初代教父たちの声

神のご計画全体を眺めるにあたって、教師はその管理を任されていますが、その真理の体系をしばしば「教理(doctrine)」と呼び、聖書全体の理解把握の体系を「神学(theology)」と呼びます。この営みはとても大切なもので、私たちは真理の柱と土台の上に教会を建てているわけですから、しっかりと行わなければいけません。

しかし、私たち人間は、どうしても信仰というものを整理したがる傾向にあります。教理や神学であっても、聖書そのものによって常に精査されていかなければいけない対象であるのに、教理や神学の上に信仰を立てようとする傾向があります。そのほうが理解しやすいからです。けれども、神は常にご自分の言葉を受け入れ、信じるように、また悟るように命じられているのであり、知的体系として把握するように命じられているのではないのです。

今回の、聖霊の賜物の今日の有用について、「預言や異言、癒しなどの徴の賜物は、聖書の正典が完成するまでに、神が権威を与えるため使徒たちに賦与されたものであり、それ以後は終焉した。」とする終焉説を取る人々は、そう信じない人々のことを「従来の教会の立場ではない」として、歴史的キリスト教から逸脱していると断じます。

しかし、前の二つの記事で示しましたように、いわゆる20世紀初頭に始まったペンテコステ運動の起こる前から、保守福音派においても尊敬されている指導者たちが新生とは別の聖霊体験をしていたし、その賜物を用いていたのです。そして何よりも、十二使徒死後の教会指導者である初代教父たちははっきりと、聖霊の超自然的なものを含む賜物が、教会で用いられていることを教えているのです。

Continuationist Voices from the Grave
(墓から叫ぶ、継続説者たちの声)

さらに、宣教師としての立場から言わせていただきますと、個人的には終焉説は近現代の先進国に都合によい理解体系だと思っています。宣教地においては医療技術が発達していない中で、バプテスト派や長老派のような保守的な教会であっても変わりなく、癒しを強く信じています。癒しによって信仰の確信へと導かれた兄弟姉妹に数多く会ってきました。そして宣教師も入るのが困難な中東地域では、幻や夢の中でイエスに出会い、教会の戸をくぐる時にはすでに回心していた、というような証しがかなり多いです。ですから癒しや奇跡が現代に起こるのか?という議論をしていたら、目を丸くされるぐらいの雰囲気です。世界的に見ますと、聖書の言葉をそのまま受け入れ、信じる人々の間に大きな霊的覚醒が起こっています。

もう一つ、終末論も取り上げましょう。私たちは、キリストが地上に再臨されて、それでエルサレムから世界を統治されるという「千年期前再臨説(Premillennianism)」に立っています。千年期前再臨説を信じる人々の間では、さらに携挙(Rapture)とも呼ばれる空中再臨の時期について意見が分かれますが、私たちはダニエルの預言した第七十週の七年間、すなわち患難期の前にキリストが教会のために戻ってこられるという「患難前携挙説(Pretribulationism)」を信じています。日本においては、先駆的に体系化して教えていた人として、召天された高木慶太牧師がおります。そして、最近ではティム・ラヘイ氏による「レフト・ビハインド」という小説シリーズは、患難前携挙説が現実の世界でどのように展開していくか、想像したものです。

私たちの立場としては、以下の文書と音声メッセージを聞いていただければと思います。

患難と携挙」チャック・スミス

テサロニケ人への手紙第一 「携挙の慰め」
テサロニケ人への手紙第二 「携挙の救い」
患難前携挙説の根拠
患難前携挙説の霊的効果
(上の二つは明石によるもの、下の二つはMGFの菊地さんによるもの)

この信仰体系についても、「熱狂的」「まるで知的体系がなっていない」「極端であり、聖書釈義が幼い」など、様々な呼ばれ方をします。しかし私はそれでも、聖書のことばをそのまま信じていく生き方を選んでいます。もちろん、そうした人々のご意見は拝聴します、つねに聖書本文に対して謙虚でなければいけないからです。しかしパウロがテモテに、「この命令は、きよい心と良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を、目標としています。(1テモテ1:5)」と言った通り、論議による知的体系が神の目標ではなく、主の到来の希望をそのまま御言葉に沿って宣言することによって、聞いている者たちが希望と慰めを持ち、福音を伝える霊に満たされ、聖めに導かれることが目標なのです。

そして本題に戻りますが、使徒たちの後を継ぐ初代教父たちはどう考えていたのか?結論から申し上げますと、明確に文字通りの「千年期」を信じていました。キリストが到来し、死者の復活があり、千年間のキリストの統治があり、エゼキエルやイザヤの見た幻の通りになる、というように信じていました。そして携挙についていうならば、非常に興味深いですが、患難期を聖徒たちが通るという患難期後携挙を信じているようでいて、今すぐにでも主が戻られる切迫性と、ご到来によって患難と反キリストの現れを免れるという意義を強く語っています。自己矛盾しているようでそのまま信じている姿は、使徒たちの教えをそのまま真剣に信じている彼らの姿を浮き彫りにしています。(注:ちなみに、上の「患難と教会」の冊子を読んでいただければ分かりますが、大患難がこの地上を襲うことは神の怒りの現れであり、それをキリスト者は免れるという強い意義を私たちは信じています。キリスト者が救われるというのは、神の怒りからの救いであるからです。しかし、これはこの世における患難を否定するものではなく、むしろその患難においてなおのこと希望と慰めが与えられるための携挙なのです。)

