでは?そのように早死にさせる神は何を考えているのか?」という人に対しては、「平和ボケするんじゃない!」と言いたい。津波でなくとも、何万人、何十万人の人々が毎年、病気、交通事故、事件、その他の要因で苦しみ、また死んで行っているのです。命というのは実にはかないのです。それをあたかも、健康と長寿が当たり前のように考えていること自体が傲慢です。人は必ず死にます。神のみが、その命の短さと長さを決めておられますが、全ての人が死ぬようにされています。それは最初に造られた人アダムが犯した罪のゆえです。この生きている間に、神はご自分の御子イエス・キリストを受け入れるように、全ての人々に招きを行なわれているのです。

そして、そのような苦しみと悲しみにいる人たちこそが、これまで「対人」関係で生きていたけれども、人の関係や社会との関係を超えたところにある「対神」関係を求めるようになります。

苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたはやがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。(ルカ6:20-21)」そしてイエス様は、富んでいるあなたがたは哀れだ、食べ飽きているあなたがたは哀れだ、いま笑っているあなたがたは哀れだ、と仰っています。つまり、主イエスは徹底的に苦しみと涙の中に神の国が臨むようにされています。

キリスト者と「左翼・右翼」

キリスト者が社会問題に取り組む時に、頻繁に出てくる意見を、私なりに考察してみました。「左翼」と「右翼」という軸を使って、キリスト者の持つべき視点を見出してみようと思いました。文章が長くなったので、ブログ記事ではなくロゴス・ミニストリーのサイトの「きよきよの部屋」の中に書きました。

キリスト者と「左翼・右翼」

以下の図は興味深いです。ちょっと考えてみて、それから上のリンクにある引用記事を読んでみてください!

21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる

いのちのことば社の冊子のウェブ版の、「時代を見る目」の項目の中に二回に渡って、実に大切な提言をされている方の記事がありましたので、ここに紹介させていただきます。まず、一つ目です。

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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 1 巨大津波が露わにしたこと
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

千年に一度の巨大津波が東日本太平洋岸を襲ってから3か月。被災地域の方々だけでなく、日本のすべての人が、この大災害がもたらした社会の地殻変動におののいている、と言っても言い過ぎでないだろう。

2004年12月26日に発生したインド洋大津波の半年後、復興移行支援のためにスマトラ島で過ごした。家々が立ち並んでいた場所が、今回の日本の震災場面と全く同じように、爆撃後のように無残な土台だけになっていた。そこで一つのことに気づかされた。巨大津波という危機は人々の表面を剥ぎ取り、奥底を露わにするものだと。

日本社会も、奥底が露わにされ始めている。高度経済成長時代を終え、必要が十分に満たされ、航空機なら「巡航高度」に達した80年代後半から日本人が大切にしてきたものは何だったのか、と。経済先進国と同様に、「お金で保障された、すぐに手に入る個人の快適さ、居心地よさ、安心の飽くなき追求」ではなかっただろうか。自分が暮らす地域と世界の隣人の必要に目をとめ、自分の生き方を省みることには目を閉ざして。

巨大津波は、私たちに快適さを保障していた原発の事故を引き起こし、科学・技術への過信は収束長期化をもたらした。私たち日本人にはこの出来事の意味を理解する世界観がないために、不安と無力感で覆われている。

永続する世界観を持つはずの日本のキリストの体が今、問われているのだ。「飽くなき追求」という偽りの生き方を正しいとし、見せかけの「巡航高度」を保ちながら「無縁社会」へと崩壊した日本社会で、キリストが教えてくださった「地の塩」として生きてきたのか、と。

日本経済が「失われた20年」と言われ、情報伝達速度と量が劇的に加速・増大して個人の嗜好が多様化し、すべてが「私」に仕えるような錯覚をもたらす「時代」に、巨大津波が露わにしたのは、私たち日本の教会こそ、時代の見極めと行動を怠ってきた、という厳粛な事実なのかもしれない。

「ことば」が人となり、当時のユダヤの社会に「塩」として生き、11人の頼りなさそうな弟子を残しながら永遠の「神の国」の土台を築いたキリスト。この21世紀の大震災後の日本で祈らずにいられない。「主よ、この目を開けていただきたいのです」と。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002728)
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そして、もう一つの記事も紹介させていただきます。

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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 2
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

