苦しみを共にする教会

一つ思い巡らしたことをご紹介します。

恵比寿バイブルスタディではルカによる福音書、西日暮里バイブルスタディではヤコブ書、そして日曜礼拝はヨブ記を学んでいて、一つのテーマが見えます、それは「貧しさと苦しみ」です。私たちの豊かな日本の社会では馴染みが出てこないと思うかもしれませんが、私は奉仕をしている中でますます感じることは、日本こそ、精神的に、霊的に一種の貧しさと苦しみを通っているということです。

祈り会を持つたびに思う事は、教会が、決して苦しんでいる人のために祈ることは終わらないということです。小さなことですが、これまで越えられなかった自分の肉の弱さを神の恵みによって乗り越え、主の御心を行なった証し、そこに喜びを抱きます。しかしそれも束の間、次の試練が他から聞こえていきます。休むことができないのです。

しかし、そのうめきに近い祈りは、まさに神ご自身が与えられた豊かな賜物であることを知ります。
bonhoeffer
神は、教会史に霊的な巨人を各時代に置いておられます。ナチス統治下のドイツで、キリストの告白を固持したディートリッヒ・ボンヘッファーは、その一人です。

同じく、迫害された兄弟姉妹のために祈り、支援する”Open Doors“(開かれた戸)という団体が、ボンヘッファーの言葉を借りてこう書きました。

「神が教会の内に起こしたいと願っておられる逆説があります。ディートリッヒ・ボンヘッファーが言うように、「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である。」地域教会が、次のバーベキューはどうしたらよいか、クリスマスの飾りはどうすればよいという事を、世界の信仰者の仲間の日々の窮状よりも多く考え始めたら、その教会はその目的と焦点を見失ったことになります。」
(記事:”How The Gospel Has Changed China“から)

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