「聖書預言の力と目的を再発見する」 その3

(「その2」の続き)

第三に、多くの牧師が預言を教えない理由は、いわゆる「預言気違い」や扇情主義を売りにする者たちと一緒にされたくないという恐れがあるからです。確かに、預言を教えようとする者の中に気違いが存在します。聖書の誤った解釈をしています。間違った結論を下しています。煽り立てます。したがって、自分の評価を落とし、評判を落としています。牧師がこれらの偽教師らを避けるべきであり、こうした方法で神の御言葉を安物にしてしまうようなことを避けるべきであるというのは正しいです。けれども、聖書預言を誤って教える者が一部にいるからと言って、健全な教師がこの話題を避けるのは理屈にかないません。福音書や書簡を誤って教えている者たちもいます。けれども、良い牧者なら、聖書のこれらの書物を正しく教えることを避けたりしません。どのような根拠で、人々を誤りに導いている偽者がいるからという理由で、聖書のすべての巻 ― イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、黙示録等 ― を教えるのを避ける権利を私たちは持っているのでしょうか。使徒パウロはテモテに教えました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、・・・(2テモテ4:2-3)

第四に、多くの牧師が預言を教えないのは、私たちの生きている時代、またキリストの到来がなおいっそうのこと近づいていることに理解が欠けているためであります。同時に、数多くの誠実な牧師の方々がイエス様を愛して、御言葉を愛しているのですが、なぜか私たちが今いる、驚くべき歴史の瞬間に引き付けられていないのです。そして、教会のために主イエス・キリストが戻られることに、人々の心を用意させる、切実な必要に気づいていないのです。これまで以上に、私たちはイッサカルの子らのような牧者たちが必要です。「時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている・・・(1歴代12:32)」これまで以上に、主イエス・キリストの教えに従う牧者たちが必要です。主は、天気予報に取り付かれるのではなく、「今のこの時代」を悟り、自分の世話すべき人々を、キリストとさらに近しく歩み、この方の到来の日がこれまで以上に近づいている今、この方に従順になるよう備えさせるのです。

【きよきよの一言】
<第三の理由>事実、私のところに来て、異端やカルト団体と一緒くたにして挑みかかってきた宣教師に会ったことがあります。そして、米国内の政治状況の中に話を引きずりこもうとしたり、私のことを極端な神学の範疇に入れた牧師もいます。両者に共通していたのは、“不安”です。終末について自分の神学的立場に聖書的確信を得ていないことの裏返しのような気がしました。

しばしば、私を聖書預言の専門家であるかごとく話す人もいますが、それもまた不安から出ているのではないかと思います。ロゴス・ミニストリーで聖書の学びを行なっている人はお気づきですが、聖書の創世記から黙示録まで、そのまま通読の学びをしているだけであり、そこに数多くの預言書があり、そこも抜かさないで教えているだけなのです。ですから私が預言の専門家ではなく、むしろ多くの教師が預言書を避けているという裏返しに他なりません。

興味深いことをある人から聞きました。ある聖書の学び会にその人は参加しましたが、ゼカリヤ書を学び始めたということでした。初めは、「この書と黙示録は関係がない。過去にほとんどが成就した。預言の書として読んではいけない。」ということでした。けれども一節ずつ学んでいったので、学びの後半部分では「終末とキリストの再臨の預言だ。」とさっさと立場を変えて、そう結論づけたのです!そうなんです、初めはキリストの再臨と神の国について何かしらの偏見があるのですが、誠実に、丹念に聖書を読み進めるなら、そういう結論になっていきます。

<第四の理由>これまで、聖書預言に関心の薄い人に欠けている部分が指摘されていましたが、決して間違ってほしくないのは、同じように信じていない方々の中に、主を愛し、御言葉を愛しているすぐれた教師がたくさんいるという事実です。自分たちと同じように信じていないからと言って、何も学ぶところがない、あるいは偽りの教師であるかのようにみなしていくのは、全く同じものさしを自分自身に向けなければいけません。救いは、イエス・キリストを神の子キリストであると信じた人であれば、それで十分なのです。例えば、ユダヤ人にイスラエルの地を与えるという約束を信じていなければ、地獄に行くのではないのです!恵みによる、信仰による救いに、それ以上の条件を付け加えてはいけません!

