何を予期すべきか? 2

2)ユダヤ人とイスラエルの位置づけ

そして「何を予期すべきか?」の小冊子、またホーリネスが受けた迫害の記録を読み、もう一つ驚くことがあります。それは、彼らが迫害されている理由の一つに、神のご計画の中におけるユダヤ人の位置、近現代イスラエルの位置を認めているということでした。

大井:「学校は教育の場所で宗教儀式がありません。神社は儀式を信仰上の対象物としているから出来ません。」
刑事:「屁理屈をこくなっ、そんな馬鹿らしい事を言う奴は手前一人位だ。日本人じゃない。ユダヤ人かアメリカ人だ。(荒々しく)帰れ、さっさとユダヤかアメリカへ帰れ。わかってかっ。」

この捨て台詞に「ユダヤ人、アメリカ人の仕業」があります。アメリカは当時敵国ですからまだしも、なぜユダヤ人なのでしょうか?実は、戦時中の思想統制の中で反ユダヤ主義が利用されていたからです。

ホーリネスの人々は、国体を信じていましたから、自分たちが捕まえられたことがまさに晴天の霹靂でした。しばらく捕まえられた理由が分かりませんでしたが、1)キリストを地上における神の国の王としているのが、天皇を王とするのと対立する。

そして、2)ユダヤ人が回復し千年王国が立てられることは、「東洋を搾取するアメリカを裏で操っているのはユダヤ人である。」という考えがあったからです。(詳しい資料が集まっている「ユダヤ人陰謀説―日本の中の反ユダヤと親ユダヤ」(ディビッド・グッドマン著 講談社出版)をご覧になるといいです。)

これも、今、一番話題の話になっています。日本語の資料で世界情勢を知ろうとするにあたって、多少なりとも人気があるものは必ず、「反米主義と折り重なる反イスラエル・反ユダヤ主義」が登場します。そして英語のウィキペディアを見ますと、これが「新・反ユダヤ主義」という枠に入るらしいです。

なぜ、そうなるのか?理由は簡単です、「聖書全体をそのまま信じる信仰のゆえ」であります。聖書をそのまま信じれば、イスラエルとユダヤの位置を認めざるを得ません。たとえそう表明しなくても、彼らに対する態度は柔らかになっても、硬くなることはありません。彼らの存在そのものが、神の言葉がその通りであるという証人であり、証人として立てているのは神ご自身です(イザヤ44:8)。だから神を否定したい「世」は、反ユダヤになりざるを得ないのです。

したがって、キリスト者で反ユダヤになることはありえない”はず”なのですが、純粋な信仰的立場を保たず、何か自分の信念や、他の人間的な哲学、自分の感情などを入れると、反ユダヤ・反イスラエルになっていきます。近年はそれに「反アメリカ」が加えられます。私自身もアメリカのことで嫌になることは時々ありますが、あくまでも実際の特定の出来事についてです。(しかも私はクリスチャンですから、そういう嫌悪感を抱いてはいけないという思いが聖霊から与えられます。)けれども、そのような人々が書いているアメリカは観念的で、潜在的な嫌悪・憎悪があります。アメリカという国のあり方そのものを否定しているようです。

その典型的な例は、イラン大統領のアフマデネジャドの立場なのですが、それはまた別の機会に話すことにしましょう。

話を戻しますと、日本ではそのような反ユダヤ主義が言論上で流布しています。そして実害も伴っています。最近では、オウム真理教による地下鉄サリン事件は、ある反ユダヤの本を引用しつつ、彼らは実行に移しました。

ところが日本という国は不思議なもので、同時に政府や官僚レベルではユダヤ人やイスラエルに対して中庸、または擁護する人たちもおり、戦前の日本はドイツの反ユダヤ主義政策とは違い、比較的中立な立場を保っていました。今も、言説は反イ
スラエルがほとんどなのに、国としてはイスラエルと友好関係にあります。

したがって、反ユダヤ主義は、元々ユダヤ人への迫害につながる考えなのですが、日本では、ユダヤ人が少ないということもあって、キリスト者への迫害の時に登場するということができます。ことに聖書主義の信仰を持っている人たちが攻撃の的になります。

(「何を予期すべきか? 3」に続く)

