患難前携挙論者の見る、自説の問題

(フェイスブックに7月16日に投稿)

説の正しさの議論ではなく、それを伝えている人々にある過ち

 興味深いです。書いたご本人は、患難前携挙を信じている人です。ここで焦点を当てているのは、患難前携挙説の間違いではなく、それを伝えている人々にある過ちです。

 いわゆる「預言が外れた」ということで落胆する人たちが多いということ。それは、預言について熱狂し始めて、必要以上に「読み込み」を行い、イスラエルの回復など、すでに成就した預言に注目するのではなく、起こり得るシナリオに注目をしすぎて、再臨の時期を特定してしまう過ちです。主ご自身も、分からないと言われたのに。

 もう一つは、預言に興奮している人々が本を書き、映画を製作し、ファンタジーを見せられているようになってしまっているということ。

 さらに、恐怖を植え付けるようなアプローチ(健全な恐れではなく)や、苦難は通らないという、ただ逃避する事しか考えていないようになることも問題。

 良い実が結ばれてるかが大事ですね。終わりの日の預言から出て来る実は、地の塩、世の光になること。弟子を造りなさいという命令に従うこと。

 黙示録において未来主義者であれば、「終わりは近い、弟子を造りなさい」という呼びかけ。千年王国後の再臨論者であれば、「弟子を造りなさい、終わりはあなたにかかっているのだから。」ということ。無千年王国説者であっても、同じ。

 以上ですが、私も全く同じことを感じています。今すぐにでも主が戻って来られると信じていますが、それはキリストが罪人を救うために来られたという福音を伝えるため、また、自分自身を清めるためにあります。ここから離れた教会の姿であれば、教えが正しかったとしても、誤っていると言わざるを得ないでしょう。

預言の成就は、神の完成に向けて、
反復的、重層的、そして螺旋的

(「もし現在のイスラエル国家が再び取り去られることがあったとしても成立する神学体系なのか?」という問いに対しての返答)

 ちょうど、自転車やバイクに乗るのと同じように、どちらかに偏りすぎて倒れることのないような、バランスの取れた預言解釈をしないといけないと感じています。

 聖書預言を見ると、神の完成に向けて、反復的に、重層的に発展し、終わりの日に完成するように、螺旋的に動ているように見えます。バビロン捕囚からの帰還の預言の流れは、将来の世界離散からの帰還の完成へと直接的につながっています。その前に、バビロン捕囚が起こるという預言でさえ、エレミヤのエルサレムの破壊を嘆いて預言する姿は、イエス様がローマによる破壊を嘆くところで、反復的に起こっています。

 現代イスラエルは、イスラエルの回復の過渡期にあると私は見ています。仮に、今のイスラエルが取り去られたとしたら、神は再び、過渡的なイスラエルの再生を行われるでしょう。終わりには、イスラエルを必ず、民族的だけでなく、霊的にも救われると信じています。

 預言が外れるといけないという過剰な慎重さで、近現代の国際環境で起こっていることと預言を見比べないことは、歴史の一貫性が失われかねない、また別の偏りだと見ます。極端なのは、今のユダヤ人はユダヤ人ではない、として、置換神学に依拠し、現代イスラエルを否定する陰謀論です。

 当地、中東の人々は、数千年前のことでさえ、自民族やその地域で起こったことを直接的に自分たちに当てはめています。イランの人々は2500年前のキュロス王を今に生きているかのように、敬愛しているように。預言はそうした連続性によって成り立っていると思っています。

 それから、地政学的な理由があります。ハルマゲドンのあるイズレエル平野が、エジプト文明とメソポタミア文明の間にあり、通商の要所であり、大国間の戦いの現場であり続けました。ですから、将来的にも同類のことが十分、起こりえます。

こうした「流れ」で見ていくべきであり、たった今、起こっている現象を「点」として預言パズルに当てはめるのではなく、「終わりに向けた流れ、傾向」として、確かに神はご計画を進めておられる、と私個人は見ています。

アメリカ式短期メモリーの歴史観

 私が聖書講解を、創世記から黙示録まで順番にしていて、そこで反復的に、螺旋的に預言が出てきているのに気づいていました。それから決定的だったのは、非西欧人の持つ、歴史の見方です。

 アメリカ人の牧師、ジェイ・マッカール(Jay McCarl)さんが、自分たちアメリカ人がいかに短期間しか時間を見れなくて、ヨーロッパ人は、歴史が長いので「流れ」で見る。そして(私を指さしながら)日本人のようなアジア系の人たち、中東の人たちは、歴史をもっとダイナミックに見る。何千年も前のことと、今を重ね合わせてみていく。物理的な時間ではなく「出来事」として見ていくのだ・・と説明を受けました。(動画

 いわゆる「預言解釈」で、陥ってしまいがちなのが、アメリカ的な短期メモリーです。だから、666がバーコードになったり、Y2Kになったり、マイクロチップになったり、今はワクチンになったりしますね。そういった「流れ」ですね、ということであれば同意・同感なのですが、それを点で見て、「だから、反キリストが現れますよ。携挙はその前なので、来年には主は来られるでしょう。」と過ちに陥ってしまっていると感じています。

 ちなみに、666は、元々、皇帝の像の前で拝まない、香をたかないと、市場で売り買いできないというところから来ているので、自分がだれについているのかという「忠誠」が問題にされているんだと私は思っています。

参考記事:「「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて
“いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?

プログレッシブ・ディスペンセーションについて

 私には神学体系はよく分からないのですが、ある方から、以下の説明をいただきました。私がその聖書解釈に沿ったものなのだそうです。

 「明石先生の歴史観・解釈はディスペン神学においては、第一世代の「クラシックディスペン」、第二世代の「修正ディスペン」には収まっておらず、第三世代の「プログレシブディスペン」の領域です。私も共感しています(この遠回しの言い方、色々としがらみがありますのでご理解ください)。ディスペン同士の中で意見に相違を感じる時、十中八九、この3つの立場の違いから生じています。第一・第二世代は預言成就を単一的にみていますので、「反覆的」、「螺旋的」とは絶対言いません。

 黙示録の解釈において、第一・第二世代と、第三世代の違いは如実に現れます。プログレはまさに「反覆的・螺旋的」に黙示録を読みます。それ以前の世代は「単一的」に読むので、「13章の女は誰それだ」といった読み方だけになります。黙示録の解釈におけるディスペン内の違いについては、「Four Views on the Book of Revelation 」がかなり分かりやすく書いているので参考になると思います。一部引用を。

特に『黙示録』について、プログレシブ派は『すでに/まだ』という解釈法をその時間軸に適用し、次のように述べています。『すでに』とは、紀元1世紀にカエサル崇拝とユダヤ人によるキリスト教徒迫害が歴史的に成就したことを意味します(過去主義とは意味合いが異なりますが)。『まだ』の部分は、パルーシアで実現することを待っている預言(大艱難、反キリスト、パルーシア、千年王国)に見られます。 p29

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