むしろ私は、同じように信じていない、けれども主を心から愛している方々との交わりをもっと深めさせていただきたいと願っています。御霊に満たされた人々、主を愛する人々との付き合いはこの上もなく楽しいです。終わりの日に生きるキリスト者の特徴は、寛容と柔和であります。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(ピリピ4:5)

(「その4」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その2

(「その1」の続き)

残念なことに、ここ米国また世界の多くの牧師や教会奉仕者は、聖書預言を教えていません。私の見るところでは、これには四つの大きな理由があります。

第一に、多くの牧師が預言を教えないのは、神の御言葉の力を信じることに欠けているからです。悲しむべきことに、今日の牧師の多くが、聖書を、霊感の受けた、無謬で無誤の、権威ある神の御言葉であると信じていません。主イエスは一度サドカイ人を、聖書を誤って解釈しているので諫言しこう言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(マタイ22:29)」あまりにも多くの今日の牧師や司祭が、このような感じです。聖書全てを注意深く学んでいないのです。「神のご計画の全体(使徒20:27)」を理解しようとしていないのです。預言が神から来ていると本当に信じているわけではないので、これらの預言を教えないし、神がなぜ預言を授けたかを理解するように人々を助けるわけでもありません。しかしながら、聖書の諸預言は私たちを興奮させます。なぜなら、全てを知り、全てを見、万能であられる、全宇宙の神の思いをいわば傍受した情報だからです。

預言は、神のお心にあるものを教えてくれます。ある行動を止めるように警告しています。また、聖くなること、主にもっと近しく歩むことを励まします。将来の出来事について、嵐のような警告もあります。劇的な出来事が来ることも伝えており、これらの瞬間が来た時に私たちが用意し、忠実な者として見いだされるよう備えていなければいけないことを教えてくれます。預言は、私たちが大胆さと勇気をもってキリストに仕えるよう呼びかけています。それによって、近くない将来にこの方の前に顔と顔を合わせて立つ時に、恥ずかしくないようにするためです。聖書は、神が私たちに預言を与えているのが、キリストに従う者たちを建て上げ、励ますためであると言っています。使徒パウロはこう書きました。「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。・・預言する者は教会の徳を高めます。(1コリント14:3-4)」すべての信者は、徳を高められ、勧め(励まし)を受け、また慰められる必要があるのではないでしょうか?

第二に、多くの牧師が、聖書預言についての知識が不足している、また健全な訓練を受けていないために、預言を教えていません。聖書が神の御言葉そのものであると信じている人々は、もちろんたくさんいます。けれども、様々な理由から、自分自身で注意深く聖書を学ぶ時間を取ったことなく、あるいは、神学校や聖書学校で詳しく、深く教えられたことがありませんでした。したがって、これらの預言にある真理を解き明かすように手助けするには、自分は準備ができていない、不適格であると感じてしまっているわけです。

預言の中には、もちろん複雑で混乱させるものも一部にあります。預言に言及されている名前(例えば、エゼキエル書38‐39章にある、「ゴグ」「マゴグ」「ゴメル」など)は、見慣れないものであり不明瞭です。それらの意味しているところを見極めるためには、歴史を探索するような労力が必要です。それで、牧師にはそうした研究をして自分の会衆にはっきりと正確に教えようとする興味もないし時間もないと決めてしまい、預言を教えること自体を放り投げてしまうのです。それはよく理解できます、それで私は、牧師が預言を学び教えることができるよう、最善を尽くして資料を作ろうとしてきました。また、自分に助けになった優れた資料を取り上げてきました。今こそ、預言の力と目的を再発見する時だからです。聖書ははっきりと、神が終わりの時の預言を学び教える者を祝福すると、教えています。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示1:3)」アーメン。

