未来へのキオク


私たちはインターネットで、被災地で同じ場所の震災前と震災後を並べた写真というのを見たことがあると思います。Googleが、「ストリートビュー」の機能を使って、すぐに震災前後の写真を見ることができるようにしたそうです。

未来へのキオク ストリートビュー

このグーグルのブログ記事に説明が書いてあります。

ちなみにメインページには、写真保存プロジェクトを行っています。これはヤフーでも行っているプロジェクトですが、こちらも紹介します。

東日本大震災 写真保存プロジェクト

東松島救援旅行12月12-14日 その④

その③の続き)

木村さんは、私たちの救援活動でイエス様を信じた初めての人です。

息子の一美さんとお母さんのこなみさんと、4月10日、綾瀬東部教会で初めて会いました。お二人は、地震の時、仙台市内の病院にいました。自宅は津波に流されているだろうとのことで、他の家族や親戚のいる東京へ向かって避難を開始しました。途中で原発事故の知らせを聞いて、南下がさらに切実なものとなりました。そして、足立区の武道館に他の福島の被災者の人々と避難生活を始められました。

東京都はボランティアの武道館内での活動を許しませんでした。路頭に迷ったボランティアの人々は、近所の教会の人が活動場所を提供するという申し出を喜んで受け入れ、それでそこで活動を開始するようになりました。

私は、4月10日にそこの韓国系教会で説教の奉仕を頼まれていました。牧師さんとは1997年以来の知り合いですが、普通は同じ韓国人の牧師に不在の時は説教を頼むものです。けれども原発事故で牧師も含めて本国に帰ってしまって、見つからなかったのこと。自分自身も教会を始めているのに・・・という不満を持っていましたが、妻が「困った時にはお互い様でしょ!」と喝破し、合同礼拝にして自分の教会の人々にはその教会に来るようにお願いしました。

その礼拝が終わって交わりを持っている時に、木村さん母子に会ったのです。

その時に私たちは既に、4月4-7日の第一回救援旅行を終えています。導かれたのは東松島の牛網避難所でした。そして12-15日に第二回を計画していたのですが、出身を聞くとなんと東松島の月浜だとのこと!「月浜」は、仙台出身の私にとって思い出深い海岸であり、それも驚きでしたが、相手も私が仙台出身だとのことで非常に驚いていました。そして私は、「今、どうなっているかお宅の写真を撮ってきますよ。」と申し出ました。

その後の話は、本ブログの記事をご覧ください。(検索に「月浜」と入力すれば一連の記事を読むことができます。)

東北の被災者であられながら、東京に被災しているということで、私たちはいっしょに救援旅行に行ったのを含めて、ものすごいたくさんの時間を共に過ごしました。その中でたくさん福音を語り、お二人は私たちがただ親切にしているというだけでなく、その背後にキリストがおられることを認めるようになってきました。

そして仮設住宅が八月に月浜に与えられて以来、私たちは木村さんのお宅に宿泊させていただいて活動をしてきた次第です。

そして十月に、綾瀬東部教会で魯牧師や、同じく木村さんをお世話している同教会の石原さん親子といっしょに何時間もキリストについてのお話をし、ついに聖書の学び会を始めることに同意してくださいました!それから基本的に週に一回、学びを始めることができたのです。

そして、お母さんがイエス様を心に受け入れて、はっきりと信仰告白をなさいました!息子の一美さんも、「まだ信じられない」と言いながら、かなり自分自身がイエス様の世界に入っていることを告白しておられます。そして一美さんの妹さんもおられますが、月浜の人々に挨拶をするために、14日の午前二時頃、仮設住宅に到着しました。

14日の朝に挨拶をしました。睡眠時間が少ないはずなのに、かなりお元気です。そして、いっしょにご飯を食べて、朴牧師と姪さんとも一緒に、聖書の学びの時間を持ちました。箇所はヨハネ3章、有名なニコデモの話です。

上の写真はとてもまじめな顔をされていますが、三人は冗談がいつまでもとまらない面白いご家族です。今回は一美さんの妹さんも初めて福音を聞くことが出来、いろいろな質問をしてくださいました。ご三人はクリスマス前には帰ってくる予定です。それまで、月浜の人々に対して、特にこなみさんを通してキリストのことが伝えられていけば、と祈っています。