混迷を深める原発事故は、私たちが知らないうちに何を頼りに生きてきたかを突きつけている。科学・技術への絶大な信頼の底にあるのは「将来を予測したい。私たちはすべてをコントロールして安心を手に入れよう」という思いだ。政府による年金や個人の保険などの保障制度も、将来が変わらないことを前提にした安心保障と言えよう。現代日本社会は科学を駆使し、公私共に保障制度を備え、人生すべて万全の守りで固めて思い通りになる、かのような錯覚をもたらす社会になっている。日本社会が目指すことを言い換えれば「未来のすべてを見通せる神の能力を持ちたい。そして思い通りに未来をコントロールして永遠に安心したい」という願いにほかならない。まさに「神なき人間万能主義」、ヒューマニズムが栄華を極めている社会だ。

が、人間は「万能の神」にはなれない。この主義を前提にした社会で生きる私たちの予測と準備は裏切られ続け、「安心」とは逆に個人の不安は雪だるま式に膨れ上っている。今回の震災ではライフラインを失い、不便で不安な日々を送られた方々が大勢いた。ライフラインを失わなかった日本人の多くも「予想を超えたことが起きたらどうしよう」と不安に怯えた。

私たち日本人キリスト者は、この「人間万能」社会で、どのように生きてきただろう。そう思いながら福音書を読んだ。ユダヤ社会で神に従いたいと願う人々へのイエスさまのチャレンジは、「目先の損を取ること、将来の保障を手放すことを選ぶように」だった。この生き方は、一見、不安が倍増しそうだ。が、そのときこそ、全能の神の指の働きが見えてくる。「人間万能」社会が囚われているもの、すべてがわからないと不安になることから解放され「永遠のいのちを生きるようになる」と。

日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。

(注: 読みやすいように改行を加えました)
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002741)
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非常にするどい指摘です。私も以前、「政府や東電を信頼するな? 」という記事で指摘したことですが、今回の震災で日本人は、究極的なまでに創造神以外の物に対する絶対信仰があったことが暴露されました。これこそが日本人の根本的な霊的問題であり、キリスト者はこれを最大の不幸とみなさなければならないのです。

私は海外生活をしている時は、日本社会では絶対にありえないすごいことが起こっていました。社会的には最低の生活です。実は先進国のアメリカでさえ、医療制度の酷さを妻の怪我や病気を通して体験しました。けれども、その両国にあったのは霊的な自由でした。神にそのまま拠り頼み、神にそのまま祈っていくことのできる自由と、単純な信仰がありました。けれども日本はそれをさせない強い力が働きます。

それでも、生活で苦しみや試練を通して神に近づくことができる人々に出会います。悲しむ人は幸いである、というイエス様の御言葉はその通りなのです!

生活をきれいにまとめて、きれいに整理して、きれいにクリスチャンらしく(?)批評して、そして自分は安全圏の中にいる・・・、で良いのでしょうか?人間というのは、もっともっと、どろどろしているはずです。詩篇のダビデ、創世記のヨセフ、そしてイエス様ご自身が、予想のつかない、そして損をする、計画とは反対のことが起きる、「不便」な生活を送られました。

神への絶大の信頼、これが少しでも日本で生まれ出てくることを願ってやみません。

【補足】複合的視点の例

下の記事、「二項対立という罠」の補足として、原発問題や軍縮問題についての冷静な議論の例を引用します。

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http://diamond.jp/articles/-/13160?page=3

反原発vs.原発維持
単線的な2項対立を乗り越え、
社会の「総リスク」を減らす視点で議論をしよう
――ジャーナリスト(恵泉女学園大学教授) 武田徹

 例えば、原発事故が起きたときの避難地域の設定です。最初に行われた同心円的設定は、ずいぶん批判されました。確かにそれはその通りで、同心円的に距離に反比例して危険性が小さくなっていくことはない。風向きなどが関係しますから。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータも、もっと早く公表すべきだった。その点では危険性を指摘する人たちの言い分にも一理ある。

 その一方で、たとえ現実の放射性物質の飛散状況に合わせて、危険性の分布を表す地図が描けたとしても、その先には避難することのリスクと避難しないことのリスクを比較するような視点があってしかるべきで、さらに年齢的なリスクも考えた上で、適切な避難のあり方を、もう少し議論してもよかったと思います。

 あるいは子どもたちに関しても、田舎の小学校というのは同調圧力が強い。例えば、原子力関係で働いている人の奥さんがPTAの有力な人であれば、彼女に逆らって避難しにくいという状況が生まれがちになる。

