「当事者」になろう! その2

その1からの続き)

「地を支配せよ」と命じられた神

私たち人間はある意味ですべてが政治家です。神のかたちに造られた人は「地を支配せよ」と命じられました。被造物の事象に積極的に、創造的に関わるのが、神が人に与えられた本来の姿です。したがって、自分が当事者であることを忘れることは、その元来の姿からの堕落を表しています。

「なぜ神はこんなことをするのだ・・・」と、あたかも自分自身が神の世界の外にいるかのように神の言葉や行動に疑問を呈するところから一歩出て、まさに自分の生活と人生の真中に神の御手があることを認めるところから真の信仰は始まります。そこには綺麗事はなく泥臭さがあるのです。自分自身が、あのむごい十字架刑の加担者であることを認めること、しかも実生活、日常生活の中で認めることが、キリスト者になる道です。自分について全責任を取る、つまり、泥だらけになるわけです。

最近、著名なクリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシー氏が来日して、3・11の一年目に合わせて来日しました。彼の講演の中身は、私は心から同意・同感しますが、今、お話していることに関連する言葉は、次のものです。

「祈りというものは、私の意思で何がしたいかということを神様にお願いするというよりも、神様の御心の中に私をどのように置くことができるかということを知ることのために行うものです。『神様、今日あなたは何をなさるのでしょうか?その働きの中に、私を加えて下さい』という祈りをすることが必要です」
http://www.christiantoday.co.jp/article/4282.html

ヤンシー氏は、「痛んだ時に神様はどこにいるのか?」という問いは、「痛んだ時に教会はどこにあるのか?」という問いに置き換えられるとし、「教会の支援活動を通して東北の人々は神を見ていた」と指摘。「宮城県を訪問し、教会が本当に傷んだ人々のため仕えているのを見た。世界中から支援のため訪れたボランティアの姿も見た。教会が与えられた仕事をしている時、周囲の人々は『神様はどこにいるのか?』と尋ねてこない。彼らの姿を通して、神を見ているからです。」
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=356

神の御心の中の当事者になろう

震災後、一週間も経たぬ時に、「なぜ神はこのように人々を多く殺されたのか?」という質問をある人から受け取りました。私は、「神は主権の中でこのことを許されただけでなく、その苦しみの只中にいて共に悲しみ、泣いておられる。」と答えました。すると、「なぜ主権の中でそれを許されたのか?もし許すのでなければ、悲しまないですむではないか?」という質問でした。その次の回答は、上のフィリップ・ヤンシーの講演全体に書かれていると思いますが、私はこう答えました。

「(返答が)手短になってしまい、すみません。なぜかというと、時間がありません。今も、実家が仙台なのでどのように救援物資を運べばよいか悩みつつ、外回りをしていました。仙台に行けるよう、主が戸を開いてくださることを祈りつつ、前に進んでいます。」

疑問を呈することができるのは、言い換えれば、災害を受けていない自分に、時間と余裕があることに他なりません。キリスト者の信仰は、前記事に書かれていた進歩派ジャーナリストのように権力者(ここでは神ご自身)を批判する安全圏にいることはできないのです。むしろ、「この災害において、あなたの御心とお働きの中に私を加えてください。」という祈りになるのです。

そして、「痛んだ時に神はどこにいるのか?」と問うのではなく、「痛んだ時に教会はどこにいるのか?」を問うべきなのです。そして教会がその痛みと共にいるときに、実際に傷んでいる人は「神はどこにいるのか?」と問わないのです。すでに、教会を通して神を見ているからです。

ケネディー大統領の就任演説の有名な文句は次でした。

「私の同胞アメリカの方々、あなたの国があなたに何をしてくれるかを問わないでください、あなたの国のためにあなたに何ができるかを問うてください。世界の市民の方々、アメリカがあなた方のために何をしてくれるのかを問うのでなく、私たちが共に人間の自由のために何ができるかを問うてください。」(And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.)

これは政治的なことだけでなく、霊的にも同じことが言えるのではないでしょうか?

「当事者」になろう! その1

次の記事に目が留まりました。

進歩派ジャーナリストの罪 – 「当事者」の時代

私は上の書物を読んだことがないのですが、書評にまとめられている主張はまったく同感でした。

妻は、マンションの役員会が予算が足りないということをずっと話しているので、自転車が過剰飽和状態になり、駐輪のマナーも悪くなっている駐輪場の年間使用費を引き上げればよいということを提案していますが、他の役員に反対されています。それで彼女がこう言いました。「これじゃ、日本に債務が溜まっていると嘆きながら、消費税率の引き上げに反対しているのと同じことじゃないですか。」

今の日本の政治を見ていて、いや、日本全体の雰囲気が「綺麗事に留まろうとしている」ということを感じます。例えて言うならば、津波によって泥だらけになっている家屋が目の前にあります。自分が手袋をはめて、着ている服を汚して率先して掃除をしなければいけないのに、いつまでも傍観者であり続け、行政が悪い、政治家が悪いといい続けている、と言ったらよいでしょうか?他者を非難することによって自分自身が責任回避をしているわけです。

そして、自分を無菌状態であろうとします。津波で多くの人が死んだことについて、「神はなぜそんなことを許すのか?」と言って、これまでも難病や交通事故などで不幸にして死んでいった人々が大勢いたのに、あたかも人がこれまですべて幸せに長寿で生きてきたかのように話し、以前も中国などの核実験で放射能汚染はあり、その他の化学物質で(タバコも含め)空気も食べ物も汚染されていたのに、「ゼロリスク」などという空想めいたことを話します。もうすでに自分たちの土地や自分自身も汚くなっているのに、他の汚れを見ると「汚された!」と言って騒ぐのです。

「政治」というのは、汚い仕事を率先して引き受ける一面があります。例えば、あるスパイを逮捕し、彼が戦争勃発危機の鍵となる情報を持っているのであれば、被疑者の拷問を禁じる法律があっても、超法規的措置を、法律遵守のぎりぎりの解釈の中で実行に移す、という面があります。このような汚い役をあえて演じて、「いいか、お前たちには責任は取られないからな。俺が後でなんとかするから。」という暗黙のメッセージを送って責任をあえて自ら負っていくのが政治家です。ところが、この頃の政治家は、国民の前で綺麗で優等生であろうとすることを第一とし、マスコミがそのことを追及し、そして国民の多くがそれに追従しているのです。

その2に続く)

(3月21日後記)昨日、瓦礫広域処理問題で、私が過去の阪神大震災における兵庫県の事例を紹介したところ、ある人が私を激しく罵りました。そして、その人は“クリスチャン”であります。読者の方のほとんどがおそらくは冷静であるかと思いますが、原発事故後の、誇張された情報に基づく放射能恐怖は今も継続中で、市民団体、ネット、マスコミによって拡散しています。(広域処理については公式情報と広報を既に環境省がサイトに掲載しています。http://kouikishori.env.go.jp/

そして、ある姉妹が昨日、分かち合ってくださった御言葉を紹介します。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇91:1-3)」

この御言葉を実践しておられるキリスト者の証しが、次で読めます。郡山に留まる牧師夫人と、チェルノブイリ事故以降もその地域に留まり続けたクリスチャンの話です。災害/福島・郡山市の牧師夫人 チェルノブイリ訪問し「郡山に留まる決意」強めおそらく福島の方々は今、他のどんな人よりも、ウクライナの人々から最も大きな慰めを受けられるのではないかと思います(2コリント1:4)。福島の地に主の栄光が輝きますように!