【きよきよの一言】
<第一の理由>聖書を神の言葉としてまともに信じていないというのが、そもそもの間違いです。そして教団や教派の信条告白には聖書の霊感を唱えていても、実際上は信じていないことが極めて多いです。そしてジョエル氏が挙げている問題は、「聖書全体を学んでいない、教えていない」という問題です。ロゴス・ミニストリーまたLCF教会では、創世記から順番にそのまま読んでいって、説教を聞き礼拝を守っています。そうすれば、神が全体のご計画の中で、キリストの十字架とよみがえり、そして再臨を頂点にする救済をお心に止めておられることは明白になってきます。昨日の礼拝でも、1サムエル記1-3章を学びましたが、ハンナがサムエルの誕生で歌った賛歌が、まさにキリスト預言でした。内村鑑三が、再臨信仰に目覚めた理由も同じでした。新約聖書の最初の言葉、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1)」も再臨の希望なくして読むことはできません。霊性や敬虔に生きることにとても敏感だった内村氏は、これこそ信仰の支柱にしなければいけないことを悟ったのです。

そして、聖書預言について教えている人の間でもそうでない人の間でも陥っている過ちは、興味本位や好奇心だけで留まっている、という問題です。霊性だけを求めているような人には、ゆえに聖書預言が有益であると思えないし、学んでいる人は知的満足で留まっています。けれども、ジョエルが言っているように、預言をまともに心に留めたら、自分が今の自分ではいけないのだ、という切迫感を抱きます。罪の悔い改めも迫られます。そしてキリストへの愛が増し、他の人にもキリストの愛を伝えたいと願います。興味をもって学んでいる人たちは、自分に果たしてキリストの形が聖書預言を学んだときから造り出されてきたかを吟味すると良いでしょう。

<第二の理由>おそらく、大部分の福音派(注:日本では聖霊派という分類もありますが、聖書を神の言葉だと信じている人々全てを含みます)教会の牧師の方々が抱えている課題だと思います。ある方が教えてくださいましたが、「神学校の授業では組織神学は、どうしても終末論が最後に来るので、さらっと流されてしまう。そして、「諸説があるので自分でどれが正しいかを判断し、決めるのがよい。」という言葉で終わってしまう。結局考える時間もなく卒業、現場での教会活動の中に入る。」とのことです。

幸い、私はじっくり学び考える時間が与えられていました。カルバリーチャペル・コスタメサのスクール・オブ・ミニストリーでは、組織神学の授業で、終末論についてはかなりの時間が割かれていました。私も教科書になっていた黙示録の注解書をじっくりと読み、自分も興味をもって調べていきました。渡米する前に、聖書の初めから、啓示されているキリストと御国の幻と、その預言的発展について、その初歩的知識をある人から教えてもらう機会があり、その時に、あまりにも恐ろしくて、畏怖の念に打たれて眠れなくなったことがあります。再臨のキリストが目の前に信仰の中で見えたのです。その後、いったいどのような預言的発展になっているのかが、知りたくて知りたくて仕方がありませんでした。その結果、帰国後、「聖書預言の旅」という拙書も書かせていただくことができました。

(「その3」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その1

8月下旬に、カルバリーチャペル・ホノルルの運営するラジオ局が、ジョエル・ローゼンバーグ氏を、終末を話題にした伝道集会に招いた時の講演内容です。これは、ハワイのカルバリーチャペル牧師会議と同じ時期に行われたので、日本から、所沢、府中、西東京、那覇のそれぞれのカルバリーチャペルの牧師や宣教師も参加することができ、帰国した彼らから良い反応を聞くことができました。

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、私の心の中では大きな影響を与えてくれた人です。とかくマニアックになりがちな聖書預言を、彼は伝道と宣教、また慈善活動において還元していく賜物を持っています。彼は「四つの法則」で有名な福音宣教団体キャンパス・クルセードに従事するかたわら生活のために政治の中で働いていましたが、ある時に政治の世界から身を引き、けれども「聖書預言が今の時代に起こったらどうなるのか」という前提で小説を書き始めました。その処女作の初版を寄稿したとき、自宅の上を911のハイジャック機が飛んでいました。自分の書いた小説と全く同じストーリーが、つまり飛行機をハイジャックして神風特攻隊のごとくアメリカの中枢部を打つ、というストーリーが展開した、ということであります。小説を書いたり、講演をしたり、そして何よりも中東地域への霊的、物質的働きかけをしている、すばらしい主のしもべです。彼がホノルルで行なった講演は、日本の信者も知らなければいけない、日本の状況、日本の教会の状況にそのまま当てはまる、基本的、普遍的内容であります。