 そういった社会的な背景があって、事はそう簡単でないにもかかわらず、都市部の反原発の運動家は「なぜ避難させないのか」と、すごく簡単に議論しています。そうすると避難=反原発運動というようなイメージができて、電力関係者はかえって頑なになるかもしれないので、むしろ反対に、避難するという道をふさいでしまいかねない。だから、何が問題なのかを丁寧に見ていって、解決できるところは解決する。避難するか、しないかという乱暴な議論では、問題は解決できないと思います。

 私は最近、高坂正堯さんの言説をよく引きます。彼は絶対平和論者、絶対中立論者を批判しているのですが、その主旨は次のようなものです。目的としては尊いが議論がない。絶対中立のために、アメリカ軍は日本から撤退すべきであるというけれども、そのとき過渡的には東アジアの軍事的緊張は高まらざるを得ない。そういう議論がないのは問題で、手段の話をしたうえで、時間をかけて目的を達成していくか、目的自体を修正していくのか、そういうことをすべきで、目的と手段の「対話」が必要だと言っている。
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「二項対立」という罠

これまで、皆さんがこのブログ記事を読まれている時に、私が必死になって書いている話題の共通点が、「相反する主張、議題をどのように対処するか」ということだと気づかれているかもしれません。

以前はイラク戦争についてでした。私は、米国と米国内の福音派教会に対する過度な批判に疑問を呈し、「米国が中心なのではない。神の預言の計画が一歩進んだだけなのだ。」「神は、このような戦争(善悪を判断せず)をも用いて、ご自分の栄光のために用いてくださる。」「米国を批判する人たちは、そこには生身の人間がいることを知るべきだ。米国人は聖人ではない、怒ることもするし、間違いもする。憐れむべきだ。」ところがこのようなことを書いたら、大変な目に遭いました。教会関係の人であろう人からも、一般人でも決して書くことはない脅しのようなメールも受け取りました。

そして、今は原発問題です。私は一度も原発を推進すべきという立場で書いたことはありません。それよりも、その大きな動きに対して、あえて牽引して、冷静になるべき多角的な見方を提供しようとしたつもりでした。「神の主権の中で政府と東電には感謝すべきだ。(支持するということではなく。)」「これまで事故が起こっていなかったこと、私たちが死んでいないこと、これも神の憐れみの中にある。」「たとえ危険があっても、主が守ってくださる。そうでなくても、被爆するよりも、さらに失ってはならない健康、すなわち霊的健康(平和、愛、寛容)がある。」けれども、どうしても政府や東電を支持しているように受け止められます。これはいったいどうしてでしょうか?

二項対立を楽しむディベート

私は、救われる前後は大学で英語ディベートを行なっていました。その討論は日本国の政策を主題としており、当時(1990年前後)から原発問題は大きな話題でした。民事裁判で、弁護人がどちら側の顧客につくか分からないように、ディベーターは肯定側につくか、否定側につくか直前まで分かりません。ですから両サイドの主張を用意するのです。これは完全に思考ゲームであり、相手を叩き潰すのが目的ではなく、第三者である審判にいかに説得力のある主張をすることができるかの訓練の場です。

ちなみにアメリカでは、ディベートで良い成績を収めた人たちは法廷で働いたり、弁護士や政治家になる人が多いです。福音派のキリスト教大学リバティはこの部門に力を入れており、良い成績を収めています。世の光、地の塩となるべく、世においてキリスト者の立場を弁明することができるようにする、というのが目的です。(CBN News)

そして、私の記憶では、「原発全面廃棄」の政策主張は非常に強固でした。「廃棄すべきである」という議題に対して、肯定側が数多く勝っていました。理論構築が非常に優れているからです。「放射能の被害」の甚大さを示し、かつ、原発放射能漏れの要因を列挙すれば、その要因がどんなに可能性が低くとも、否定側は、時間内にすべての要因を潰さない限り、負けてしまうのです。そして、肯定側にとってアキレス腱である「政策実効性」のところを否定側が叩いても、「原発全面廃棄しても、他の発電方法で十分に賄える」という議論で肯定側は対抗します。

けれども、ディベーターはその結果を見て、反原発になることはありません。なぜなら、「一つの事象には常に二つの視点があり、その対立する項目を擦り合わせることによって、本質が見えるから。」とわきまえているからです。肯定側・否定側のどちらにも付ける利点は、「物事を複眼的に、多角的に見なければいけない。」と思えることです。

