最近流行りの「新しい福音」 その2

その1からの続き)

なぜ、そんなに人気なのでしょうか?

 キリスト教の良い知らせをこのように伝えるのは、非常にいかしています。人気を博しているのは、いくつかの理由があります。

1.部分的に本当だからです。御国は到来しました。クリスチャンは愚かなことをしえます。新しい福音の諸部分は、正当であることが多いです。

2.架空の議論の相手を作っています。その悪人は、終末を煽る路傍伝道者、十字軍、福音派の救いの見方を風刺したものです。

3.新しい福音は、間違った事を、はっきりそれらの間違った事を言わずして信じさせていきます。すなわち、新しい福音を信奉するクリスチャンは、批判を受けずに済みます。なぜなら、信じることは重要ではない、地獄はない、イエスだけが唯一の道ではない、神の怒りはない、悔い改めは必要ない、とは実際には言わないからです。これらの歪曲ははっきりとは述べられませんが、新しい福音は、未信者が、その構成から当然なのですが、そういった結論を出すように伝えられるのです。つまり、新しい福音は、クリスチャンではない人が、自分の好きなように行くことができる余地を与え、けれども、他のクリスチャンからの批判を避ける抜け道を備えています。新しい福音の説教者は、挑戦を受けた時はいつも、「それらのことを私が信じていないとは、言ったことがありません。」と言うことができます。

4.新しい福音は取り扱いやすいです。人々をそのままの姿に届き、そのままの姿に置いたままにします。愛しなさい、自分の隣人を愛しなさい、という呼びかけができます。人を裁く態度、不寛容、宗教臭さを何一つ想起させない方法で訴えることができるのです。これは当然、人気を博するでしょう。自分の聞きたいことを教え、自分のできる事柄を与えるからです。

5.新しい福音は新しい息吹を感じます。それゆえ、特に若い人々にこのメッセージは魅力的です。彼らは感動、興奮し、この大きな使命の一員になったという目的を得ます。そこには、キリスト教の歴史、教理、堅苦しいものを抱えることなく、参加することができます。愛の革命に、誰が加わりたくないでしょうか?

6.新しい福音は、つまずきを与えません。だからこのメッセージは魅力的なのです。悪い者たちは、自分たちの仲間の「外」にいます。これは、私たちは誰でも問題になることです。福音を抑えて言う傾向を持っています。魅力的なところだけを伝え、キリストは慰めるだけでなく、対決されることもあることを話しません。他人の罪を問い質す以上の対決が必要です。他の悪いクリスチャンと自分を区別するために、新しい福音を用いるのは非常に簡単です。それによって、あなたは良く見られるし、クリスチャンではない人が信仰を持つことができないのは、他者の偽善や失敗が妨げになっているからだ、ということを念押しすることができます。悔い改めや裁きについての話はありません。イエスはご自分を神としたという法外な主張によって殺されたのであり(マタイ26:63-66;27:39-43)、包含する愛のゆえであるとほのめかしている部分は一つもありません。新しい福音は、救いのことを、宇宙論的なものだけに厳密に絞って語っています。実際は、地獄というものが仮にあったとしたら、それはほとんどの人にとっては大した問題にはならないだろう、と想像する余地を大きく残しています。

何がそんなに間違っているのでしょうか?

 新しい福音に欠けたものを見るのは難しいことではありません。欠けているのは古くからある福音です。使徒たちによって宣べ伝えられた福音、コリント第一15章で定義されているもの、後に使徒信条で要約されたものです。

「けれども、あなたが新しい福音と呼んでいるのは、古い福音に取って替わるものではないですよ。それらのものはみな信じています。」

 分かりました。でもなぜ、言わないのですか?自分の友人に私的に話すだけでなく、どこかの信仰表明に載せているだけではなく、公の場で言わないのでしょうか?意地悪になれ、と言っているのではありません。でも、もっと明らかにすべきです。組織神学の全てのお荷物を紐解く必要はありませんが、地獄は大した問題ではないというのが、いかにイエスらしくないのか(マタイ10:26-33)という印象は残すべきです。そして、信仰と悔い改めの必要を語らないとき、非常に非使徒的になっているのです(使徒2:38;16:31)。

