ディスペンセーション主義の落とし穴

今日、日本の教会の一部において、「ディスペンセーション」という言葉による神学議論が盛んになっています。一つは、ハーベストタイム・ミニストリーがアーノルド・フルクテンバウム博士の主宰するアリエル・ミニストリーズでの教えを紹介、導入しているためであり、またイスラエルやユダヤ人への関心が日本の教会で広まっているためであると考えられます。そしてもう一つは、アメリカにおいてディスペンセーション神学が教会で定着していたところ、それとは違った見方で聖書を見ていこうとする大きな流れがあるからです。

この議論についてはすでに、「ディスペンセーション主義について」という記事で詳しく述べておりますが、まだ読んでおられない方は読んでいただけたらと思います。この記事はその続きになるからです。

カルバリーチャペルで学んだ者として、そして今もその働きの一部に神の恵みに加えさせている者として、次の聖書教師・牧者の記事がとてもしっくり来ました。デービッド・グジック(David Guzik)という方ですが、カルバリーの牧者たちの中で、聖書講解と説教において深く尊敬している人の一人です。

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Pitfalls of Dispensationalism
(ディスペンセーション主義の落とし穴)

ディスペンセーション主義は、聖書を見る時、神の展開されたご計画を理解する方法の一つで、神が異なる民に異なる方法で働かれたという見方です。「ディスペンセーション」という言葉は、「分配する、すなわち、計り分ける、定める」という考えから来ています。

特に、ディスペンセーション主義は、神がイスラエルにある方法で働かれ、異邦人にまた別の方法で働かれ、また、神がイスラエルにある方法で働かれ、教会に派別の方法で働かれると理解します。このイスラエルと教会の区別こそが、ディスペンセーション主義の中心です。

私はディスペンセーション主義者です。私は、聖書の大きなテーマのいくらかを理解するために、もっとも忠実に、正直に見ていく方法だと思います。けれども、ディスペンセーション主義者が提唱する全ての考えに、その名によって通用していることの全てに同意しているのではありません。ディスペンセーション主義者が容易に間違ってしまうことがあり、気をつけなければいけないことがいくつかあります。その落とし穴が次です。

連続性はない

確かにイスラエルが教会ではないし、教会がイスラエルではありません。しかしながら、神は全時代を貫く、すばらしい連続性があります。時々、ディスペンセーション主義者がこのことを忘れてしまい、その区別を強調しすぎて、この二つの間にある共通しているもの、歴史に織り込まれている、神の連続した贖いの撚り糸を見失っています。

旧約と新約での異なる救済

ディスペンセーション主義者の一部には、イエス以前は、救いは行いに拠るものであり、イエス以後に、恵みによって、信仰に拠るようになったとします。神と正しい関係に入った者は誰でも、恵みを基として、信仰に拠って受け入れられたことを思い出すことは大切です。

今日のユダヤ人には別個の救い

ディスペンセーション主義者は、神はご計画の中で、イスラエル、つまり、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫に対して、継続して役割を与えておられると正しく信じています。しかし、一部にはこの真理を受け入れすぎて、神はユダヤ民族に異なる救いの道があると信じています。この誤謬にいる人々は、しばしば、ユダヤ人たちを励まし祝福したいと熱心であるがばかりに、救いはイエス・キリストのみあるのだということを忘れています。ユダヤ人にも異邦人のどちらにも、イエス様は、ご自身とその差し出している救いを意識的に拒んでいるものを救い出されないというのは、真実なのです。

これは私に書かれたものではない

イスラエルと教会の間を分けるのに熱心なあまり、彼らの一部には、福音書のイエスの教えは大部分はイスラエルのものであり、教会のものではないと考えます。山上の垂訓はイスラエルのもので教会のものではないと説明しようとして、それほど気にかけなくてよいとします。この誤謬を避けなければいけません。