二項対立に必要な慎み深さ

したがって、「反原発 対 原発推進」という二項対立は、専門家が議論している相対する論点を自分が第三者として、審判として聞き、自分の頭の中で判定を下せばよい内容のものです。どちら側に付かなければいけない、というものではありません。あるいは、付いても良いのですが、「自分がすべてを知っているのではない。」という慎み深さを持っている必要があるのです。

けれども、反原発運動をしていること自体が間違っているのではありません。あらゆる市民運動には、その達成すべき目的があり、社会において一定の役割を果たします。けれども、やはり、政府があり、行政があり、世論があり、その他の社会構成要素の一部に市民運動があるからこそ、その運動に意味を持つと言う「慎み」が必要です。しかし、運動は先鋭化しやすいです。あたかも万能であるかのように、酔いしれやすいのです。そして、少しでも異見を耳にすると排除し、排斥し、酷いときは粛清するのです。

「反キリスト」の霊

共産主義運動によって死んだ人々は、ナチスが殺したユダヤ人やその他の少数派の人々の人数を超えます。なぜそうなってしまったのか?理論構築をした後に、その理論を実践しようと言う純粋さがあったからです。頭の良い人ほど、そして純粋な人ほど、その過ちに陥りました。

聖書的に話すならば、それは「反キリスト」の霊です。ダニエル書7章8節をご覧ください。反キリストは「人間の目」として登場します。その目は知性を表します。そして小さな角として登場します。「角」は権力を表します。そして「大きな口」があります。それは口がうまいのです。

この口は大きなことを言って、そして角はどんどん多くなり、他の角を切り倒します。そして、ついに既存の法則を変えようとします(25節)。さらに、神ご自身に言い逆らう言葉を吐きます。そして先代ものを一切否定します(11章37節)。我こそが神であると宣言するのです。

要は「高慢になってはならない」という戒めです。

反原発の人たちからの批判

もしこれまでの私の一連の意見を、推進派の人たちが読むならば少し拍子抜けするでしょう。大いに賛同する人はいないと思います。けれども、反原発の人は批判または非難するでしょう。「あなたは政府のこと、東電のこと、放射能のことを何も知らない。」と言って。私はただ、多角的に、総合的に、キリスト者として今の出来事を判断しようと努力しているだけなのに、なぜか推進派のレッテルを貼るのです。これが題名で書いている「二項対立という罠」です。

キリスト教神学にある二項対立

キリスト教の神学の中では、「人間の選択」と「神の主権」の間で、「アルミニウス主義 対 カルビン主義」の議論が盛んです。神は救いを選ばれたのに、信じると言う選択によって救われるのか?という疑問です。事実は、人間の知性では相矛盾するその二つを隣り合わせに神はしておられます。

けれども、アルミニウス主義の人よりも、カルビン主義者のほうが先鋭化しやすいです。それ関連の本を読むと、何か覚醒したような気分になり、そして理論構築のために時間を費やします。そして、反対意見に対する弁証法も身に付け、自分の信仰をその理論で要塞化してしまうのです。そしてむろん、このような極端なカルビン主義に対する反カルビン主義論も盛んです。

イエス様は?

イエス様は、どちらにも当てはまらない方でした。イエス様は「バランス」の中におられました。エルサレムにて律法学者らに試しを受けた時に、例えば、税を支払うことは律法にかなっているのかどうかと試した時に、「神のものは神に、カエザルのものはカエザルに。」と語られました。

サドカイ人が復活について試した時には、「あなたは聖書も神の力も知らないからです。」と言われました。それはパリサイ派の意見と一致していました。だからパリサイ派なのかと言えばそうではなく、むしろパリサイ派の安息日の解釈に真っ向から対立し、それゆえ十字架刑に処せられたのです。

けれども、主はよみがえられました。復活後、そして聖霊によって教会が誕生した後の迫害者は、むしろサドカイ派でした。なぜなら、サドカイ派は復活を信じないからです。そしてパリサイ派の人から信者になる人が多く出ました(使徒21章)。しかし、また他の問題が起こりました。「ユダヤ主義」というものです。異邦人も割礼を受けなければ救われないと主張したのです。

とらえどころのない真理

人間はどうしても極端になります。なぜか?それは私たちの肉を喜ばすからです。「自分」に理解しやすくなります。「自分」で全てを判断できると思ってしまいます。「自分」が正しくなります。肉の働きの中には、「党派心、分裂、分派」があることに注目してください(ガラテヤ5:20)。

