オバデヤ書に見る「エドム根性」 - 国際援助に頼り切るパレスチナ人

そして、パレスチナ人にある問題は、闘争もさることながら、国際的な援助に頼り切っていて、自らの力で働くことを放棄してしまっていることがあります。

現実のガザは封鎖下には無い(エジプト人記者による報告 日本語訳)

イスラエルがガザを封鎖していて、それで酷い惨状であると騒がれていますが、上の記事と写真はそれを真っ向から否定しています。

もちろん一般のパレスチナ人には多くの人がまじめに働き、勉強している人もたくさんいると思いますが、パレスチナ人が働かないという不満と嘆きを、現地の人たちから、またパレスチナ援助団体の人たちからしばしば聞きます。

このことと、エドムがボツラの自然要塞、そして同盟者を抱えて安逸を貪っていたことと重なるのです。

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。(オバデヤ書3節)

つまり、「弱者」であると言いながら、実はその立場を当然の権利として利用し、イスラエルを、そして世界を使い回し、弄んでいるのが現状ではないのでしょうか?オバデヤ書によると、このような生活の行く先は「破滅」しかありません。

私は、ここで反パレスチナの言説流布のために記事に書いているのではありません。今年5月の旅行でパレスチナの人たちに親近感を抱いたし、実際にその姿は好印象でした。けれども、今、世とマスコミが見せるその地域の姿では分からない、根本的な問題を聖書から検証したいのです。

ですからエドム人に見る気質は、パレスチナだけでなく人間全体にも見ることができるもです。次に、他の国々のこと、そして最後に日本人である私たち、そして個々人の生活に踏み込んでいきたいと思います。

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - 世界貿易ビル倒壊を喜んだパレスチナ人

これはかなり前の出来事になりますが、人の受けた悲劇を見て、大喜びで飛び上がる人たちにある「復讐」の念は恐ろしいものがあります。もうお分かりだと思いますが、彼らの喜びと、バビロンによってエルサレムが破壊された時の喜びは、同じ根なのです。

イスラエル兵をリンチにしたラマラのパレスチナ人
(2000年、第二次インティファーダ勃発直後の事件)
http://en.wikipedia.org/wiki/2000_Ramallah_lynching

ハマスの子」の著者モサブ・ハサン・ヨーセフ氏は、自分がイスラエルの刑務所に入っていた時に、ハマス同士の虐待、リンチを見ました。これが、彼がイスラエルのFBIであるシンベトに協力しようと思った、大きなきっかけでした。彼がこう言っています。

私は、もしイスラエルが無くなったら、パレスチナ人は何をするのかと考えた。状況が1948年以前に戻り、イスラエル人が聖地を捨てて、また散らされたらどうなるのだろうか?私は解答を得た。パレスチナ人はまだ戦っているだろう。何の意味もないものの為に。スカーフを被っていない女性のことで。誰が一番力持ちで重要なのかを争って。誰が規則を作り、上席に座るのかについて。(124ページ)

この残虐行為は、イスラエルに対する憎しみから初めは生まれましたが、それが発展してうぬぼれ、高慢へと変遷した結果です。これもエドムの辿った道と同じなのです。

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - エドム人とパレスチナ人

オバデヤ書」は、現代のヨルダン南部にいたエドム人に対する預言です。彼らの特徴は、次のようなものでした。

1)父祖エサウが弟ヤコブから受けた仕打ちに発している。長子の権利を奪い取られた憎しみと恨みが、その子孫代々に受け継がれた。

2)ヤコブまたその子孫のイスラエルに対して神は、エサウが兄だから争ってはならない、その土地を取ってもいけないと命じられ、イスラエルはそれに従ったが、エドム人は戦争も辞さない態度で対峙した。

3)神が「兄が弟に仕える」と言われたように、エドムは基本的にイスラエルに従属していた。士師の時代から絶えず戦っていたが、ダビデとソロモンによて従属し、そこで劣等感が強くなった。機会のある事にユダを攻撃した。

4)ユダがバビロンに滅ぼされる時に、彼らはエルサレムの破壊を見て喜び、苦しみ逃げる人々を封鎖し、城内の財宝を貪り、またユダの地を我が物にした。

5)エドムは自分の自然要塞ボツラで高慢になっていたが、根こそぎ滅ぼされた。

現在「パレスチナ人」と呼ばれている人々はアラブ人であり、エドム人とは民族的に異なりますが、私が危惧するのは同じ気質をもってイスラエルに対峙しているのではないかと、いうことです。