そして、私たち四人は松島に立ち寄り、そして帰途に着きました。朴牧師と姪さんとは、充実した主にある交わりを持つことができました。彼は韓国人でありながら、在日中国人に対して牧会をしておられます。世界宣教への想いがとても強い方です。大きな励ましを受けました。

どうか、続けて牛網地区、そして月浜地区の働きのためにお祈りください。チャックさんと由美さんが東松島に引っ越すことになると思いますが、その手続きがすべて守られるようにお祈りください。月浜に、東松島の被災の平地となった地にキリストの香りを放つ花が咲き乱れるよう、お祈りください。

東松島救援旅行12月12-14日 その③

その②の続き)

そしてすぐに炊き出しの時間になりました。談話室に動いたら、ほぼ準備が整えられていました。メニューは「醤油チキン」です。これはハワイの料理で、カルバリー所沢の牧師トラビスさんが牛網などの避難所でずっと作り続けていたものですが、いつも人気がありました。ジョエルさんのもとってもおいしく、みなさん大変おいしかったと喜んでおられました。また、私たちが近所で知り合った、信者ではないですがボランティアの人が送ってくださった古着の箱も置きました。そしてもちろん、伝道文書も並べています。

食べ物を出した後に私たちも食べ始めたら、しばらくしてコーヒーを飲みにおばさん、おばあさんたちが来てくださいました。これまでに増して、心を大きく開き、たくさんのことを話してくださり、私は時間をかけて接しつづけていったことがどれだけ大切かを実感しました。

私自身気になっていたことは、どうして月浜や宮戸島の住民がほとんど死者を出すことがなかったのか、ということです。率直に質問してみたところ、まず一年に一回訓練を受けていた、ということがあります。そして次に、これだけ大きな地震であれば、「津波は必ず来る」という危機意識です。

ある奥さんは、神社が避難所になっていたけれども、大きな機械が作動しているようなものすごい音が聞こえ、津波が接近してくると知るとその裏手にある、先ほど私たちが上った小山へと逃げたそうです。またたくまに山は水で取り囲まれましたが、水が引いた後に他の人々が避難した宮戸小学校へ動いたそうですが、大浜にあるペンションが道を塞ぎ、数十センチしかない隙間を、恐る恐る歩いたそうです。他のYoutubeの動画には三月末には、そのペンションが道を塞いでいたことを教えてくれます。


(ペンションは30秒ぐらいのところに出てきます。)

そして、もちろん警報が鳴り響きました。それにそのまま聞き従った、ということもあります。そして、お年寄りの方々は、マイクロバスがその時駐車してあったので、それに乗って宮戸小学校に逃げたそうです。その時に、いくつもの要因が良い方向で連結して流れた結果、月浜地区からは誰一人死者が出なかった、とのことです。

宮戸島は唯一の陸路をつなぐ橋が壊れたため分断された孤島となったことで有名ですが、自衛隊が橋を復旧する数日間は、ヘリコプターが救援物資等を宮戸小学校に運んだそうです。そして患者など治療の必要な人は、船が往復したそうですが、その船も海に浮かぶ瓦礫の中を恐る恐る運行したそうです。(参照記事

そしてチャックさん&由美さん、また宜野湾チームとお別れしました。彼らは、仙台市若林区にあるロイ&ナンシーさんの家に泊まっています。私たちは、仮設住宅の木村さんの家に泊まりました。

そして次の早朝、私は朴牧師といっしょに散歩にでかけました。前から気になっていた月浜海岸の右手にある小山に登ってみたいと思っていました。階段から上がると昨日見た景色よりもずっと見渡せる全景を楽しむことができました。

その④に続く)

東松島救援旅行12月12-14日 その②

その①の続き)

月浜での活動は、クリスマス・コンサートに加えて炊き出しもあります。今回、宜野湾カルバリーのチームには、沖縄バイブル・カレッジで学生の毎食の食事を用意するジョエルさんがいらっしゃいました。彼は、到着すると仮設住宅の談話室にある小さな台所を使って、夕食の準備を始めました。1時過ぎから4時半頃に出すまで、延々とそこで働き続けました。

仮設住宅には、談話室の他に隣接する小さな公民館があります。どこかのボランティアの方々が建ててくださったと聞きました。談話室は炊き出しの準備があるので、公民館を借りることにしました。