真理はとらえどころのないところにあります。真理は、自分で理解・掌握することができないようにし、それに自らがひれ伏し、服従するようにさせます。へりくだって信じ、受け入れることによってのみしか悟れないようにさせます。知性を増幅させることができないようにさせます。

けれども、人間の理解を超えて、思いもつかないような偉大なことを行ないます。良い実を、真理を受け入れた人から見ることができるようにします。その人が無知でも、多くの知識人を賢くします。逆に私たちが人間的に賢くなる時、むしろ神の知恵を失うことになるのです。

日本が今、放射能汚染の危機にある時にこそ、より冷静になり、今、起こっている目の前の現象を見ると同時に、キリスト者であれば、神の視点から見る余裕、複眼的要素が必要なのです。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。(出エジプト記14章13節)

別に東京にいてもらわなくて結構です

以前「感謝の力」という題名でいくつか記事を書きました。

そして、政府や行政についても感謝することについての記事を書いています。

神によって立てられた権威

そして原発事後について感謝の足りない日本の病巣みたいなものを書きました。

「想定外」は私たち皆

それで今日、この私の意見と同じくするようなブログ記事を読みましたので、ご紹介します。

別に東京にいてもらわなくて結構です

東京都江東区にお住まいのかたがたの中に、

「原発事故前の状態に戻してこそ安心する」

と「訴え」るひとがいるということに、驚愕しました。

・・・

銀座や日本橋に近い、利便性の高い江東区を含め、狭い狭い、東京とよばれる小さな平野に、集まりひしめく3000万人の人々。彼らが出すごみ、汚水を、想像を絶する量とスピードで処理するお役所・・・ゴミ処理場に、下水処理場。下水を、信じられないほどきれいな水にして、汚泥を分離して、それも埋立るだけではなくリサイクルする。

我々3000万人の、首都圏住民たちが垂れ流す汚物を、来る日も来る日も。

そんな社会の公共施設を、運営していく、そのことが、どういうことか、一片も考えず、たぶん生まれてから一度も感謝などしたこともなく、安全と安心はタダだと思って生きてこられたのでありましょうね。

いえまさか、「広い東京の、全体の下水処理を、最後に処理しているのは海沿いにある江東区。我々だけに危険がおしつけられている」とでも、おっしゃるのでしょうか?

その言葉、福島第一原発を受け入れてくれていた、福島県の人々に、同じことを言ってみてほしいです。これまで住んでいた家に住めない、避難区域に指定された人々に向かって、都内の、下水汚泥処理建物の中に限られた、そして建物を一歩出れば毎時0・04マイクロシーベルトとなる放射線について、もう一度同じことを言ってごらんなさいと思います。

・・・別に、ムリして、東京に住んでいただかなくてもけっこうです。そうでなくても、東京一極集中で、狭くて混雑しててかなわんのです。

どうぞ、日本の、いえ、世界の、どこへでも、好きなところへお移りください。

月曜日、日帰りで東松島に行ってきました。牛網の避難所は仮設住宅に移った人が多いためがらんとしており、とても寂しい気分になりました。けれども残った数少ない人たちが、「けれども、こうやって一緒に食事作ったりして(共同生活が)楽しいよね。」と笑いながら仰っています。以前はある男性の方が、「これまで日本が嫌いだったが、今回の被害で本当に日本が良い所だと知るようになった。」と言うのです。

このような感謝の心を持つことのできた人々が、これらの良き物が神から来たことを悟る日が来ることを願ってやみません。

ですから、マスコミや外野が、被災者の人たちを可哀そうだと言って政府やその他の関係の人たちを非難していますが、よっぽど現場の人たちは明るく、腐っているのはそうした安全圏にいる私たちの精神なのです。

もちろん被災地の人たちは聖人ではありません。けれどもそれは、多くの人たちが想像するような鬱や自殺ではなく、田舎ならではの縄張り争いだったり、または人間の共同生活につきものの意思伝達における誤解であったりして、必ずしも地震や津波によって引き起こされたものではありません。

最後に、この記事を探したのは、被災している福島県民の方のブログです。当事者として放射能の危険性について決して甘く見ていないけれども、煽りの多い情報を整理して、冷静な見方を提供してくださっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare

NHKの偏向報道

今月24日で、アナログ放送がなくなることを良い機会に我が家ではテレビそのものを見ないことに決めました。理由は、NHK料金を支払いたくないからです。

NHKの放送内容に反対して料金を支払いたくないのではなく、単純にそんなに番組を見ていないのに高い料金を払いたくない、というのがあります。むしろ、NHKの淡々とした原子力発電に関わる情報や被災地情報は、二次資料としてとても役に立っています。また、一次資料や当事者へのインタビューに果敢に取り組み、NHKスペシャルなどで良質のドキュメントを制作しているのにも関心します。