区分(ディスペンセーション)を際限なくする

イスラエルと教会の区別を聖書は教えていますが、その明らかな例はローマ11章25‐26節です。しかし、一部には神の働きの他の時代にも明確な区別を付けています。無垢の時代、良心の時代、人間の統治の時代、約束の時代、という教義的な区分をしています。これらの期間における、何らかの神の取り扱いはあるでしょうが、個人的意見としては、聖書はこれらの区分ははっきりとしていないので、教義として区分はするべきではないと考えます。

神学の全ては、誤解され得るし、悪い適用がされ得ます。イスラエルと教会の聖書的区別も同様です。聖書を根拠にすることで、これらの過ちを避けることができるし、真理の御言葉をまっすぐに説き明かすことができます。
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前掲の「ディスペンセーション主義について」で書いたことを、はっきり言葉で書いてくれた!という気分で読みました。ここで大切なのは、「一部のディスペンセーション主義者」という指摘です。全ての人がそうだということではありません。事実、アリエル・ミニストリーズでは最後の点を除けば、おそらくその”一部”に当てはまらないでしょう。

しかし、その神学体系を誤解し、誤用しているのは、数多く見てきました。例えば、ディスペンセーションの区別など関係なく、旧約であろうが、新約であろうが、一貫している神の取り扱いについて、それも契約区分の中で考えていこうとする姿を見ました。それを教えている教師本人は、新旧変わりなく存在している霊的原則であると心得ておられるのですが、聞いている人々がその区分を際限なく行なっていこうとします。

それから、キリスト教会が聖書を説き明かすのに、「その聖書箇所はイスラエルへの約束なのに、それを自分たちのものだと思っている。」と批判、見下げる発言を何度も聞いてきました。ディスペンセーションの神学者の教える資料には、霊的適用としてすべての聖書が有益であるとしており、むしろ教会として奨励すべきものなのに、歯止めが利かなくなり、そのような批判をするのです。

上の記事のコメント欄にある方が書きこんでいたものにも同感です。「神学のレンズを持つ価値は、聖書に集中することを手助けするというところにあります。このレンズは、聖書を理解するにあたって調節していかねばならず、その反対ではいけないのですね。」そうなんです、ディスペンセーション神学体系に私も出会って、聖書に集中するのに手助けにはなりましたが、何でもかんでもこの体系に合わせようとしたら、かえって聖書が見えなくなります。

しかし、同じように、いやもっと危惧していることは、その反動の動きであります。聖書預言や世の終わり、個人的終末について、ディスペンセーション神学を完全否定して、未来に対する神のご計画、イスラエルという国や民族、その土地を軸にしたイエス様の救いの働きかけ、こういったものを全て否定しようとすることです。とても人間主義的、社会主義的な臭いを感じ、突き詰めると聖書の霊感否定につながりかねない動きです。それを取り扱ったのが次の記事です。

格好良く見せようとする教会

すべての神学体系から霊的益を得る姿勢

聖書が明らかにする終末について、訳す時間がないので自分の感想だけ述べますが、次の記事があります。

Should Christians Divide Over End Times Prophecy?
(キリスト者は、終末預言について分裂すべきなのか?)

書いているのは、カルバリーチャペル聖書学校の教師です。本人は、千年王国前の地上再臨を信じ、かつ患難前の携挙を信じています。その立場を前提にしています。私がそうだなと思った点は次です。

スポルジョン、ムーディー、マルチン・ルター、ジョナサン・エドワーズは「偉大な説教者」であるが、終末論はまちまちでした。終末論において彼らは著名なのではなく、正統性においてそうでした。ですから、終末論以上の一致というものを、その大きな視野を持たねばなりません。

千年期には、「前」「無」「後」という三つの説がありますが、それぞれに聖書がこう言っているのだろうと思われる部分があります。自身が「前」でなければ、聖書解釈としてどうしても読めないというものがあっても、「無」にも「後」にも言わんとしている、聖書のエッセンスの一部を含んでいます。