準備が終わり、まだ開始まで時間があるので、トミー牧師はザック、オーストラリア人のトムを連れて散歩しようと持ちかけました。私が案内を申し出ました。月浜海岸の説明をし、そこで8月にバプテスマ式を行ったことも話しました。月浜集落が、ニ・三軒を除いて全壊していますが、当時は瓦礫の山であったことも説明しました。そのまだ立っている家屋は、興味深いことにすべて岩の上に建っています。イエス様による、岩の上と砂の上の家の例えを思い出しました。

そしてトミーさんが、集落の奥にある神社の裏手に小道を見つけたので、行ってみました。その小山からは、月浜の裏手(西)にある海岸も見ることができました。そして、下の写真はその小山から撮った月浜集落です。

ちなみに私は改めて、津波直後の集落の姿と比べてみたいと思ってYoutubeで調べたら、上の写真の左手にある「かみの家」と呼ばれる民宿(避難所にも使われた)から三月末に撮影された動画があったので、比べてみてください。

そして私たちは、直前に家々を一軒ずつ挨拶していって、コンサートの案内をしました。

小さな公民館にたくさんの方々が来られました。小野駅前と同じように、チャックさんの日本語の挨拶、ザックのクリスマスの歌、それからクリスマス・メッセージです。

小野駅前仮設の方々よりも、熱心に、耳を澄まして聞いてくださった感じがします。前者の多くが初めて会う人々であるのに対して、こちらは何度もお会いして、掃除のお手伝いや炊き出しを続けてきました。その中で信頼関係が作られていったような気がします。

チャックさんと由美さんが、ついに東松島に引っ越すことができそうになったことを発表しました!そうしたら、みなさんがとても喜んでくださいました。もし、津波もなく普通の時にこのような引越しを話したら、決して簡単には受け入れられなかったでしょう。津波によって、むしろ結ばれている絆というものがあります。そして私たちの願いは、福音によってキリストとの絆が結ばれることです。

その③に続く)

東松島救援旅行12月12-14日 その①

みなさん、お祈りありがとうございます。今年最後になる救援旅行から昨日無事に帰ってきました。

いつもの通り、運転手のいない私たちの旅行は運転手探しから始まるのですが、今回は主催が既に仙台に引越ししたチャック&由美・ロブさんで、そしてお二人を送り出している沖縄のカルバリーチャペル宜野湾のチームによる、クリスマス慰問コンサートが主体です。私はただそこに独りで付いていこうと思って始めは同乗をお願いしていましたが、最近、妻が知り合った韓国人の牧師さん夫婦の旦那さま(朴牧師)が同行したいと申し出てくださいました。そして今、日本に旅行に来ている姪の方もいっしょに四人で足立区を出発しました。

12日午後4時頃に到着しましたが、特にその人はすることがありません。月浜を少し見た後に松島に戻って、以前、宿泊に使った湯の原温泉の隣にある500円温泉に入りました。食事もそこで取りましたが、私と妻は松島では名産のカキフライを食べましたが、かなりおいしかったです。

そして13日は午前9時に、牛網の隣にある「小野駅前仮設住宅」に到着しました。ここが牛網の避難所の人たちが数家族住んでいるところで、そのつてで、談話室でクリスマスコンサートをすることになりました。

初めに、チャックさんが全部日本語で、挨拶の言葉と自己紹介の言葉を話してくださいました!それから、ザック・ルイスさんがクリスマスの歌をうたい、そしてチャックさんによるクリスマスの話が始まりました。単純に、しっかりとキリストの受肉、そして十字架と復活の福音を語りました。そしてザック・ルイスさんのお父さんで、カルバリー宜野湾の牧師のトミーさんが、何曲か日本語で讃美を導き、それからお茶の時間になりました。

私たちにとっては、牛網の今泉さんの他はほとんどが顔の知らない方々でした。野蒜地区や浜市の人々もこの仮設には住んでいるからです。けれども、やはり津波の時のお話を分かち合ってくださりました。辛かったのは、近所で寝たきりのおじいさんかおばあさんを助けようとした方は、「私は構わないから、あなたは逃げなさい。」と言われて、逃げて助かったという話でした。仕方がなかったとは言えども、助けられなかったという心の傷は大変深いものがあります。

そして、私たちはそこでお弁当を食べてすぐに月浜の仮設住宅へ動きました。

その②へ続く)