行動しながら学ぼう! その2

(「その1」からの続き)

このロゴス・ミニストリーを始めたのは1997年のこと。聖書の学びから教会礼拝ができることを願って行なったのですが、初めに集いに来られたのは私たち夫婦を除いて二名でした。そして新しい人々が来たり出て行ったりし、ついに2010年末に聖書全巻を教え終わりましたが、初めにいらっしゃった二名のうち一名だけでした。ネットで数多くの人が聴いてらっしゃることは承知しておりますが、実際に定期的に来ていた人は一名だけだったのです。

私はスクール・オブ・ミニストリーで、牧者チャック・スミスご本人も含めて、数多くの牧者・聖書教師から学び、そしてカルバリーチャペル・コスタメサの中で奉仕もしました。だから97年に帰国して開拓しようと思ったときは、習った原則通りに行なえば必ずその原則が作用すると思っていました。けれども全然・・・だったのです。

デービッド・グジックさんが言われるように、「学校は人を奉仕者にすることはできない」のです。

私は実際に、その学校に行く前に教会で奉仕をしていました。説教の奉仕をしていました。そしてカルバリーチャペルで大切な原則を学んでそれを生かしたいと思っていました。けれども、そのようにはいきませんでした。原則を働かせるのは自分ではなく、へりくだり、忠実に主に仕えている中で、主が行なってくださることだからです。

私が何気なく立ち上げたホームページで、そして一応録音しておくか、と思って始めた音声ファイルを掲載していったのですが、それが数多くの人に聴いて、読んでいただき、これを使った学びの集まりがいくつもできて、そして今は聖書学校でも使われるようになりました。それから、2005年から2010年まで第三国で宣教活動をし、改めて教会開拓の志をもって帰ってきたのですが、集まってきたのはこのサイトを聞いている人が多く、そうでなくても初めから聖書の学びに意欲のある人々です。

やはり、学校が私を奉仕者に認めるのではなく、神がそうしてくださるのです。「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者です・・・(1テサロニケ2:4)」

たしかに知識としては教室の中で溜めることはできるのですが、実際に体を動かして始めてみなければ、その知識は機能しないことを知りました。そして機能して次の新しい理解が与えられ、それで次の一歩を踏み出すことができる、という経験の連続でした。ですから、スポルジョンが「二年間の実質的な説教の経験」という意味がよく分かります。行動に既に移している人のうちにこそ、その原則が働きえるのです。

ロゴス・ミニストリーは、初めは聖書の教えと子供への伝道で始まり、次に海外宣教、そして教会開拓へと発展しましたが、大きな飛躍は海外宣教でした。宣教については話にたくさん聞いていましたが、やはり外国に行って生活して奉仕の働きをすると、これまで見えなかったものがはっきりと見えてきました。御霊の働きというのは、神の恵みの業であること。私がその働きにほんの少しでも貢献することができないこと。そして人々の間に住むことの大切さを知り、改めて聖書を読むと、主イエス様ご自身が宣教師の先駆者であられたことを悟りました。言語はもちろんのこと、その人たちといっしょに生きることを知りました。物が無いところに御霊が働かれることも知りました。

そして教会開拓などできるのかと思い悩み、ずっと祈り、ヤコブが天使と格闘するような祈りをささげていましたが、思い切って日本に戻ってみました。すると、以前は「牧者ほど苦しみの多く、試練やストレスの多い働きはない、惨めなものだ」という否定的な思いがあったのですが、意外に楽しいものであることが分かってきました。なぜなら、この働きも上から与えられる賜物によるものだ、ということが分かったからです。「自分自身からふりしぼって羊を愛し、養わなければいけないのか、イエス様のようにはなれない!」と恐れていたのですが、自然に、これまで知らなかった感情が沸いてきました。「いつも思って、祈って、そして御言葉で養う」という愛情が、なぜか生まれるのです!ちょうど赤ちゃんがお母さんのお腹で確認できたときの親の情のようなものでしょうか、愛そのものが、自分ではなく御霊が与えられた賜物であることを知りました。

そして私が、このサイトを利用されて聖書を学んでおられる方、またその他、学んでおられる方にお願いしたいことがあります。

巷にはいろいろ学ぶ機会があります。学ぶことはすばらしいことです。聞いて、ノートにメモを書き、それで理解しようという努力することはすばらしいことです。けれども、実際の奉仕の務めをする方向に進んでください。例えば、教会学校で子供たちに教える。伝道しようとしている人と一対一の聖書の学びをしてみる。夫婦や家族で礼拝の時間を持ってみる。路傍で伝道トラクトを配ってみる。ホームレスへの奉仕の働きに参加してみる。・・・別に教えるだけが奉仕ではありません。会計をしている人もいるでしょう、礼拝賛美の奉仕もあるでしょう。人をもてなし、自分の家を開放することも立派な奉仕です。

これらをただお試しのように行なってみるのではなく、しっかりと行なってください。自分の気分でやめたり、また始めたりするのではなく、最後まで行なってください。神は忠実な者を認めてくださいます。忠実に仕えていくからこそ、初めて見えてくる神の世界があります。

このように実行に移さないと、いつも学ぶだけで、それ以上の霊的成長は望めません。祈ることを学ぶよりも、実際に祈ることが祈りについて知ることができます。伝道について学ぶよりも、実際に伝道することが伝道とは何かを知る最短の方法です。知恵は行動と共に働き、知恵は知性の理解ではなく体得そのものだからです。

聖会も徳を高めるでしょう。私も楽しみにしている集会があり、それは毎年恒例のカリフォルニアである宣教会議です。そこで数多くの霊的な益を得てきました。けれども、そこで聞いた、神から与えられたチャレンジに対して応答することが大事です。応答して、現場で具体的に実行に移して、初めて神の意図されている目的を果たすことができます。

奉仕をしていくうちに、不足を感じると思います。その不足感こそが、次の教育を受ける下備えになるのです!その時に教会の牧師に相談してみてください。指導を仰いでください。祈りを要請してください。奉仕の働きのために人を整えるのが、まさに牧者が立てられた存在目的なのです。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、・・・(エペソ4:11-12)」

そして、聖書学校や神学校がある人には必要かもしれません。つまり、これらの機関は終わりに来るのであり、その反対ではないのです。私は奉仕の働きの始まりに学校に行ったのですが、結局、神はそこで学んだことを、働きをしている今になって思い起こさせてくださり、学習させてくださっています。

行いながら学んでいく」・・・これを忘れないでください!