何を予期すべきか? 1

次のご紹介したい本はこれです。

「何を予期すべきか?」(ミス・フィウェル編集 美濃ミッション出版)

これは、美濃ミッションという、戦前に米国からのワイドナー女史が開拓し、起こされた教会のグループが受けた迫害の記録です。リンク先を見ていただければ簡略とpdfファイルがあるので、クリックしてみてください。「美濃ミッション事件」という日本全体を巻き込む、神社参拝拒否の記録です。

これはもともと”What to Expect”という題名で英文で発表されたものです。

この小冊子を読む度に、自分の魂が揺り動かされます。非常に短い文章の中に、数多く学べる所があるからです。

1)信仰の純粋性

現在、日本の国家主義化についての問題を教会内で聞くとしたら、いわゆる主流派からのものです。天皇制であるとか、日の丸・君が代問題、靖国参拝など、日本基督教会などの教団から出たものです。

けれども、この小冊子を読みますと、迫害されていた団体や個人はほとんど、今でいう「根本主義(ファンダメンタリズム)」「聖書主義」の範疇に入る人たちばかりです。美濃ミッションの子弟は、キリストの地上再臨、そして教会の携挙を堅く信じています。神学的には、千年王国前の再臨、大患難前携挙を信じています。牧師らが逮捕・投獄されたホーリネス教団も同じ立場です。個人でプリマス・ブレザレンの医師も投獄されましたが、その団体も聖書主義です。

迫害に耐え、信仰を保ち続けることのできた人たちは、皆、聖書の言葉を文字通り信じ、主イエスの再来、地上の神の国に強い待望を抱いていたのです。

表向き「神社参拝」の問題を取り上げているのですが、現在と当時ではその意図に大きな差があるのです。

この冊子の最後のところに、取調べを受けている美濃ミッションのある母親の記録が載っています。彼女は文字を読むことのできない料理人だったようです。にも関わらず、静かに、取調官の脅しに弁明し、明確に信仰の表明をしています。

刑事:「手前は参拝したらどうなるか。」
大井:「神様に罪を犯します」(永遠の滅亡と御再臨について話す)
刑事:「(嘲笑的態度にて)へえ、とんだ事になるな、それは本当か。」
大井:「私は信じます、キリスト様御再臨の時、信者は天に携え挙げられ、そのあと大患難の時代になります。」
(注:漢字は今のものに直しました)

ここで非常に驚くのは、一般の信徒の人が、しかも文字が読めないという人が、ここまで明確に、筋道立てて、警察権力の前で信仰表明が出来ていることです。

今の日本であれば、また世界の教会の今の流れであれば、主の再臨は「終末論」という小難しい神学議論、神学論争の中で埋没し、どこかの遠い話になってしまいます。一般の信仰者たちが生活の拠り所とするなど、程遠い話です。

さらに教役者らの間でさえ、聖書を純粋に信じる信仰から離れ、今の流れに合わせて行こうと言う動きが、日本だけでなく世界中で見られます。

私がこの前米国を訪問した時、恒例の聖書預言の学び会を行ない、また、ある人から教会の中の聖書の学びに招かれました。けれどもそのことを知ったその教会にいる韓国の宣教師夫婦が、私たちの聖書預言学び会に立ち入り、私に神学的試問(?)を行い、さらにはもう一つの教会の中での学びを中止させ、仕方がなく他の場所に移して行なった家庭集会の中にまで入ってきて、私を危険なカルト的教師であることを延々と語りました。

びっくりしたのはおそらく周りの人々だったでしょう。その家の主は「これまで黙示録など分からない書物だったのに、チャック・スミスの本を読んで、こんなに分かりすく、身近に感じたことはなかった。」と言うことをおっしゃっていました。

後で、「教会による迫害」について述べたいと思いますが、このように昔も今もまったく変わりなく起こる現象なのです。

大事なのは「実」です。イエス様の今すぐにでも来られるという信仰を抱いて、はたしてどのような実が結ばれているでしょうか?「いつ来るか分からない。だから再臨については話すべきではない。」とする人々からどのような実が結ばれているでしょうか?

本当に試練が来たときに、神学論争の中にある「教理」が私たちを救うでしょうか?いや、私たちの血肉となった御言葉が、信仰による希望が救うんでしょう!

(「何を予期すべきか? 2」に続く)