「慰安婦」と「反核」

橋下氏の慰安婦に関わる発言から、今の日本の教会にある問題を考えていきたいと思います。

橋下徹大阪市長記者会見主催:日本外国特派員協会
「私の認識と見解」日本語版全文

橋下さん、話の論点を摩り替えています。「女性の人権を尊重する立場」を言い、「女性を性の対象として利用することは、断じて許されない」と言っていますが、あのぶら下がり取材で、風俗を活用することをはっきりと薦めていたのですから、嘘でしょ!と突っ込みたくなります。そして、軍人による女の利用が、日本だけでなく世界にも共通の問題だと言っているのはその通りですが、「私たちが謝まらなければいけないし、そして世界各国も自国の問題に直視すべきだ。」「そのような習慣をなくすよう努力すべきだ。」とまで居直られてしまう論法は、「まだ他人のせいにしているな、この人、反省していない」と思われるだけです。

やはり「風俗の活用」が彼の本音です。その証拠に、風俗発言については「合法であっても、女性の尊厳を貶める可能性もあり、その点については予防しなければならないことはもちろんのことです。」と力が全然入っていません。だって、彼自身が大阪府知事になる直前までずっと利用していたのですから。

原爆廃絶運動も説得力がない

でも、よく考えてください。これと同じことを日本の人たちは「原爆」についてやっています。日本がその戦争行為の中で、敵からの本土空襲、沖縄上陸、原爆投下を招いたのに、それを行なった米軍に対して、日本の戦争責任を認めると言っても、原爆投下について戦争犯罪として糾弾するのは、「結局、戦争で敗れたことを認めたくないのね。」と受け取られるのがおちです。

私は米国の原爆投下の裏に隠されている戦略的意図について話しているのではありません。原爆製造競争においてソ連に対する恣意であるとか、人体実験的な側面があったとか、いろいろな話は私も知っています。いま議論したいことはそういう事ではなく、一般的な大枠の歴史において、あの原爆投下は「太平洋戦争」また「第二次世界大戦」の一部であり、その最終段階の一つであったということです。

もっと真摯な平和の追求をしなければ、反核の思いは世界に伝わりません。長崎元市長本島等氏が「広島よ、おごるなかれ」という小論文を書き、また自身、被爆したカトリック教徒、永井隆氏が「徹底的に敵を赦し、愛せ。そうすれば戦いはなくなる。」という詩を数多く残しましたが(参照ページ)、その祈りと瞑想が、原爆に対する日本全体の意思にはなっていないのです。ここが問題です。

私たちが声高に米国の原爆(実験や製造)に対して反対を叫ぼうとも、米国人としては、「これでは真珠湾攻撃の続きじゃないか。日本は事あらばまた戦争したいのか?」というように身構えます。好戦的なのは右翼だけでなく実は左翼も同じなのだ、ということに気づきませんか?左翼は、反核という言葉を武器に反米という闘争をしているのです。(ウィキペディア

真実な反戦は静かな営み

しかも日本は、ヒットラーのような個人独裁ではなく、総国民で戦争を煽り、それで当時の内閣を戦争へと動かしたと言えるのに、自分たちのことは棚上げにできないのです。

敗戦国であるドイツは、連合軍がドイツの都市に落とした爆弾、その空襲について、その惨劇はそのまま伝えていますが、それをもって爆撃した英米を非難したりなぞしません。だって自分たちが引き起こした戦争の中で、敵からの最後の留めを受けたのですから。そしてイギリスもまたドイツも、”静かに”互いの償いをしています。(参照ページ

原爆についても、その惨状を淡々と、静かに、けれどもしっかりと語り継げればよいのです。あの悲惨を良いと思う人は誰もいないのですから。そうすれば、自ずとアメリカ人にも「これはいけないものだ、あの原爆も果たして投下は必要だったのか?」という心が芽生えるかもしれないのです。

あるオランダ人ジャーナリスト氏が、「日本の左翼の人を、ちょっと突っ込んだら右翼に変えることはいとも簡単だ。」というようなことを自著に書いていたのを覚えています。右翼のほうが、自分の気持ちに正直です。左翼は自分は「平和」を追及していると思い込んでいるから、やっかいです。右翼だけでなく左翼も、実際の弱者や当事者に寄り添っていないかぎり、実は同じ床に寝ているのです。

本音は「復讐」

アラブ諸国では、「ヒロシマ」という言葉がどのように使われているかご存知でしょうか?「復讐」という枠組みで使われています。アメリカの残虐性を証明するものとして、アメリカへの復讐の正当性を証するものとして、理解されているのです。

参照記事:「非寛容・圧力・暴力」「『日本はどう報じられているか』(広島市議員による記事)

それを「誤解」だと言えるのでしょうか?橋下氏の心の内を私は裁くことはできませんが、けれどもそこにあったのは「風俗の活用」でしょう。同じように、米国同時多発テロの二日後、日本キリスト教会指導者は、まだ世界貿易ビルで殺された人々の遺体を捜索している悲惨な状況の時に、攻撃したテロリストではなく、米国を非難し、ある牧師は、原爆を持ち出して「テロ国家」呼んだ、無慈悲な声明を出しました(参照)。そんな言葉が出てきたのは、本音ではテロリストの憎悪や復讐と同じ気持ちになっていたからではないですか?正直になりましょう。

心の中の「戦後処理」

こういうことを見ると、日本の戦後処理はまだ続いているのではないか、と思います。それは「心の清め」です。橋下氏の心からは「風俗」が露になりましたが、同じように平和主義を唱える人々の心にも「復讐」という汚れが露になりました。こうしたものが、清められなければいけません。

ですから、徹底的な神の主権への服従なしには、戦争責任など取れようがありません。イスラエルとユダは、アッシリヤまたバビロンの侵略を主なる神によるものだとする、預言者の言葉を受け入れなければいけなかったのです。その二国の残虐性はものすごかった。だから、ネブカデネザルを「神のしもべ」と呼ぶ預言者エレミヤにユダの人々はひどく怒り、彼を迫害したのです。(注)我々日本のキリスト教会は、日本人が電車の中で人にぶつかってすぐ謝るような「人の前での謝罪」はよく出来ていると思いますが、「神の前での謝罪」が、自分の内にあるプライドが邪魔してしまうので、ここの部分を主の憐れみによって克服する必要があるでしょう。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:3-4)

(注)韓国の中央日報の論説記者による「原爆は神の懲罰」発言は、上の議論と背景が異なります。韓国人のこのような発言には、「何々のバチが当たったのだ」という程度の、仏教の因果応報のような韓国土着の宗教、因習的な考えを発祥としています。東日本大震災直後に、このような異教的な考えを大教会の二人の牧師が発したのですから、人の苦しみに対する神学が疎かにされているなと少し悲しくなりました。(記事)原爆も、津波・原発事故も、実に悲しい出来事であり、その悲しみを共有するところに神のお心があります。

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