A Brief History of Early Premillennialism Thomas Ice
(千年期前再臨説の歴史のまとめ トーマス・アイス)
A Brief History of The Rapture Thomas Ice
(携挙の歴史のまとめ トーマス・アイス)
Pretribulational Rapture in 17th & 18th Century England by Dr. William Watson
(17,18世紀のイギリスにおける患難前携挙説 ウィリアム・ワトソン博士)

以前、ナルニア王国物語の映画の題材から、この問題を取り上げました。ご一読ください。

カスピアン王子の角笛

「聖書通りの情景が見られないことに伴う、神の約束の神話化」と言えば良いでしょうか、確かに使徒たちを通しての奇跡の証しは今の時代は少なくなっています。また、当時、ユダヤ人の間にあった強烈なメシヤ待望の背景にあった危機的状況も希薄です。そこで、「医療技術を神が発展させてくださったのだから、それを通して主は働かれるのだ。」「イスラエル国の物語は教会によって比喩的に成就していくように神は意図されていたのだ。」と結論づけてよいのでしょうか?私は違うと思います。一途に神の約束を待ち、信じ続けることこそが神の国を相続する鍵になると信じています。

「初代教父たちの声」への7件のフィードバック

  1. 突然すいません。
    私はイエスを信じたいと思っています。
    でもなかなか信じられません。
    奇跡を目の前で見ることができれば信じられそうな気がします。
    現代も奇跡が起きるのならどこに行けばみれますか?

  2. いつも興味深くブログを読ませていただいております。とても恵まれています。私はロサンゼルス郊外の日系人の教会で牧師をしております。
    私もクリスチャンになったばかりのころチャック先生の「ハーベスト」という本を読んでとても励まされて以来カルバリチャペルのたくさんのリソースを学びに使っています。こちらでのブログで「異なった火」や「進化論」のことを読ませていただいたすぐ後に教会でそれらのテーマについて議論になったこともありました。
    ところで「携挙」についてですが以前私も使徒、初代教会、教父が終末のタイムラインをどういう順序で理解していたのかということを調べたことがありました。どのテキストだったか定かでないのですがアーノルドフルクテンバウム先生は初代教会、教父の終末理解では例外なく患難期前携挙の立場をとっていると書かれていました。テキストを見つけたらお知らせします。
    いずれにせよ私自身も聖書本文をそのまま受け止めれば前携挙の立場に導かれるのは自然なことだと信じています。
    ロゴスミニストリーに益々の祝福がありますように。

  3. いちかわさん、お返事が遅れてすみません。どこかでもしかしたらお会いしているかのような、いろいろな共通項があるんですね。私も「ハーベスト(収穫の時代)」はカルバリーについて一番初めに触れた本でした。

    患難前携挙については、私は、どうも他の人々から患難を受けたくないからそんなこと信じているんでしょう?とよく言われます。主イエス様と顔と顔を合わせる日が今にでも来るかもしれないという、花嫁の期待感なのに、ですね。また、大患難を聖徒たちの信仰の試練や鍛錬のように捉えているのもおかしいと思います。どれだけ恐ろしい裁きであるかを大患難は示しているのに、地獄が鍛錬や聖化の場ではないと同じですね。そして一番大きいのは、他の説になるとイエス様と会うよりも、反キリストの現れのほうに目が行っている点で、シンプルなクリスチャン生活とはちょっとずれるのではないか?と思います。自力で対抗していくような、窮屈さを私は感じます。

  4. 遅くなりましたが先日は失礼致しました。
    さて、艱難期前携挙説は18世紀末から19世紀にかけて登場した。それ以前は艱難期中or後だと何かで読んだのですが、今まで携挙の時期に付いて勉強してきていませんでした。それは私にとって、いつでも構わないからでした。
    ところで、前以外の中や後についても、やはり勉強されてきたかと思われますが、そうなのでしょうか? 是非教えていただけると幸いです。

  5. エシュコルさん、その話をブログ記事で扱いました。そのように言われているけれども、実は初代教父の時から、今すぐにでも到来するという聖書理解があり、患難前携挙であったということです。

    私は患難中と後について、彼らが取って来る聖書箇所を読んで、なるほどと思うところはありますが、いちかわさんにお返事したような理由で、前説となっております。

  6. いつも一方的にお世話になっています。艱難前携挙説をとると卑怯者のような感じがして、自分がまだ、じぶんの命をおしんで、キリストに従い得てない弱さも自分で分かってましたから、でも、キヨキヨさんの話を聞かせて頂いている時まるで主から直接御言葉を聞かせて頂いているかのようでした。衝撃的でした。まさに主からのメッセージだと思いました。そして気づいたのです。他の説をとるとキリストにフォーカスするのはなく、反キリストにフォーカスしてしまう事に。私の場合ですが・・・。反キリストは誰かと、世の中の事象にも目がいきすぎてしまってました。

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