ブログ記事”SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 1“から、少しずつ訳していきます。

【意訳】
ルカの福音書12:51-56に主イエスは、これらの言葉を語っています。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

一世紀、ローマ占領下のイスラエルの地では、大きな不安の中で人々は生きていました。自らの将来が不安でした。戦争、旱魃、飢饉、天災を恐れていました。彼らは必死に救世主を求めていました。けれども、イエスは彼らを責められたのです。なぜでしょう?イエスが叱られたのは、ヘブル人の聖書の預言が全てあるのに、その預言が来臨のメシヤが誰かを実に詳しく伝えているのに、神の御言葉の中でこれらの預言を注意深く学び、調べていなかったからです。彼らは預言を観察し、現在の出来事と比べることをしていなかったのです。彼らは「点と点を線で結んで」いなかったのです(注:異なる事実を結びつけて結論を引き出す.▼いくつもある点を線で結ぶと最後は絵ができあがるパズルから)。彼らは、聖書預言の力と目的を悟っていませんでした。イエスご自身が実にメシヤであられることを、彼らの只中に立っておられること、そして彼らを罪と悲しみから救おうとしておられたこと、救うことができるし、喜んで救いたいと願われていた事実を見落としていたのです。

今日、私たちも大きな不安の時代に生きています。自らの将来と世界の将来に不安を覚えています。イスラエルとイランの間に中東で大きな戦争が勃発する脅威が増大しています。ヨーロッパ諸国が経済破綻に陥っています。米国経済は大変な状況に陥り、財政的に道徳的に内的爆発する脅威が、非常に現実味を帯びています。暴力と殺人の波が、小さな町でさえもアメリカでは爆発しています。あらゆる形の天災に直面しています。酷い飢饉、歴史上稀に見る火事、深刻なハリケーンが再びメキシコ湾沿岸部で起きそうです。

驚くべきことは、これらの米国また世界の趨勢は、聖書預言の「終わりの日」が実に合致していることです。終わりの時の聖書預言が、私たちの周りでその通りになっているのを見ており、イエス・キリストの再臨が着実に近づいていることを教えています。しかしながら、実に少数の人しか神の御言葉を学んでいません。点と点を結んでいません。聖書預言の力と目的を理解していません。したがって、イエス・キリストがご自身に彼らを呼んでおられる事実を見失っているのです。イエス様は、彼らを罪と悲しみから救いたいと願っておられます。永遠の命を、豊かな命を無代価で与えたいと願っておられます。イエス様は、人の形として間もなく戻って来られるのです。

個人的に私は聖書預言に大変興味があり、その興味はほとんど自分の生涯の間、続いてきました。私は預言についてのノン・フィクションの本を書き、世界中で講演してきましたが、それは預言は興味をそそり、誰でも聞きたい人にはこれらの真理を分かち合いたいと強く願っているからです。同時に私は、「もし?」という前提の小説を書いています。つまり、もし、ある預言が私たちの時代に起こったらどうなるのか?ということです。どのようになるのか、どんな感じになるのか。いつ、どのようにこれらの出来事が実際のものとなるかは確実には分かりませんが、小説によって「戦争ゲーム(注:「机上演習」あるいは、戦争を模したゲーム)ができるわけです。人々に、これらの預言が何であるか、その意味や自分の生活にどう関わるのかを考えてもらうことができます。

(「その2」に続く)

伝道の時に知らなければいけない日本人の死生観

私は以前「福音の立体的骨格を伝えるには?」という記事を書き、日本における伝道の課題と、従来の「四つの法則」に代表される言葉による伝道以上の働きが必要であることを訴えました。根気よく人々に付き合っていくことが、日本の人たちへの伝道では必要なのですが、最近、次のエッセイ集に出会って、目から鱗が落ちた気分になっています。

神とか霊とか占いとか

伝道また弟子作りをしている時に、多くの人がいろいろな課題にぶち当たります。思い出すのは、津波被災地で、ある姉妹が、罪と死について、そしてキリストの身代わりの死について話したところ、多くの死者が回りにいるにも関わらず、被災者の方から「死ぬということについては、あまり考え出すと気がおかしくなる。」という返答が帰ってきました。また、つい先日も、近しい人に伝道したところ、「理屈では分かるが、あまり今は考えたくない。」という反応が返ってきたとある姉妹が話していました。