私がロゴス・ミニストリーの中で取っている立場は、もちろん千年期前再臨であり、患難前の携挙です。けれども、他の立場を取っている聖書教師や説教者から数多くのことを学びます。むしろそれらから、前説で陥りがちな落とし穴を避けることができるし(先ほど話した「聖書ありきの神学であり、神学ありきの聖書ではない」)、むしろ自分の信じている神学に深みを持たせます。

相手への尊重さえあれば、そしてその相手が聖書を愛し、キリストを愛する人であれば、必ずキリストとその福音にある御霊の一致があるのですから、聖書への確信は深まりこそすれ、減ずることはありません。

しかし、福音の神髄の部分に抵触してきそうな動きに対しては、強く反応します。そこにおいてはたとえ分裂を引き起こしても妥協してはなりません。キリストの神性、イエスの十字架における代償的贖罪、三位一体、聖書の無謬性、恵みによる、信仰に拠るだけの救い、これらは譲ることはできません。

時に「単に神学体系の違いだ、聖書解釈の二義的な違いだ」とする流れの中に、福音のこの骨格を蝕もうとする動きを感じるときがあります。先に引用した記事「格好良く見せようとする教会」の中にもそれを感じますし、「日ユ同祖論」や「日本を愛する・・の会」などには、政治的、思想的違いではなく、その背後にある福音の純正を失わせるものを感じています。

そして、この筆者の指摘した点で興味深いのは、「分裂を教会で引き起こすのは教理そのものではなく、分裂好きな人がいるからだ。」という点です。元々が分派的なので、こうした教理的排他性を利用して分裂を引き起こす行動に移るのです。デービッド・グジックの言っているように、神学体系はどれも誤解や誤用が付き物です。要は、キリストにある自分をしっかり確立しているのか、そこにある大きな神の御国の広がり、御体の姿をしっかり見ているか、にかかっています。

学べる人と、注意すべき人

そこで、ここでの記事の結論ですが、アリエル・ミニストリーズが日本で広く宣伝されたので、このミニストリーを取り上げましたが、私の聖書の個人的学びにおいて、この人たちは聖書の枠組みをしっかり教えてくれた人たちのかなり上位におられる方々であることを、再び書き記します。

そして、改革神学においても私は尊敬する人がいますが、神学体系としては契約神学であり、正反対ののものです。しかし、そこから教会と国との関係、キリストの主権など、多くを学んできました。戦時中、神社参拝を拒否したのは、ディス神学を受け入れていたホーリネス、契約神学を受け入れていた改革派の一部の方々です。私はどちらにも深い尊敬を持っています。改革神学の中に、実は、私のディスペンセーション的な御国観に深みを持たせることのできる、何かがあるのです。

しかし繰り返しますが、ずっと見ているのは「聖書」そのものでありであり、その先にある「キリスト」ご自身です。最近、ディスペンセーション神学の名前が必要以上に持ち上げられていますが、私はもったいないと感じています。そういうためにこの神学があるのではないのに・・と感じるのです。そして、ご自身の純粋な福音信仰を捨てることをしないで!と感じる時があります。

その反対に引き下げる強い動きがありますが、私は非常に違和感を抱きます。上の記事「終末預言による分裂」に何度も出てくる英単語、”respect”(敬意)が見られないのです。

大事なのは「キリスト」でしょう?なぜ、そんなにディス神学をけなすの???自分自身が、聖書ではなく、他の何かを頼りにしているのでは?一つの振り子からまた極端に振れてしまっている人も一部にいますが、元々、ご自身の立っている部分が「キリストの義」ではなく、「自分自身の義」になっていやしないか?その批判の仕方、見下し方、そうしたものに、「何を語っているか(内容)」ではなく、「その話の持って行き方」(方法)に、本当に信じているものが現われているのです。