進化論とパレスチナ

けれども、NHKであまりもの偏向ぶりに開いた口が塞がらない分野がありますが、一つは進化論です。これは完全に事実としてずっと流しているのには驚きです。そしてもう一つは、「パレスチナ問題」です。よくもまあ、こんなイデオロギー色に満ちた、報道ならず主張と宣伝の番組を作れたなあと思います。この分野も進化論と同じく、長いこと作り続けているようです。

クローズアップ現代
瀬戸際の中東和平 パレスチナ独立巡る攻防

一方的なパレスチナ国家独立宣言を国連に承認してもらうパレスチナ自治政府内の動きを報道していますが、ハマスとファタハが統一政府発足は具体的には全然解決策が得られていないこと、国際社会から一方的独立の支持が全然得られていないのに(ヨーロッパ連合など)、あたかも得られているかのような言い方、そしてイスラエルがこの動きを警戒しているのは、イスラエルの存続そのものが極めて軍事的に困難になることであるのに、まるで国内の宗教右派の圧力によって行っているという見せ方。

そして、ネタフヤフ政権になってから西岸の経済が順調になり、また彼が交渉の席に着くことも何度も何度も表明しているのに、歩み寄りが一切なかったという物言いなど、それをあたかも中立的、客観的に聞こえるように淡々と話しているので、「なんじゃこりゃー!」の連続でした。

「中東の民主化」⇒「一方的独立」ではない!

その中で私が悪意を感じたのは、「中東の民主化」と「一方的独立」をくっつけたことです。NHKは、周囲のアラブ諸国が自国政権に対する民衆の蜂起であるのに、パレスチナ自治区のみが民主的政府だと思っているのでしょうか?とんでもないことです、パレスチナ自治区内でも政府に対するデモが起こるのを強い監視の中で抑え込んでいました。対して、ムバラク支持のデモは許していたのです。

国外のパレスチナ難民も、シリアからはお金をたくさんもらってイスラエル国境のところでデモを行なったり、すべて「官製デモ」であります。民主主義の言う「デモの自由」というのは、あくまでも自国政府に対する自由を保証するということで、だからこそ非常に画期的なのであり、パレスチナ自治政府がそれを許した形跡を一切見ることはできません。

イスラエルでは、ハアレツ紙などまるでパレスチナ人ではないかと思われるほどのパレスチナ寄りの主張をしているのに、その表現の自由として完全に保障されているのに対して、パレスチナでは自分がイスラエル当局に協力したという嫌疑がかけられることを非常に恐れていて(一度かけられたら、パレスチナ社会全体から制裁を受けます)、公の場では常にイスラエル打倒を叫ばなければいけない状況であるのを知っているはずなのに、意図的に無視しています。

生活基盤さえない国家が必要か?

もう一つ、人というのは経済的動機が非常に強いです。飯が食えるかどうかが、抽象的独立よりも差し迫ったことであることは言うまでもありません。もしパレスチナが一方的な独立を宣言したらイスラエルから受けている民生面での協定はいったいどうなってしまうのでしょうか?イスラエルが徴収している付加価値税の送金もすべて停止するのです!国家どころか、財政や生活基盤さえ危うくなってしまうのです。

仲間のヨルダンは反対する!

そして、ヨルダンがパレスチナ国家独立に反対する意向であることをNHKは知っているのでしょうか?
http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4088927,00.html

ヨルダンには七割がパレスチナ人と言われており、隣にその人々を代表する独立国家ができることは自国の安定を大きく揺るがしかねない事情があるのです。かつてPLOがヨルダン国内にパレスチナ国家を作ろうとし、ハシミテ王国との間に内乱が起こった経験があるのです。

事はもっともっと複雑なのです。

オバマ大統領が、オサマ・ビン・ラディン殺害に浮かれて、1967年境界線までイスラエルに戻ることを要請したのと同じように、パレスチナ当局も何か浮かれているだけのような気がします。今回のNHK報道でなおさらそう思いました。

「想定外」は私たち皆

昨夜、恵比寿バイブルスタディの帰りに兄弟たちと少し交わりましたが、みなが救援活動をしているので、少し福島の話題になりました。単に天災である地震と津波はある意味ですっきりしています。けれども原発事故は「人災」の要素もあるので、以前も記事に書きましたが非常に複雑です。放射性物質の数値さえ、専門家によって変わってしまうという状況で、福島県民の方々はいったいどういう思いをされているのかな、という話をしました。