私も神道の熱心な信者に、神の義と、罪による死、キリストの贖い、そして永遠の命までを話しましたが、「そんな深刻なことを日頃から考えていたら、大変ではないのか。もっと楽しく生きよう。」ということをおっしゃっていました。ちなみに彼女は津波や原発の被災者を助けるボランティアの方であり、やはり「死」という現実に直面せねばならぬのに、この問題を避けます。

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恵比寿バイブル・スタディのお知らせ(9月5日)

皆様へ

こんにちは。連絡が遅れてすみません、恵比寿バイブルスタディのお知らせです。

日時:9月5日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第二9章以降
(その後の予定は9月19日です。)

何章まで進むかまだ迷っていますが、11章にはあのバテ・シェバとの姦淫、夫ウリヤ殺害を犯すダビデの姿を読みます。これまで、主の前にへりくだって歩んできたダビデがなぜ?と思われるかもしれません。その部分を探ってみたいと思います。

それでは、明日お会いできるのを楽しみにしています。

霊的復興とは?

(前記事「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の続き)

そこで紹介したい記事があります。カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師ブライアン・ブローダソンのブログ記事です。リバイバル(霊的復興)の定義と意義について書いています。日本にも必要な御霊の動きです。

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Revival Part2

(意訳)
リバイバル(霊的復興)の主題に入ります。初めに、霊的復興が何ではないかについて提起しましょう。霊的復興は、私たちが呼び起こすことのできるものではない、ということです。「今週のリバイバル集会 午後7時半より」という看板を掲げた教会を通り過ぎたことが、おそらくおありでしょう。リバイバルは確かに教会に関わるものですが、教会によって計画できるものではありません。神が霊的復興をいつ、どこで起こされか、私たち指図することはできないのです。私たちが自分を霊的復興に導かせるためにできる事はありますが、究極的には主権的な神の御業なのです。

霊的復興は、このように定義されてきました。「多くの信者が、聖霊による深い罪の自覚を同時に経験する時の、特別な回復の時であり、罪の告白と遺棄(時には公に捨て去る)をもたらす。最後には、主への献身を更新することになる。」リバイバルは、聖潔への新たな決意、新鮮な伝道の情熱、宣教の幻に導きます。

分かりますか、霊的復興は、私たちが信仰的に後退し、御霊に属する事柄について冷えてしまっているとき、神がご自分の民のためにしてくださる何かです。教会にはまだ通っているかもしれません、聖書を持って歩いているかもしれません、そうした決まった活動はしているかもしれませんが、心の中では、主イエス・キリストに対する親密さや全き献身から離れ去っているのです。

The Spiritual Awakeners(「霊的覚醒を与えるもの」)の中で、著者Keith Hardmanは、霊的復興に至らせる条件について、こう話しました。「霊的復興は、霊的沈滞、無気力、著しい罪の時期、名目上のキリスト者の大多数が、世俗社会の構成員と実質的にほとんど違わない時を経て、その後に普通続くものである。」

今日の私たち自身が、この状況なのではないでしょうか?多くの回心が起こっているように見え、新しい教会が始められており、ある時は、人々がぞろぞろとやってきます。けれども、実際の起こっていることを近くで眺めてみると、多くの教会が人々が来ていっぱいになっていても、その教会の中にいる人々の生活と、教会の外にいる人の生活が大きく違う、というわけではないことがはっきりしてきます。ですから、霊的復興が必要なのです!

さらなる霊的覚醒の必要

覚醒は、復興と並んでくるものであり、教会の外にいる人々に影響を与え、キリストへの救いの信仰に至らせます。一般的には、復興と覚醒は同時に起こります。神が御霊によってご自分の教会を動かし始め、新たな罪の自覚をもたらし、新たな決意を呼びかけられると、外の社会に対しても働き始め、人々に罪の自覚を与えられるのです。

これが私たちの世界で、大きな必要となっているのでないでしょうか?つまり、人々が罪の自覚の下に来ることです。人々に罪について話すとき、その考えを全て退けて、「そんなものはない」と言います。絶対真理を信じないで、真理は存在しないと思っている人に、すべての人が実は罪人であることをどのように説得できるのでしょうか?私たちは、論じる能力以上の何かが必要です。神の御霊の力が必要なのです!

