あなたは語る準備ができているか?

まず、次の文章を読んでください。

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とても人気のある牧師が、ユダヤ人がクリスチャンになるべきかという質問を受けたのを最近、見ました。彼はその質問に非常にぎこちなくなり、こう答えました。「私たちは同じものを信じているとは思いません、けれども、クリスチャン以下ではないことは確かです。」彼は、機会を逸したのです。

彼は、キリスト教は、ユダヤ教にその起源があり、初代のクリスチャンはユダヤ人だったと言うことができました。そして、神は救いをユダヤ人を通して備えられましたが、それはイエスを遣すことによってです。イエスは苦しみ、世界の罪のために死なれました。そして、罪の赦しを与え、その永続する命はユダヤ人、アラブ人、中国人、インド人、ロシア人にも用意されているのです。聖書は、イエス・キリストによって、救いは普遍であり、「主の名を呼び求めるものは、誰でも救われる」とあります。

私は、彼が福音を恥としたとは思いません。ただ、準備ができていなかったようです。私たちにも、十分起こり得ます。ですから、聖書は、私たちの内にある希望について弁明できるように用意していなさいと教えているのです。
Facebook Ray Comfort)
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この言葉は、「180」「進化論vs神」「ノア」の映画を手かげたLiving Watersの伝道者レイ・コンフォートによる、フェイスブックでのコメントです。「福音を恥にしたのだとは思わない、しかし、準備ができていなかった。」という言葉が大事な点です。

「ユダヤ人もイエスによって救われる」と言うのが難しい訳

この牧師がぎこちなくなった、という米国での背景をしっかりと踏まえないといけません。私たち日本人は、欧州における反ユダヤ主義という歴史から自由にされています。だから、この心理的圧力は理解できないでしょう。しかし、ホロコーストを頂点として彼らが受けてきた迫害から逃れる、最も大きな離散の地は今でも米国であります。しかし、それでもなおのこと、おおっぴろげに反ユダヤ的陰謀説を信じる者たちがいるのです。

次のビデオは、「あなただったらどうする?」というテレビ番組の一つです。ユダヤ人たちによる集会のチラシをお店に貼らせてほしいとお願に来た若いユダヤ人男女が、店員に「ユダヤ人だから駄目だ」と断っているところに、人々がどのようにその差別に声を出しているかを見ています。そのユダヤ人男女も店員ももちろん俳優です。その他は、何も知らされていない客です。

このビデオの中に、非常に怒って抗議して店を立ち去ろうとしている夫婦がいますが、これが芝居であることを告げ、どうして抗議したのか尋ねたところ、彼は「私はキリスト教の牧師です。こんな場面に出会ったら、それは声を出します。」と答えています。ちょうど、コーリー・テン・ブームの「私の隠れ場」に出てくるような、良心的キリスト者の典型です。

しかし、この中にむしろ店員を擁護している人が一人だけ出てきます。その後、彼に質問するとはっきりと彼は、「金融も、マスコミもユダヤが牛耳っている。」と、かつてヒットラーが使った言辞を、そして今も流布されている言辞を公の場で述べています。本場ドイツであればこういう人は牢屋行きですが、米国は表現の自由という価値観がありますから、捕えられることはありません。

そうした歴史的・社会的背景を持っている中で、福音をユダヤ人に伝える、イエスのみが救いの道であると伝えることは、ものすごい勇気の要ることです。なぜなら、欧州ではユダヤ人に対する迫害は長いこと、「ユダヤ人がキリストを殺した」という標語で行なわれてきたからです。ユダヤ人を迫害したのは国家権力と結びついていたキリスト教会だからです。そうした社会ができた、彼らにとっての最も寛容な(?)ことは、「キリスト教に改宗すれば問題はない」ということでした。

したがって、このインタビューを受けた牧師は、並々ならぬ圧迫感を受けたことでしょう。しかも、マスコミによる質問ですから、教会でユダヤ人が来て個人的に質問を受けたのと話が違います。公の立場としての発言であり、ゆえに単に彼を裁くことができないのです。

しかし、それでもレイ・コンフォートは、次の御言葉を取り上げて、それでも準備ができていなかったね、と問いかけています。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15)」

日本における心理的圧迫

私たちは、日本の地にいて心備えができているでしょうか?

「私の愛する家族で既に死んだ人がいます。彼らは、地獄に行ったということでしょうか。」どう答えますか?

「津波でなくなった方々は、何か特別な悪いことをしたのですか?」どう答えますか?

「先祖供養をしてはいけないのですか?なぜ先祖を大切にすることが悪なのですか?」どう答えますか?

「私は日本人ですから、大切な精神遺産を大事にしたいのです、だから神社にも参拝に行きます。」どう答えますか?

「靖国は日本人にとっての心の支えです。韓国や中国にはクリスチャンが多いというけれども、彼らは私たちの心になぜ干渉してくるのですか?」どう答えますか?

「キリスト教は戦争してきましたね。アメリカは原爆を落として、それからすぐに敗戦日本に布教しにきたのですよ。それでも日本人がキリスト教を信じろ、というのですか。」どう答えますか?

用意ができていないと、ありきたりの答えしか出せません。あるいは、私がこれまで見てきた中では、クリスチャンの多くが「政治と福音」また「道徳と福音」の区別がついていない人が多いです。また、福音から譲歩する、妥協する発言さえしています。

「十字架を見ましょう」・・この単純な問いかけをする用意はできているでしょうか?これこそ、人々が聞きたい、彼らの質問の深淵にある霊的飢え渇きを満たす言葉なのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)」

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