ところで政府や東電が行っている一つ一つの挙動を、鬼の首をつかんだかのように怒り、責める姿に正直、辟易しています。私は東電に対するイメージは単純に「お役所みたいなところ」ということでした。巧妙な隠蔽工作などできる暇がなかっただろうし、東電の方々には申し訳ありませんが、そんな悪魔的に(?)頭脳明晰な人はそこにはいないと思います。

役所であれば、今の被災地でも本当に機能していない姿を見てきました。また個々の避難所においてでさえ、そこのリーダーの手腕によってまるで状況が変わってくるのです。

「なぜ、今頃メルトダウンが分かったのか?」という怒りの声はもちろん理解できますが、そのような杜撰な姿は、皆さんの身近な所でもこれまでいくらでも起こってきたと思うのです。役所のようなところに行けば、きちんと対応してくださる職員の方も大勢おられますが、2-3分で終わるような手続きで1時間ぐらいかかったり、相手に非があるのにこちらが悪いと逆に責めてくるとか・・・。小さなレベルでは沢山あるのです。

私たちも同罪

はたして私たちは今回の地震は「想定」していたでしょうか?また地震の事前防災はされていたでしょうか?水、食糧、避難場所がどこにあるかなど、分かっていた方はどれだけいたでしょうか?あれだけ買いだめしたのは、今回の地震が「想定外」だったからではないのでしょうか?

(私も、3月11日の二日前、沖縄カルバリーチャペルの水曜礼拝で説教の奉仕でした。ある方が、「仙台で震度4だったって。」と仰っていましたが、私は、「いつもの事だから。」と言って親に連絡しようとはしませんでした。だから、地震が起こって通信不能になった時に後悔しました。)

私たちでさえ混乱したのですから、人間の集まりである東電という企業もまた政府も混乱し、収拾がつかなくなったというのは容易に想像できます。

そして津波で死んだ方について言いますと、死んだ人々に鞭打つことになってしまいますが、被災地で生き残った方々の声を聞くと、多くの場合「そんな大きな津波ではないだろう」と思って、自分の家に戻ったり、混雑した道路にずっと止まっていたり、つまり「想定」していなかったからなのです。

そして、「福島県民のことを考えろ!」という怒号も聞こえます。けれども、福島県民こそ、長いこと原発推進の歴史をたどってきた人々であり、実に東電やその下請けで働いている人たちが大勢いるのです。県民の方のブログにはこう書いてあります。

原発事故の被害を受けている福島の人々は、「こんな被害を受けているのに、それでも原発をとめたくないという人は、私たちの気持ちがわからない」という気持ちでいっぱいのことだと思います。
しかし、私は、原因究明なしには、それを言える段階にはありません。確かに、自然とは共存しえないものだということは人間としてはわかるのですが、どうして想定外のことが、地球に何基もあるのにわざわざこの福島で起きてしまったのかということを知らなければ、これまで福島県が原発を誘致してきた意味がなくなってしまいます。今、原発とともに福島が歩んできたのがなぜか、わからなくなってしまいます。世の中で今、言われているように、「安全だから」という思考停止に陥ってしまったから、受け入れてきたというだけなのでしょうか。私にはなんとなく、そうは思えないのです。それを知らない以上、原発反対に足を踏み入れることはできません。
私が一番腹が立つのは、被害を受けていない人で、いきなり原発反対に目覚めた人たちです。微量たる放射性物質被害を受けているからそう感じているのか、それとも福島県民に同情せんがためにそう感じているのかは定かではありませんが、真に福島のことを思うのならば、そのように安易に原発反対に舵を切れることはないはずです。これこそ、思考停止の最たるものであり、私はそういう方々を軽蔑します。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare/35372712.html

ここで言われているように、津波の被災者が「これだけの津波がなぜ三陸に、そしてこの時に起こったのか?」と言っているのと同様、「地球に原発が何基もあるのに、わざわざこの福島で起きてしまったのか」が大きな疑問であり、これはまさに霊的困惑である「神がおられるなら、なぜ・・・」という問いなのです。こちらに私たちキリスト者はもっともっと、心を使って祈っていくべきであり、その答えを聖書の神は持っておられることを、心を砕いて伝えていくべきではないかと思います。