参照記事:「教会から分離する人々

「ディスペンセーション主義の落とし穴」への7件のフィードバック

  1. 私は「ハーベストタイム」のメッセージを2年くらい聴き続けてきましたが、その中で懸念する所をお分かちしたいと思います。
    ①ディスペンセーション神学を信頼しきっている
    ②知識偏重で、実践面があまり推奨されていない
    ③「山上の垂訓は現代に適用されない」「弟子と一般信徒は別(違う)」など、そうかな?と思える細かい箇所まできっちり分ける
    ④「文脈」という定義に固執して、霊的な適用が甘い
    ⑤聖霊のバプテスマなど、自分が体験していないことは、無いもののように語る
    ⑥学びを広めることが、伝道であるという勘違い
    ⑦御言葉の解き明かしにより、自分に対する神様の恵みは深く感謝するが、滅び行く魂に対する憐みはやや無頓着
    ⑧「一度信じたら滅びることはない」説を、かなりの頻度で力説する
    ⑨「子供(年齢あいまい)は死ぬと皆天国に行く」という、聖書的根拠の薄いことを信じている
    ⑩中川師自身に独裁的な感じはないが、集まっている人たちに「中川シンパ」のような雰囲気がある

    私自身は、ハーベストタイムの学びは有意義なものであり、またディスペンセーションも基本的な部分で賛同しますが、「解釈のひとつ」と位置づけています。
    しかし、メッセージ・集会(会衆)の方向が、かなりそっちだけに傾倒しているような感じが見受けられます。

  2. エパタさん、建設的な意見・感想をありがとうございます。ハーベスト・タイム・ミニストリーズに対する批判がネット上では極端な立場からのものしか出てきておらず、その反動が私はとても懸念していたので、とてもバランスの取れた見方だと思います。

  3. いつも拝見しております。
    今回も有益な情報を発信してくださり、ありがとうございました。

    私自身もディスペンセーション主義者です。また、ハーベスト・タイムの活動からは多大な恩恵をいただいておりますし、支援させていただいています。
    しかし、この記事や、Guzik氏が提議しておられるのと同様な課題を強く感じているのも事実です。

    この立場を巡っては、Guzik氏が紹介しておられるような「一部の」ディスペンセーション主義者の神学を一般的なディスペンセーション主義神学と扱った上で議論されていることが多いですね。ほとんどの議論はストローマン論法に支配されてしまっていて、議論としての体をなしていないのが現状だと思われます。

    したがって、一度ディスペンセーション主義神学を(多数派の教義も、一部の人々の教義も含め)包括的に扱い、その中で聖書に基づいた検証を行った上でまとめて提示する必要があると考えています。そして、それを踏まえた議論が可能となるような取り組みがなされていくといいのではないでしょうか。

    ハーベスト・タイムが行われている働きもこれに近いものだと思いますが、いち神学者のセミナーという形で行われている以上、「包括的」に扱って検証していくことには限界がありそうですね。

    ディスペンセーション主義側からも、改革神学側からも、ある牧師や神学者の聖書解釈・教えを取り上げて場当たり的に(しかも感情的に)議論を展開しているようなことでは、まったく状況は開けてこないでしょう。
    (蛇足ですが、ペンテコステ神学も、同様な課題を抱えていると聞きました。)

    結局のところ、この立場を巡っては、議論の土台そのものが未だ十分に据えられていない状態だと思っています。
    ですので、こういった情報やお考えをこのタイミングで発信していただけたことに感謝しております。
    これからも更新を楽しみにお待ちしております。ありがとうございました。

  4. べいさん、

    有益な提案、ありがとうございます。全く仰る通りで、ペンテコステ神学も同じ隘路に陥っています。神学的対立の中で、本来それが目的としていた、「聖霊の力という主の御心」、ディスや契約神学では「神のご計画全体の中での私たち」という大きな意義が、容易に失われています。以前、ペンテコステ神学については以下のブログ記事を書きました。

    預言、異言、癒し、奇跡を信じますか?