パレスチナ人は、「自分たちの土地が48年の戦争で奪われた」という強い怨念によって動いています。けれども、そこには47年の国連分割案をアラブ諸国が拒否したことによる悲劇であり、一重にイスラエルのせいではありません。

そしていくつかの戦争を経て、ようやく進んできた和平交渉の席を故アラファト議長が蹴り、第二次インティファーダを引き起こしました。けれども、それをもイスラエルは乗り越えて、現在、直接の和平交渉の場に呼び入れようとしています。ところが、現在のPLOの議長のアッバス氏は、こんなことを言っています(7月6日)。

If all of you [Arab States] will fight Israel, we are in favor. Palestinians will not fight alone because they don’t have the ability.(あなた方みながイスラエルと戦うのであれば、私たちはそれに乗ずる。パレスチナ人は独りだけで戦わない、その能力がないのだから。)
http://www.palwatch.org/main.aspx?fi=157&doc_id=2543

まだ闘争路線を捨てていないのです。

今のパレスチナがこの闘争を行っていないから、イスラエルは経済的支援も惜しみなく行ない、西岸はこれまでになく経済的に発展しているのです。私も実際、そのパレスチナ人の人々の顔を見て、何か希望を見た気持ちでした。

けれどもパレスチナ人の誇り、またアラブ人たちの誇りは、未だ「イスラエル打倒」の考えに依拠しており、イスラエルの国の存在を本質的に認めていません。彼らは実に、「自国の建設に対する情熱よりも、イスラエルを抹殺するという情熱の方が勝っている」のです(「つのぶえ誌」2010年8月号より)。

私はこれまでイスラエル側の記事も追ってきましたが、ユダヤ人が帰還した「シオニズム」から始まり、イスラエルの独立宣言においても、そこの住民を排除するという考えは初めからありませんでした。(右派のイルグンにはありましたが、彼らが主流になることはありませんでした。)そしてこの国是は今でも変わっておらず、パレスチナ人との共存をイスラエルは基本的に望んでいます。

ユダヤ人が絶対に譲れないのは、「ユダヤ人主権の国家」と「その生存権」、また「首都エルサレム」です。それが壊されない限り彼らはパレスチナ人を排除しようという気は毛頭ありません。

このことと、エドム人の領土を、何の害も与えることなく通過だけさせてくださいと申し出たモーセたちと、それに敵愾心を露わにして対峙するエドムと通じるものを見るのです。

世界貿易センター跡地付近にモスク建設

このニュースはみなさんご存知でしたか?

グラウンド・ゼロ付近のモスク建設計画に反対意見続出(CNN日本語版)

このニュースの重要性は、イスラエル旅行に行ったことのある人ならば一目瞭然です。ユダヤ教とキリスト教のゆかりの地には必ず、イスラム教寺院が建っています。最大のものはもちろん、神殿の敷地に建てられた岩のドームと、アル・アクサ寺院です。

これは昔のものではなく、例えば数年前もナザレにモスクを建てようとして、バチカンも動いて阻止させました

イスラム教は自分たちが征服したところを、アッラーの勝利の証しとしてモスクを建てます。つまり、世界貿易センターの跡地付近に建てるということは、ムスリムであった犯人たちが、アッラーのゆえに殉教したことを記念したいだけなのです。(左の写真はハイジャックをした犯人たち)

反対団体によるビデオ

おそらく多くのムスリムの人は、上の主張に対して「我々はそんな風に考えていない。」というでしょう。それはもちろん、個々人が意識的に考えることは少ないかもしれませんが、イスラムの神学体系の中でこのようなことが起こっていることは、少し頭を働かせたらすぐに気づくはずです。

英語の分かる方は、「ハマスの子」の著者モサブ・ハサン・ヨーセフ氏による記事もお読みください。彼は、「そんなに『大きな貢献をしたい』というのなら、モスクではなく病院を建てよ。911の遺族に何か役立つものを作れ。」と主張しています。そういう発想ができないその精神構造がイスラム教の中で出来上がっているのです。

人というのは意識していなくても、一つの気質の中で動いていることがあります。昨日「オバデヤ書」を学びましたが、そのメッセージ題は「エドム根性」でした。次に、我々人間にある「エドム人の気質」についての記事を書きたいと思います。