キリスト教の結婚式

今日、恵比寿バイブル・スタディに来られているカップルの方の結婚式に出席する光栄にあずかりました。招かれた人はさほど多くなかったのに、恵比寿BSの仲間をたくさんその中に加えてくださり、本当に感謝でした。いろいろ主から教えられたことがありますが、いくつか分かち合いたいと思います。

1.キリスト教の結婚式は、まさに神への礼拝である。

日本人の人たちでキリスト教式に挙げる人が多いかと思いますが、今回改めて感じたのは、普段、教会の礼拝で神をあがめる習慣のない人には、結婚式の醍醐味を本当の意味で味わえないのではないかということです。

結婚式の主役は誰か?新郎新婦か?それとも、新婦が後に出てきて中心的な存在となるが、新婦が主役なのか?そして司式を行なう牧師が中心なのか?いいえ「神」ご自身が中心です。神への賛美から始まり、それから神の言葉の朗読を行ない、それから新郎新婦の入場があるが、彼らは神の前でその結びつきを誓います。牧師はもちろん、二人を神が結ばせるということを宣言する仲介者にしか過ぎません。

ですから、天地万物をお造りになった方を、キリストにあって知らない者は、この意義を知ることができず、非常に表面的な理解しか与えられないでしょう。

そして今回、「新郎」が「新婦」より先に入場し、「新婦」が次に入場するがそれが中心で参加者らがその真っ白なドレスに象徴される清純の美に集中し、新郎が新婦を待っている順番に注目しました。これはまさに、「キリスト」とその花嫁である「教会」の関係を表しています。

イエス様が弟子たちより先に、天に行かれました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:2-3)」

そして花嫁は、この地上にいる間に清らかな、美しい姿へと整えられます。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:27) 」

そして花嫁が天に招きいれられるとき、天では花嫁の白さに天は見入ります。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。(黙示19:8-9)」

したがって新婦の入場そのものが、キリストと教会の神秘的関係を表す、神への礼拝の一形式なのです。

したがって、お二人をお祝いするつもりで参加させていただいたのですが、神の御業をお祝いすることを体験し、自分自身も祝福をいっぱい受けました。

2.披露宴は、ご本人たちのことを多角的に知ることができる。

披露宴には、新郎と新婦のそれぞれのご家族、そしてそれぞれのつながりのある人々が集まり、お二人について聖書の学びでしか会っていなかったところを、その人々に出会うことにより、多角的に知ることができる恵みにあずかりました。会社の代表取締役の方も来られたし、新婦さんの幼馴染の方々、そしてサークルの人々のことを見て、お二人がどのような方々なのかを再認識できて嬉しかったです。私たちの存在も、他のグループの人々に、お二人のある一面を知るきっかけになっていてくれればなあ、と願っています。

ところで、突然、前触れなしに新郎新婦が指名の数名に、祝福の言葉を述べる人々の一人になってしまいましたが、1.に書いた感動の余韻が残っていたのでしょうか、他の方々は「末永くお幸せに」と挨拶しておられたのに、私は「結婚生活は短いです。天に行ったら、結婚関係は存在しません。その数少ない日々を一日、一日大事にして生きてください。」と言ってしまいました。

これからの門出なのに、なぜそれが短いと言うのか?と疑問に抱かれる人もいるかもしれません。でも、男女の結婚というものが存在しない天における「永遠」というものさしにかけたら、これからの数十年は一日のようにわずかな間です。お年を召したご夫婦なら、このことを実感できると思います。時は短いことを知り、その間に、キリストと教会を表す、神の立てられた結婚制度をじっくり味わうことが大切です。

私も自分の妻とは、この終わりの日の行き着くところを意識しながら、いつかこの関係が解消される日が来ることを意識しながら、一日、一日を楽しんで生きていこうと確認しています。結婚は、天に入ったら、「あの時は本当に良かったね。」と互いに言えるような、この地上に神の下さった賜物だ、ということで。