第二回目 気仙沼救援旅行 4月14日

気仙沼は、地元仙台の人たちにとっては身近な所ですが、私は一度も行ったことがありませんでした。全く新しい所です。けれども、姉の高校・短大の同級生がそこでボランティアで働いておられること、またLCFの悦子さんの知人の親戚の方がそこにおられるということで、そこに行くことに決めました。

最短は、三陸道また海岸沿いの国道45号線を北上することですが、情報によると今は非常にそこが混雑しているとのこと。岩手県の一関ICまで東北道まで北上し、それから国道で気仙沼に入る道を通りました。2-3時間かかります。

気仙沼は典型的な三陸の町です。「リアス式海岸」といって、高台に囲まれた湾岸があり、その湾は非常に入り組んでいます。そのため、津波の勢いも非常に激しかったのだと思われます。また、岸に海水が漏れて入ってくるほど地盤沈下を起こしていました。

被災者の方々から出てきたのは、チリ地震津波のことでした。その経験から津波そのものは予想できたものの、これほど高波になるとは想像すらしていなかったという感想です。それで大丈夫だろうと思って家に引き返したり、逃げるのを遅らせたりした人が波にさらわれた、とのことです。

まず悦子さんの知り合いの親戚のご夫妻のところに救援の品々をお渡ししました。単一電池が売り切れて困っていたとのこと。涙を流して喜んでおられました。最後に山東さんがお祈りしました。

そして、その方の情報に基づいて、南町そして魚町が、物資が必要であろうということでした。まず、南町に行ってみました。そこは少し海岸から離れていた商店街ですが、家は半壊もしくは全壊です。そこに家の整理をしている人々がかなりいました。一人のおばさんに声をかけたら、たいそう喜んでくださり、またすぐ傍の近所の方も来て、喜んでくださいました。そして山東さんが最後にお祈りでしめました。

そして、何軒か同じ通りの人々も同じような反応で、私たちの分担がだんだん決まってきました。私が、道案内と車から降りて声をかける係り。山東さんが祈り係。その他の人はワゴン車から必要なものを取り出す係です。山東さんがどれだけの未信者の人たちのために祈られたか知れません!とにかく、涙を流して喜んでくださいました。物だけでなく、祈ったことによって、心にも贈り物を渡せたのではないかと思います。

次に行った魚町も同じ反応です。水が出ないところもあるので、水を持っていく人、また給水車までの水のポリタンクもかなり渡せました。そして缶詰などの食料、ふりかけなども重宝がられました。

そして今回最も喜ばれたのが「キムチ」です。前日の東松島でバーベキューのために韓国の教会の方が二百人分作ってくださったのですが、かなり余ったので渡すことが出来ました。ご飯と味噌汁というような生きるための食べ物はあるのですが、避難生活も長期化しているので、このような嗜好品に飢えている感じです。

そして、岸辺のところで荷物整理をしていましたが、そこでも私たちを三階の建物から見下ろしていたおばあさん二人が支援物資を取りに降りてこられました。

そして鹿折(ししおり)地区に行きました。ここは「鹿折川」が流れている所で、いわゆるニュースで出てきた全壊地域、船が陸地に乗り込んで、また火事が起こった跡が残っています。

そして、姉の同級生の人からの情報で、寝たきりのおばあさんの家にお伺いしました。けれども、いませんでした。隣の家の人によると、ちょうどその日の朝、入院されたそうです。

そして気仙沼湾の方面に向かうと、鹿折地区と同様、全壊状態で道も寸断されています。これでは物資援助もできないので、「それでは南町に戻ってみよう」ということになりました。そうすると、やはり人がいます。それでそして最も大きな避難所の気仙沼小学校のふもとにある、小さな避難所にも行き、そこでキムチ等をお渡ししました。

さらに南町の商店街を巡り、数多くの人々に渡すことが出来ました。一つの陶器を売っているところは、重要文化財になっている蔵が残っており、ここら辺では津波に流されずただ一つ残っていたものだ、とおっしゃっていました。

そして最後に九条小学校に向かいました。内側にあるので、かえって見過ごされている避難所です。そこの長の人にお会いすると、なんと校長先生でした!21日から新学期が始まるとのこと。これは大変です。

そして私たちは、一関経由で仙台に戻りました。

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