Hardmanは、結論をこう述べています。「覚醒は、文化の歪み、個々人の深刻なストレスの時期に起こり始める。私たちが規範としているもの、制度の実存性、教会と国家にいる権威の正当性に信頼が失われるとき、起こり始める。」これは今日の私たちを描写していませんか?私たちは確かに、裁きを受けるに熟していますが、復興することにおいても熟しています。覚醒することにも熟しています。神の民として、このことを期待し、神がそれをもたらしてくだることを叫ばないといけません。
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参考文献:「第二次大覚醒」(ウィキペディア)

もはや保守派でも、リベラル派でもない

共和党候補がロムニー氏に決まり、その応援演説にライス前米国国務長官が駆けつけたとのことで、早速ユーチューブで探して閲覧しました。

とても分かりやすい英語で、共和党の基盤となる見方を、いや、アメリカがアメリカとして成り立っている存在意義、あるいはイデオロギーをきちんと述べているところに好感が持てました。そして私が好きなのは、彼女が黒人であるのにその思想が保守主義に基づいていること。「保守派は白人である」という日本でありがちな極めて陳腐な議論を、彼女の演説は粉砕しています。

彼女は黒人差別をまともに経験した人です。8歳の時に友人を、白人優位主義者の爆弾テロで失っていることが強烈な体験になっています。両親(父は牧師)が持っていた「教育こそが差別に打ち勝つ武器」という強固な信念を娘は具現化しました。今回の演説でも言っていましたが、次の言葉は感動的です。「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)ウールワースでハンバーガーを食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」(ウィキペディア参照)。ホワイトハウスに親が連れて行った時は、少女の彼女は「いつかここで働く」と言ったそうですが、事実、米国で副大統領の次に第三の権限を持つ国務長官になりました。(こちらに自叙伝のまとめ記事があります。)

(関連記事:「「感謝」の力 - ②私が保守的な訳」「 「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳」

ここまで言いましたが、実は、私は演説に強い力を感じることができませんでした。共和党というか、米国の保守主義全体はもう色あせており、米国全体がタイタニックのように沈んでいく、いやまだ沈んでいませんが、どこか船底に穴が空いているけれども埋められていない、という感触を持っています。

それは何かと言いますと、ひとえに「霊的底力がなくなっていること」であります。リベラル派であるオバマ大統領が出る前、米国の福音派教会が強烈にブッシュ大統領を支持した時から、その流れを見てきました。私がショックを受けたのは、ブッシュ大統領自身は信仰的に成熟しているとはとても思えないのに、教会がまるでユダ国で霊的復興に用いられたヨシヤのように担ぎ上げられていたことです。

ブッシュ氏は、米国同時多発テロという建国以来最大の危機と言ってもよい国難であった時の最高責任者として、同情もし、よく頑張ったと思っています。しかし、福音派教会が持ち上げていた割には、対テロ戦の初期段階から宗教的に世界を一つにしようとする動きに積極的に付いていっていました。日本を訪問したときは明治神宮で参拝をし、イスラム世界においては、「私たちとムスリムは同じ神をあがめている。」と発言し、政権末期の時は「私は聖書をそのまま信じていない。」と進化論に関して答えるときに話していました。確かに政治的には保守主義と取っていますが、信仰的にはとても幼い人だという印象を受けました。

それでオバマ氏が大統領に選ばれたときには、「オバマが優れているからではなく、共和党が自らの基盤を捨てて、妥協したからに他ならない。」と思いました。そしてオバマに熱狂したアメリカ人も落胆しましたが、これまでの民主党政権にもない大政府的な政策、そして民主党を支持していたユダヤ票を無視するかのようなイスラエルの軽視など、アメリカをアメリカらしくしていたものを捨てていく政策を取ってきました。そして中絶を奨励、いや要求するような法制化、同性婚の支持など、ますますキリスト教価値観から離れています。