行動しながら学ぼう! その1

カルバリーチャペルのサイトが最近、大きな更新をしています。いろいろな牧者のブログと映像につながるようになっています。

www.calvarychapel.com
昨日新たに掲載されたもので、非常にうなずき、面白いとおもった記事が次です。

“Doing Something” by David Guzik(「何かをしている」デービッド・グジック)

意訳をしてみました。
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最近、スポルジョンの有名な「牧会入門」をまた読み始めましたが、その「はじめに」のところに以前見ていなかったものに気づきました。本書は、スポルジョンの有名な牧者大学の男性たちに行なったメッセージの集成ですが、この大学は数百人の、イエス様を愛し、神の働きのために聖書を説き明かす人たちを生み出してきました。その始めの言葉に、牧者大学に受け入れられる生徒がどのような人かを、スポルジョンが自分の考えを話している言葉が次です。

「この機関は、説教者を作り上げるための人は受け入れません。少なくとも二年間、いくらか説教において成功している兄弟たちに、さらなる教育の助けになるために設立されています。」

つまり、牧者大学は、(ある程度の成功をもって)説教を少なくとも二年間行っていなければ受け入れなかったのです。「説教者に作り上げる」ことはできないことをその大学は知っていました。ただ、その働きに召され、その働きに傾いており、そして既に行なっている人しか助けられないことを知っていました。

聖書大学や牧者訓練校における、新たな方針としてこのことを推奨しているわけではないのですが、スポルジョンが何を言わんとしているのかは理解できます。多くの人が、神に仕えるという本当の意味が曖昧になったっまあで、神の働きのための何らかの勉強を追及しようとしている、ということです。

ここに私が思っている教訓があります。もし、神に用いられたいと願うのであれば、何かを行なって忙しくなりなさい、ということです。牧者あるいは教師になりたければ、定期的に教えることに忙しくなってください。子供や青年を教えてください。あなたの若さ、気まぐれや未熟さに寛容になってくれる小さな集まりを見つけてください、そして教え始めるのです。そうした集まりを見つけられないなら、作り出してみてください。作り出せないのなら、自分で聖書の学びの準備をして、家のペットや植物に教えてください。

そうすることによって、自分の心と思いに大切な概念を建て上げることができます。それは、何よりも、あなたが教えることや宣べ伝えることは、神のためであり、神が聞かれるものであることです。そして、あなたの奉仕において神を敬うためである、ということです。牧者また教師であればどのような人も、教え伝えることはそれを受け取る聴衆がいるから重要だ、と思いがちです。聞いている人が多ければ、また影響のある人々であれば、それだけ良い、準備されたメッセージが必要であると思ってしまいます。けれども、私たちが行うことは、神が常に聴く者であることを忘れてはいけません。パウロがコロサイ3章23節で言ったことを思い出してください。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)」これは生活全般(「何をするにも」とあるように)に当てはまることですが、特に、神が下さった機会であればどんな教えることも、宣べ伝えることにも当てはまります。

私はヨーロッパで、六ヶ月近く、毎週日曜日、空の部屋で説教をした牧師を知っています。彼は忠実に準備し、教えました。神がこのような不自然なことを行うように呼ばれていると信じながら。この経験によって、彼はより優れた牧者、指導者、そして教師となり、毎週来る人々に仕えています。

神は教育の機会や機関をすばらしく用いられますが、既に何か行なっている人の生活においてそれが最善の形で機能するのではないかと思います。
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いかがでしょうか?家のペットにでも、植物にでも教えなさい、というのは「ええ、ちょっと!(笑)」と思いましたが、実際に、空の部屋で六ヶ月も説教を続けたというその牧師さんはすごいです。私がスクール・オブ・ミニストリーでしばしば聞いたのは、「聴衆が五人でも千人でも変わりなく、忠実に教えていきなさい。」というものでしたが、全然いないというのは正直、私も経験したことがありません。(さすがにペットや植物には説教したことはないですが、ICレコーダーだけを前にして行ったことはあります!でも、やはり人が聴くのだから、というのが前提でした。)

けれども、言わんとしていることは分かります。私も教会礼拝での説教はもちろんのこと、司式、公の祈りや、特に聖餐式の時には、そこにいる人々に対してしているというよりも、主の前で、主を代表して行なっているのだという意識になっているからです。

次に私自身のこと、それから他の皆さんに分かち合いたいことをお話したいと思います。

(「その2」に続く)

LCF活動内容(3月24,25日)

明日と明後日のLCF活動場所のお知らせです!

3月24日(土)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て支援室1」
  14:00 聖書の学び会(使徒の働き27章)
  16:00 祈り会

3月25日(日)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て支援室2」
  11:00 午前礼拝 申命記18章14-22節 「私のようなひとりの預言者」
  13:30 午後礼拝 申命記12-15章

<お知らせ>
午後礼拝の開始時間を午後1時半に変更しました。