真理を言えなくなった国、アメリカ

続けて、世界貿易センター崩壊の跡地(Ground Zero)の近くに、巨大なイスラム教寺院を建てる計画についてのニュースです。

アメリカで賛否両論に分かれていましたが、オバマ大統領が支持表明を出しました。理由は、「敷地は私有の土地であり、宗教の自由は認められるべきである。」とのことです。

9・11跡地近くのモスク建設、オバマ氏が支持表明

一般のアメリカ人も大方、反対なのですが、共和党議員から強い批判が出ています。政治理念も個人的信条もイスラム寄りのオバマ氏は当たり前の発言をしているのですが、私はここであえて、保守派の人たちに言いたい。

あなたがたの基盤である「ユダヤ・キリスト教価値観」はどこに行ったのですか?

あの同時多発テロでの敗北は、また大統領選での敗北、そしてアメリカという大国の凋落が始まってきたのは、ひとえに「イスラム」そのものを批判する力を放棄してしまったのです。

かつてビリーグラハム師の息子フランクリン伝道師は、「イスラムは邪悪な宗教である」と言ってはばかりませんでしたが、キリスト教会の声ではなく政治家の声として、国の政治思想の基盤である「自由と民主主義」を、イスラムという宗教「そのもの」が攻撃し、否定していることを、知らないのか、あるいはあえて無視しているのです。

これは政治や外交、軍事上の戦いではなく、イデオロギーの戦いであり、信条の戦いであることを、イスラム教の内部を知っている当事者らは口を揃えて話しています。かつてアメリカが、共産主義という思想そのものに、「自由」という思想を内包的に破壊することを知っていたから、反共主義を取ったのであり、かつてのレーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだのです。

このアメリカの底力、自由のための戦士(必ずしも軍事的戦争だけでなく思想的戦争を含めて)としての存在意義がイスラムという脅威の中で完全に瓦解しているのが現状です。

「ハマスの子」の著者、ヨセフ氏のブログには、ヒトラーの「我が闘争」とモハメットの「コーラン」の類似性を挙げ、それをムスリムの人たちに挑戦状として与えています。

An open letter to my Muslim brothers and sisters

本当は、このような訴えは英語で書かなければいけませんね。(汗)

韓国発の異端

先日、ある人と話していて、それが異端であることを私が思い出し、そのことを伝えました。韓国系の異端です。

日本では社会的問題を引き起こした韓国教会の問題が取り上げられ、私たちの知るところとなりますが、それ以外にも深刻な異端活動の問題が韓国内にはあります。規模が大きく、活発に見えるというだけで聖霊の働きだと混同しないように気をつけないといけないと思います。

私がよく耳にする異端をここにリスト・アップします。

「救い派」
救いの教理についてかなりの混乱のある団体です。「喜びのニュース宣教会」として活動を広げています。

神様の教会
創始者アン・サンホンを父なる神、その後継者チャン・キルジャを天の母としてあがめる団体です。

タラッパン(屋上の間,アッパー・ルーム)運動
上のウィキペディアの説明では、異端ではないと説明していますが、韓国の教会の共通認識では異端です。

新天地
上のクリスチャン新聞の記事を読んでください。これは恐ろしい異端で、既存の教会に奉仕者と称してスパイを送り込みます。教会の役職にまで、時には牧師にまで這い上がり、その後で教会全体を乗っ取ることを戦略として持っており、実際に行っています。

摂理
これは日本でもよく知られた、元統一協会員によって始まった異端です。上のリンク先以外にも、検索にかけたら膨大に日本語の資料を得られるでしょう。主に大学生が標的にされています。

その他にも膨大な数の異端が、韓国で発生しています。日本在住の韓国人を標的にし、そして日本人も取り組もうとしていますので注意しなければいけません。

ところで私がショックを受けたのは、上にリンクしたクリスチャン新聞の記事にある、韓国の方が異端について警鐘を鳴らした次の言葉です。

韓国のプロテスタント人口は25%と言われてきたが、近年は減少傾向で20%を切り861万人。それに対し異端カルトは200万人に急増しているという。朴氏は「毎年1万人がプロテスタントから異端に移る。そのうち異端がプロテスタントを上回ることも考えられる」と危機感を表した。

もはや、「韓国の教会はすばらしくて、日本の教会はその祝福に預からなければいけない。」という時代は終わったのです。(もちろん、対等な関係で個々の教会が協力をすることを否定するものではありません。)

そして、以前の記事「韓国に弱い日本の教会」に書いた同じことを、上の異端対策専門家がこう指摘しています。

陣氏は、韓国教会の弟子訓練が教会成長に重点を置き、教理教育が手薄だったと弱点を指摘する。牧師の子弟で新天地に入ってしまう例も多く、大学生伝道団体にも入り込んでいる。

「弟子訓練」そのものを否定はしませんが、けれどもどうしても「私たちがどうすべきか」に重きが置かれます。けれども信仰の中心はあくまでも、「神はどのような方か」であり、人の行ないではなく、神の栄光なのです。それには教理教育、あるいは聖書そのものを教える務めが必要なのです。神学校に丸投げしてはなりません。