「けれども、今は橋渡しをしているだけです。まず文化に合わせて、理解できる言葉で語り、最も合点の行く福音の部分を伝えているのです。信頼と注意を勝ち得ることができたら、その後で弟子作りをして、罪、悔い改め、信仰、また他のことを教えます。これは単に、福音伝道の前座です。」

 その通りです、私たちは終わりに話さなければいけないことを、初めの会話で持ち出す必要はありません。けれども、新しい福音は伝道のきっかけを本当に作っているのでしょうか、それとも、クリスチャンではない人たちに単に誤った安心感を与えているだけではないでしょうか?さらに会話を続けるための戸を開いておくことと、クリスチャンではない人が既に行っていることと同じように聞こえるように、キリスト教を心地よくさせてしまうのとは話が違います。新しい福音についての最も良いものの形態を取って、水面下では、古い福音を締め出しているのが現実なのです。

 パウロの、アテネにいるクリスチャンではない人々への接し方から、私たちは多くを学びます(使徒17:16-34)。まず、その町が偶像でいっぱいなのを見て、憤りを感じました(16節)。彼の福音説教は、他のクリスチャンに落胆して導かれたのではなく、不信仰に対して怒りが燃え上がったのです。次に彼は語る許可を得ました(19-20節)。彼は厳しく非難することはしませんでした。進んで聞きたいと思う人々に語りました。けれども、どうやったか見てください。彼は文化の文脈の中で語りましたが(22-23,28節)、そこから彼は、アテネの人々の神理解と実際の神の姿とを対比しています(24-29節)。彼のメッセージは、生活のありようについてではなく、まことの神を正しく拝むことについてでした。その後で彼は、悔い改めを説き(30節)、裁きを警告し(31節)、イエスの復活を話しています(31節)。

 その結果、あざ笑う人たちがいました(32節)。新しい福音をあざ笑う人がどこにいるでしょうか?そこには好ましくないもの、というのがありません。野暮なクリスチャンについて、愛する神について、世界を変えることについて、そしておそらくほとんどの人は地獄に行かないであろうということについて、こうしたメッセージにはつまずくものがありません。このメッセージには、あざ笑う要素がないのですが、アレオパゴスにおけるパウロの説教にはあったのです。そして留意していただきたいのは、アテネにおけるこの教えは、キリスト者の語るべき言葉全ての導入部にしかすぎなかったのです。これは単に始まりにしか過ぎず、何人かはもっと彼から聞きたいと願いました(32節)。パウロは初めの一声で、クリスチャンによれば決して言う勇気のないことまでを言いました。アテネでパウロが言ったことのすべてを一度に言えないかもしれませんが、「福音伝道の前座」において、悔い改め、裁き、信仰の必要、正しく信じる重要性、十字架と復活の中心性、罪の奥深さ、人の堕落など ― これらが私たちの実際の伝道だと一部の人たちが言っているものが ― 意地悪い、人を傷つけるキリスト教の、時代遅れの遺物なのだ、という印象を与えては決していけないのです。

最後の訴え

 どうかお願いです、もしあなたが新しい福音というような類に魅力を感じているのであれば、他の仲間のクリスチャンをいつもスケープゴートに仕立て上げるのがはたして公平であるかどうかを考えてください。もしイエスのように宣べ伝えるのであれば、イエスは、生活の有りようについてではなく、悔い改めの信仰を呼びかけられたこと(マルコ1:15)を考えてください。そして、クリスチャンではない人々に優しく語る忍耐や謙遜にかけているかどうか考えるにあたって、あなたの神が一方に偏った姿の漫画のような神になっていないか考えてみてください。つまり、罪を問題視しない神(ここでの罪は、単に隣人愛がないという以上のものです)、怒りを下されない神(時々、裁く者に対して裁きを行われる以外は)になっていないか、考えてみてください。十字架と、世の罪を取り除くためそこにつけられた神の小羊に、相応の注意を寄せてください。あなたのクリスチャンのメッセージが、使徒の働きにおける使徒たちが世の人たちに接した時に語ったことと同じように聞こえているか考えてください。

 これは軽視できる問題ではありません。強調点が異なる、という問題ではないのです。新しい福音では教会を維持できません。心を変えることができないのです。救いを与えることはできません。したがって、私たち福音派の学校、大学、会議、出版社、教会が、古い福音と新しい福音を見分けることができるようにしておくのは、非常に重要です。

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