東松島救援旅行12月12-14日 その③

その②の続き)

そしてすぐに炊き出しの時間になりました。談話室に動いたら、ほぼ準備が整えられていました。メニューは「醤油チキン」です。これはハワイの料理で、カルバリー所沢の牧師トラビスさんが牛網などの避難所でずっと作り続けていたものですが、いつも人気がありました。ジョエルさんのもとってもおいしく、みなさん大変おいしかったと喜んでおられました。また、私たちが近所で知り合った、信者ではないですがボランティアの人が送ってくださった古着の箱も置きました。そしてもちろん、伝道文書も並べています。

食べ物を出した後に私たちも食べ始めたら、しばらくしてコーヒーを飲みにおばさん、おばあさんたちが来てくださいました。これまでに増して、心を大きく開き、たくさんのことを話してくださり、私は時間をかけて接しつづけていったことがどれだけ大切かを実感しました。

私自身気になっていたことは、どうして月浜や宮戸島の住民がほとんど死者を出すことがなかったのか、ということです。率直に質問してみたところ、まず一年に一回訓練を受けていた、ということがあります。そして次に、これだけ大きな地震であれば、「津波は必ず来る」という危機意識です。

ある奥さんは、神社が避難所になっていたけれども、大きな機械が作動しているようなものすごい音が聞こえ、津波が接近してくると知るとその裏手にある、先ほど私たちが上った小山へと逃げたそうです。またたくまに山は水で取り囲まれましたが、水が引いた後に他の人々が避難した宮戸小学校へ動いたそうですが、大浜にあるペンションが道を塞ぎ、数十センチしかない隙間を、恐る恐る歩いたそうです。他のYoutubeの動画には三月末には、そのペンションが道を塞いでいたことを教えてくれます。


(ペンションは30秒ぐらいのところに出てきます。)

そして、もちろん警報が鳴り響きました。それにそのまま聞き従った、ということもあります。そして、お年寄りの方々は、マイクロバスがその時駐車してあったので、それに乗って宮戸小学校に逃げたそうです。その時に、いくつもの要因が良い方向で連結して流れた結果、月浜地区からは誰一人死者が出なかった、とのことです。

宮戸島は唯一の陸路をつなぐ橋が壊れたため分断された孤島となったことで有名ですが、自衛隊が橋を復旧する数日間は、ヘリコプターが救援物資等を宮戸小学校に運んだそうです。そして患者など治療の必要な人は、船が往復したそうですが、その船も海に浮かぶ瓦礫の中を恐る恐る運行したそうです。(参照記事

そしてチャックさん&由美さん、また宜野湾チームとお別れしました。彼らは、仙台市若林区にあるロイ&ナンシーさんの家に泊まっています。私たちは、仮設住宅の木村さんの家に泊まりました。

そして次の早朝、私は朴牧師といっしょに散歩にでかけました。前から気になっていた月浜海岸の右手にある小山に登ってみたいと思っていました。階段から上がると昨日見た景色よりもずっと見渡せる全景を楽しむことができました。

その④に続く)

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