カルバリー・チャペルの特徴

次に紹介する本は、これです。

「カルバリー・チャペルの特徴」(チャック・スミス著 カルバリー・チャペル・ジャパン・パブリッシング)
(オンラインで日本語で読めます。こちらから。)

この本は、私にとって影響を与えた以上のものです。95年に渡米した時は、私は信仰生活にも教会生活にも行き詰まりを感じていました。そして結婚生活にも問題が少なくありませんでした。

それを変えるきっかけとなったのが、牧者チャック・スミスによる講解説教です。ペテロ第一3章にある教えから彼が説き明かしたことは、私が考えていた結婚関係がいかに聖書の原則から逸脱していたかを知らされ、愕然としました。「自分と神との関係という根本問題を解決しなければ」という切実な思いから、その教会にいって信仰生活を歩みだそうと思ったのが渡米した理由です。

そして、そこでスポンジのように神の教えと、そして愛を吸収しました。今、そこの教会は私たちにとって霊的な実家になっています。

カルバリーチャペルと言えば、日本にもいくつかあります。こちらにリストがあります。私はカルバリー・チャペル所沢に通っていましたが、今も時々訪問しています。けれども、カルバリー・チャペルは教団でなく各教会が独立しており、またあまりにも数が多く裾野が広いので、本人はカルバリーに正式に属していなくても、その影響の中にいる人はたくさんいると思います。それぞれがたくさんの愛を受けて親密感と一体感を抱いているようです。

アメリカで、また日本に帰国してからも会ったことのある菊地さんもその一人で、今長野県で開拓伝道をされています。彼が、この本について論評しておられるので ここにリンクします。

私が支えになっているのは、何といってもその教会にある愛です。もちろん不足した部分はたくさんありますが、その欠けた部分を含めて愛し合うその交わりがあります。そして恵みがあります。他の教会では受け入れられないかもしれない過去を背負った人が、再びやり直し、主に仕えています。

そして、非常に単純に、素朴に御言葉を説き明かす説教があります。人間の教えや意見の騒がしさが一切ない、純粋に、主の御心のみを知ることのできる静かなひと時です。礼拝の賛美も落ち着いた、静かなものです。これもとても気に入っており、主イエスのみに集中できます。

そうした愛の表明として、「主よ、今すぐにでも来てください」という再臨の希望を、携挙を信じています。この信仰によって、この荒れ狂う世の流れの中で、堅く立って、ただただ主を慕い求めることができるのです。

ただでさえ忙しく、疲れさせる日本の社会です。カルバリーチャペルの特徴は、今の日本の教会の中にも本当に必要とされている事だと思います。

The Footsteps of the Messiah

次の本は、英語になってしまいます。

The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events (Author: Arnold G. Fruchtenbaum, Publisher: Ariel Ministries)(「メシヤの足跡」アーノルド・フルクテンバウム著 アリエル・ミニストリーズ出版)

著者は今や、ハーベストタイムの中川健一師が日本に招いておられるため有名になった、メシアニック・ジューの聖書学者です。けれども私がこの本を読んだのは、95年から97年にスクール・オブ・ミニストリーに通っている時で、それが神学の授業の教科書の一つだったからでした。

私に訪れた大きな霊的な転機は、帰納的聖書研究の方法を学び、主が聖書を通して自分自身に語ってくださる喜びに預かることができるようになった事でした。信者が独りで祈り聖書を読んでいるときも、また、牧者が説教の準備をしている時も、自分で新しく特別な“示し”を受ける必要はなく、ただ聖書が何と語っているのかを自分の目でじっくり見つめることによって、聖霊が心に語ってくださいます。

そしてこの本は、黙示録をこの帰納的な方法で至極体系的に注解・解説しているため、のめり込みました。特に黙示録の背景になっている旧約聖書の預言の解説が詳細であり、聖書全体が一つにつながった喜びにあずかりました。

この本が、それ以降の私の聖書預言理解の枠組みを与えてくれたと言っても過言ではありません。(例:「オリーブ山での講話」)

また、彼の他の著書で大きな助けになった本で、”Israelology: The Missing Link in Systematic Theology“ (「イスラエル学:組織神学における失われた環」)があります。この本も凄いです。

アリエル・ミニストリーズのサイト(英語)

たといそうでなくても

次にご紹介する本は、これです。

「たといそうでなくても」(安李淑 著 待晨社)

この本の題名を検索したら、まとめと感想が書かれてあるブログを見つけましたので、リンクします。→ 失格した殉教者の手記/たといそうでなくても

日本から帰ってきて間もない時から「迫害」というものについて考え始めたのだと思います。なぜなら、使徒の働きを読むと、迫害があるところに主の御言葉が前進している姿を読むからです。迫害がなければむしろ、黙示録のラオデキヤにある教会のように、何か問題があると思ったからです。

それで、この本に出会い驚きました。

外地(日本植民地下の朝鮮)にいる日本の警察が、よくもこんな酷いことができたものだと変に感心しましたが、それ以上に安利淑女史自身の迫害に対する姿勢から多くの事を学びました。つまり、迫害は準備がなければ耐えることができないということです。

どこかで私は「神が奇跡的に助けてくださるから、痛みも苦しみもこらえられる」と思っていましたが、けれども彼女は例えば、食べられなくなる時に備えて断食もしています。

結局、迫害に備えるとは、キリストとの交わりを深めて聖められていく結果、自ずと与えられるのだということに気づきました。主が与えられた八福ですが、迫害される幸いは最後に来ますね。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:10-12)

これは、まず「心が貧しくなり」次に「悲しみ」、そして「柔和」「義への飢え渇き」「あわれみ」「心のきよさ」「平和」を十分経験している人が与えられるものです。何かどこかで迫害を英雄化し、独り歩きさせていたことに気づきました。牢獄で死ぬことは想像しても、自分のことを噂する教会の人には我慢がならない、では意味がないのです。

日々のキリスト者としての歩みを確かにすることこそが、日本において、きたる迫害に備える最短の道であることを思わされます。