心が悲しくなること - 神の救いについて

ここ数週間、主に聖書を教える奉仕で忙殺されていましたが、豊かな神の恵みがありました。けれども、不思議なことに、いや、むしろ必ず起こることとして、豊かな主の祝福があるときに、落ち込みまで行かなくても、ちょっとブルーになることが多いです。エリヤがバアルの預言者と対峙した後に、イゼベルを恐れて逃げていたとき、彼は神に対して自殺願望を言い表しました。今は全く元気ではありますが、悲しくなる瞬間があります。

その原因は主に二つありますが、どちらも「霊魂の救い」に関することです。続けざまに、数多くの人から同じ質問を受けました。

「救い」は神のもの

一つは、「イエス・キリストを受け入れたとは言えない人は、やはり地獄にいるのだろうか?」という問いです。以前に「セカンド・チャンス論」でも取り上げましたが、日本において、いや他の国に行っても同じ質問を受けています。

私はいつも、同じ答えを出しています。それは「分からない」です。「イエス・キリストの福音を聞かなかった人々について、(また、赤ん坊の時に死んだなど、福音理解を知的にできない人間が死んだ場合など)その人が死後にどうなるのか、私は断言することはできない。けれども、はっきりと断言できるのは、安易に「天国にいます」とは絶対に言えないことだ。」そして、「たとえ、福音を聞いた人で、はっきりと信じたことを目撃できなかったとしても、死後に地獄にいるとは断言できないのだ。」と答えます。もしかしたら、どこかで信じたかもしれません。

そしてはっきりと断言できるのは、自分の身の周りの人々で、確かにその人に信仰による実を認めることが出来た人については、その人の葬儀において、「この人は今、天に凱旋しています!」と高らかに宣言することができることです。

これは、「神の選び」という主題についても同じことが言えて、「神が人を救いのために選ばれた」という真理は啓示されていますが、「神が人を滅びのために選ばれた」という文言は聖書にありません。イスカリオテのユダが滅んだとイエスは明言されましたが(ヨハネ17:12)、そのような特殊な例を除いて、神が人を造られるときに、滅びのために選ばれたという真理はでてこないのです。人間的な論理の類推で、「人を神が救いに選ばれるのなら、それ以外の人々は滅ぶように定めている。」と判断しているだけなのです。

そして何よりも、「死後の世界について、個々の魂の行く末について私たち人間がどうして裁きの座に着くことができるのか?」という叫びがあります。イエス・キリストご自身でさえ、生まれつきの盲人について、弟子たちが誰の罪でそうなったのかと聞いたときに、「両親の罪でも、本人の罪でもない」と言われて、判断を下さなかったのです!その代わりに、「神のわざがこの人に現われるため」と言われて、その苦しみの中に自ら関わり、慰めと癒しを与えられました。

モーセは、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。 (申命29:29)」と言いました。(参照:「神に隠されていること」原稿音声)私たちはなぜ、「隠されていること」をこうも自分たちのものにしたがるのでしょうか?そして、「隠されていることを議論する暇があるなら、はっきりと現されていることになぜ責任をもって応答しないのか?」という叫びがあります。(参照記事:「当事者になろう」)

魂が地獄に行ったかどうかについての疑問を神に対して抱いている暇があれば、自分自身が周囲の人々について、また遠くにいる人々について、もっと関心を寄せ、泣いて涙を流して祈り、その人が確かに救われることを求めないのでしょうか?それがイエス様の心であり、判断するのではなく、神の救いの業に参与すべく仕えるのです。

もう一つは、質問に何度も答えていながら、私自身が望まないことを語らなければいけないという葛藤です。どうして、人が地獄に行くことを喜ぶでしょうか?私の祖母は、私が病院に到着した直前に死んだのです。そして目の前でその死体を見たのです。私だって、絶対にそのようには思いたくないことを、けれども、神の真理のゆえに語っているのです。

・・・私がこのような不満を神にぶつけているときに、エレミヤの悲嘆を思い出しました。彼はバビロンによるエルサレムの破滅を預言しながら、そうなることを最も嫌がって、おそらくは目が腫れぼったくなるほど泣いていたことでしょう。そして主ご自身が、パリサイ人や律法学者に「忌まわしいことよ」と責めながら、エルサレムが破壊されることを涙しておられたのです。

アーノルド・フルクテンバウム博士が最近、来日され死後の世界について講演されたようですが、このように個人的な思いを吐露されたようです。「セミナーの中で、フルクテンバウム師は珍しく自分の家族のことに言及し(ホロコーストで17名の親族が死んだ)、「もしセカンドチャンスがあるなら、私は真っ先にそれを信じたい。しかし、私は自分の願いを重視するのではなく、聖書の教えを重視する。それが、神学者としての私の使命である。…」(元記事

主は、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。(エゼキエル18:23)」と言われました。私が泣いている以上に、フルクテンバウム博士が17名の霊魂の行く末について悲しんでいる以上に、主ご自身が最も、ご自分の愛する造られた者たちが、ご自分に背を向けて滅んでいくのを悲しみ、苦しみ、泣き叫んでおられるのです。

救いの妨げ

もう一つ、私をブルーにしている要因は、「人間の様々な思惑で、救いが必要な人々に届くことができない」という現実です。「無関心」がもっとも大きな要因でしょう。人々の救いが必要なところに、その人々の中に入るのではなく、留まっている姿を見ると悲しくなります。妻が一年ほど前に、ある教会で被災地への救援旅行の証をしたら、「なぜ政府はその人たちを助けないのですか?」という質問が来たそうです。そうしたら興味深いことに、その証しを聞いていた一人の姉妹が偶然に最近、別のところで会うことができ、その教会の悩みを他の同教会員と共に明かし、祈りの課題を挙げていました。「教会は大きいのだが、兄弟間の愛が冷えている。」

ちなみに私は、ロゴス・クリスチャン・フェローシップに来られている方々に囲まれていて幸せです。心が愛しているからです。そして、私が以上の神の救いについて話しても、きちんと応答して、今、生きている家族や友人に対して祈っているからです。私が語る世界宣教についての話も、自分の生活範囲外の人々であるのに、よく付いて聞いてくれています。

また、たとえ教会の奉仕、伝道活動をしていても、それが黙々と行なう機械のようになっていて、その対象である生きた人々への愛が見受けられない姿にも悲しみを覚えます。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(黙示2:3-4)」愛とは、九十九匹が正しくても、失われた一匹を捜し出すような、計算のないものです。「この人たちは心がかたくなだから、届こうとしてもしかたがない。」と見受けられるような姿を見ると、心が悲しくなります。

ヨナタンと道具持ちがペリシテ人の陣営にまで行き、大勝利を主が与え始めておられるとき、サウルは遠くから、祭司たちに囲まれて座っていました(1サムエル14:2,17)。主が行なわれていることに燃やされて出ていくのではなく、また、体裁が保てなくても主の御業の中でもみくちゃにされるのではなく、あくまでも「ミニストリー」や「教会」という名の中で自己保身していることはないでしょうか?


主よ、どうか神の民の中で御霊による奮い立ちが起こりますように。

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