    そして本ブログ記事を読み、カルバリー・チャペルに強い関心を持っている長老派教会の牧師さんが、私に個人的にメールをよこし、「もしこの理解なら、カルバリーチャペルはディスペンセーション神学というより、契約神学のラインにいるのではないか?」という質問・問いかけをしてくださいました。もちろん、契約神学ではなくディス神学に近い立場を持っているのですが、けれども的を射た問いかけです。私の返答を、一部、こちらにも紹介させていただきます。

    「カルバリーとディス神学との距離については、おっしゃっている理解で、大体よろしいのではないかと思います。素直に聖書を理解していこうとするべきなのに、契約神学、ディス神学、という枠組みがかえってその用語や定義の詰めがきちんとできていないために、容易に不毛な議論になり、聖書理解の妨げにさえなっていると感じています。

    意外に、契約神学とディス神学は近い関係にあります。それが対抗式の体系としていつも紹介されるため、共通項を確認する作業を怠り、相違点の中で埋もれているのでしょう。

    カルバリーは、ディス神学か契約神学なのかという問いかけには、私にはあまり意味のないことですし、ゆえにチャック・スミス牧師も、しばしばディス神学に凝り固まっているという批判を受けながら、実は本人はディス神学に否定的な発言さえしていた、ということになります。

    しかし、カルバリーが大切にしているものがあります。

    「今にでも主が戻ろうとされている」
    「地上に神の国が立てられる希望」
    「主がイスラエルを愛しておられる」

    ここら辺の、こだわりがあります。主が間もなく来られるから、嬉しいし、かつ伝道や宣教へと駆り立てられています。そして地上に神の国をキリストが立ててくださると信じているから、今の暗き世の中でも希望をもって生きることができます。そして主がイスラエルを愛しているという真理に基づいて、今のイスラエルに惜しみない支援をこれまでしてきました。」

  5. もう一つ、補足として、私個人の感じているキリスト教会内の終末論を取り扱う問題について書きたいと思います。

    1.そもそも、聖書全体をしっかり読んでいない。
    2.聖書全体は終末の神の国を強調している。
    3.しかし聖書全体を読まず、それを補完するかのように「神学体系」を学び始める。
    4.それで神学議論に容易に陥る。
    5.あるいは、補完として「政治思想」も入る。
    6.それで、一般のパレスチナ寄り、左派的主張に容易に陥っている。

    ある時、私の妻が、ある教会の家庭集会に参加し、「ゼカリヤ書」を読んでいきました。牧師さんが始めるにあたり、「これは過去に起こったことであり、今の私たちに起こること、これから起こることとして捉えるのは良くない。」と言っておられたそうです。しかし、彼自身は福音的、聖書信仰を持っていました。それでそのまま本文を読み進めている中で、意見が変わり、「過去のことだけでなく、将来のことも語っている。」と言い始めました。

    とても正直なアプローチです。御言葉に対して謙遜で、自分自身の意見さえ変える勇気を持っています。このような態度が必要なのではないでしょうか?

    徹底的に聖書本文そのものに拘る、恣意的な読み方ではなく、順番に素直に、理解しながら読んでいく、その時に出てくる結論を大事にすべきだと思います。

  6. でぃすぺんせーしょんの神学体系で聖書の時代区分をすると連続性がなくなる。というものがよく言われますが、その連続性を繋ぐノリの役割をしているのが神の栄光です。でぃすぺんせーしょんの立場は聖書のゴールは人類の救いではなく神の栄光です。聖書全体を読めば聖書は確かにそのように書かれています。あくまでと人類の救いはその計画の1部です。
    これらの事はでぃすぺんせーしょん神学の初歩的な初歩の段階の知識です。是非、チャールズライリーのでぃすぺんせーしょん主義という本を読む事をオススメします

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