そして共和党が巻き返すのか、と思っていたところ、なんと出てきたのはモルモン教とのロムニー氏です。ある牧師が、こう書き記しています。「モルモン教徒であるロムニー氏はイエス・キリストは堕落した天使長ルシファー(サタン)の霊的兄だと信じている。天使のキリストが受肉してイエスになったと考える点はエホバの証人と同じである。ちなみにエホバの証人では天使のかしらのミカエルが受肉したのがイエスだと考える。モルモンは、イエスはマルタやマリヤなど複数の妻を持った一夫多妻者であったと教える(ヨハネ2章のカナの婚礼もイエス自身の結婚式であったと教える)。彼らは明らかに「別のイエス」(2コリント11:4)を宣べ伝えており、聖書はこのような「別の福音」を宣べ伝える者はのろわれるべきだと断罪している(ガラテヤ1:8−9)。」

同じ「イエス」を唱えているけれども、聖書の語るイエスは、全知全能の神の御子であり、神ご自身である方と、ルシファーの霊的兄弟という、比較できぬ雲泥の差があるのです。つまり、今回の大統領選挙は、ちょうど南北に分裂した時のイスラエル、北イスラエルのヤロブアムを選ぶか、南ユダのレハブアムを選ぶか、その二者択一に成り下がっているということです。

これは何を意味しているのか?神の裁きはこれから米国に下るのではなく、既に下っていることを表しています。国の指導者は、その民の霊的状態を映し出す鏡なのです。

米国に限らず、日本でもそうですが、私が政治論議を倦厭してしまう瞬間は、「神とキリストのみによって与えられる救済を、政治家に求めてはいないか?」という疑問が出てくる時です。実はこのことについて、米国キリスト教会の中からも声が大きくなってきました。今、アメリカに必要なのは優れた政治家ではなく、神ご自身であり、教会の霊的復興、国土の霊的覚醒であるという訴えです。次の投稿に、このことについて話したいと思います。

(次記事「霊的復興」に続く)

シリアはどんな国?

中東諸国について、私たちはどうしても分からない、もやもやした部分があると思います。けれども同時に、聖書の舞台になっている地域であり、かつ聖書預言の中心であります。このジレンマをどう克服するか、私も大きな課題として個人的に本を読んだり、勉強してきました。

以前、「イスラエル人の本音を日本人が話す」の記事で紹介させていただいた、在イスラエルの日本人のブログに、シリアについての説明が書かれていました。中東の各諸国の短い説明の中でシリアの位置を確かめているところが、とても分かりやすいです。彼女はゴラン高原に住んでいる人なので、シリアは目と鼻の先にあります。ぜひ下のリンクをクリックして読んでみてください。

「砂上の楼閣」

今のシリア情勢を神の目で見るには、つねに下のイザヤの預言を心に留めていてください。歴史上、未だシリアの首都ダマスカスが廃墟となったことはありません。ですから未来預言です。

ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。(イザヤ17:1)

そしてもちろん、シリアは聖書時代には沢山出てくる国です。古代名「アラム」として登場し、ダマスコは、アブラハムがロト救出のために敵を追跡したところであり、またパウロがダマスコに行く途上で復活のイエスに出会い、回心したという大きな出来事も起こっています。アブラハムに約束された「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。(創世記15:18)」というのは、シリアの北部にある上流地域のことであります。

そして激戦地になったアレッポは、旧約聖書の最古の写本「アレッポ写本」があった場所であり、聖書的にも、遺跡の上でもとても魅力のある国です。

さらに、先日、日本の女性ジャーナリストが銃撃戦で死亡したニュースが流れたこともあり、イスラエルの安全は大丈夫かと懸念する人もいるかもしれませんが、そのことについても現場からの報告を書いておられます。

「山奥は今日も静か」

イスラエルに限らず、マスコミから流れる映像と現場とはこれだけかけ離れているものです。(例えば、最近、中東旅行から帰ってこられたご夫婦がうちの教会にいらしていますが、テロ活動が展開されているシナイ半島でも、何の問題もなくシナイ山に登ることができたのこと。こんなものです。)ロゴス・ミニストリーは2013年にイスラエル旅行を企画していますが(今でも参加者募集中!)、そういう理由で現地旅行社からの情報と状況判断に依拠していきたいと思っています。