そして反原発運動の中でも、誠実な心から行っている人々はいます。(私は反原発に反対しているのではなく、一連のブログ記事で、「恐れ」「混乱」「裁き」「怒り」などの霊的問題を取り扱っています。)例えば、次の記事を見つけました。

反原発のキャンドル・ジュン、意外な言葉「原発を推進した人を責めないでください」東京電力の職員を思いやる

やはり私は、今回の大震災で思わされているのは、「神が憐れみによって、このことが起こるのを許してくださった。ヨブと同じように、全てがそがれた後で、それでも残る「命」そのものへの根本的問いを人々がすることができるようになるためだ。」ということです。そして、原発事故のことで必要以上に不安になる、混乱する、怒る、責め立てるなどの反応は、まだ、「旧態依然の安定した、物にあふれて、どこかが病んでいる日本の姿」のままでいるからだな、と感じるのです。

曾野綾子氏の過激発言

カトリックの小説家、曽野綾子氏がかなり叩かれているようですが、以下のような発言をしています。

瓦礫を薪にして暖を取れ

曽野 「原発や被災者支援などに対するマスコミの質問もおかしかったですよ。「明日はどうなるんですか」「物資は公平に配られていますか」ですって。もうやめてもらいたいですね。この非常時に、予定どおりの明日がくるなんて誰にも分からない。
 そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。もっとひどいのは、「その委員会はいつ立ち上げたんですか」。緊急の時に過去のことなんか聞くな、でしたね。
 私は報道に関しては、あれだけの地震や津波の映像をきっちり記録してすぐに国民に知らせたり、原子力保安員や東電がきちんとぺーパーをつくって毎日現状報告をしていることは、すばらしいことだと思う。」

(中略)

曽野 「私は、未だに答えのない疑問を持っているんです。「避難所が寒くて凍えそうだ」「低体温症で体調を崩している」「温かいものが食べられない」という報道がありましたが、あれはなぜ? そこらじゅうにあんなに薪があるじゃないですか。瓦礫の処理が大変だと言っていますが、どうして木片は燃やさないんですか。
 同じ高さの石を三つ積めば竈(かまど)ができるんです。そこに、あれだけ燃やすものがあるんだから、あとはどこからか鍋を拾ってくればいい。私だったら、あそこで薪を集めて食事をつくります。」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20110518/p1

 こうした一連の発言に対して激しい非難がありますが、コメントの中にはいくつか「一理ある」としてこういう意見を言っています。

「曽野綾子の念頭にあるのはアフリカとかの日々の食事もままならない所の話。これまでの取材の経験などから最悪の想定が常人とは少し違う。だから日本のこれまでのモノにあふれた日常が甘っちょろいのであって…と言う話。」

「電気がとまれば民主主義が停止する、は『アラブの心』という著作で言及されています。「瓦礫を薪に」というのもおそらく日本財団の関係で訪問した発展途上国で見た風景を二重写しにされているものと推測します。」

実は私もこれに同感なのです。まだ批判・非難が出来ているということは、本当に被災していないのです。本当に被災した人々は、ただ黙って動いています。

被災地を含めた今回の震災の日本と私が以前いたところでは、まだ前者の方が状況は良いのです。私も分刻みの東電や保安院の報告には驚かされました。国によっては、職員や労働者はすぐに逃げて放射能は垂れ流し、政府も一年後ぐらいに、どうしようもない報告を出すだけに留まるでしょう。(そうした発展途上国が今、ドイツのような先進国とは裏腹にどんどん原発を設置しようとしています。)

そういう所にいる人々は、どんなに政府が腐敗していようが、行政が全く機能しないであろうが、不平など言えないし、言ったところで変わらないし、下手をすると投獄されます。だから、ひらすら生きるだけです。ゆえに、たくましい。

だから、私も曽野さんのように「最悪の想定」がもっと違う変な日本人(?)かもしれません。「車が流された?まあ、わが奥さんも一時間ぐらいかけて、リュック背負って泥まみれになって買い出しに行ったしな。」停電も、「えっ計画?抜き打ちじゃないようにしてくれているんだ、すごい!」と驚いたし、放射能汚染の東京の水道水も「ものすごい厳格な基準値だね!この水のほうが、他の多くの国の通常の水より、ずっときれいじゃん。」と真面目に感じてしまいました。

ですから、私はこの基準の高い日本を神に感謝しているし、同時に、その感謝を忘れているから、不安とかストレスとか、怒りが生じて、日本人を精神的にそして霊的に摩耗させているのではないか、と感じます。